第1章 まさかお客が来るなんて 5
それからしばらく、ヘイゼルはいつもの夜と同じようにお茶と書物にのめりこんでいた。
夜のお茶と読書は彼女が物心ついたころからの習慣だ。
なにしろ、もてあますほど夜は長いので。
ベッドにもぐりこみ、背中にクッションをいくつもあてて、厚手のガウンを肩からかけて本のページをめくる。読むのは小説ではなく地理や歴史だ。
少し考えてみたい一文に出会うと、お茶に手を伸ばし、それを少しずつすすりながら幾度も頭の中でその一文を繰り返してみる。
難解な文章をいやだと思うことはない。むしろ難しいくらいがよい。
考えすぎて疲れてくると、表面にラズベリージャムを塗ったクッキーをつまむ。甘すぎないクッキー生地にラズベリーの酸味が嬉しい。ぷちぷちした種の歯触りも。
ガーヤが作るお菓子はどれも好きだが、秋になると必ず作ってくれるこのクッキーは、見た目の愛らしさもあって特別にお気に入りだ。
乾いた音を立てて本のページをめくる。
この紙を繰る手触りもヘイゼルは好きだった。自分の手で未知の世界へ自由に分け入る感じがするから。ゆえにあまり薄手の本は好みではなくて、そこそこ厚みのあるしっかりした作りのものが良い。かといって膝に乗せておくと足が痺れるほど重みのある本も困るのだが。
「なあに、忘れもの?」
本に没頭していたヘイゼルは、顔も上げないままでそう答える。小さく扉があいた音がしたから、てっきりジャジャだと思いこんだのだ。
「んー、ちょっといいかなと思って」
「よくありません!」
びっくりして、ヘイゼルは思わず音がするほど勢いよく本を閉じてしまった。
確信犯の笑顔を浮かべて、アスランが戸口に立っている。ヘイゼルはかけ布団を胸元まで引き上げて彼を睨みつけた。
「女性の寝室でしょ! しかも夜!」
「うん、そうだね」
彼は悪びれない。
「しかも黙ってあけたでしょうっ、なぜノックしないの」
「えー、扉は黙ってあけるものじゃない?」
ちょっと、ちょっと。
それどんな泥棒。とヘイゼルは思った。
「……さっきあなたのことを礼儀正しい人だと言ったのは訂正するわ」
「そんなこと言ってくれてたの、ありがとう」
「お礼言うならそこからまず出て、ノックして中から返事があるのを待ちなさいな」
「そしたら入れてくれる?」
「入れませんけど!」
「じゃ黙ってあけて正解だね。ねえ、夜のお茶なら一緒に飲もうよ」
ベッドサイドのお茶とクッキーに目をやりながらアスランは言った。
その言葉にヘイゼルはうろたえた。
これまで、誰かと一緒に夜のお茶をしたことなんてない。だってガーヤには家の仕事があるし、ジャジャにだってそうだし。夜はいつでも一人の時間だ。当たり前すぎて、それがさみしいことだとも思わないくらいに。
だが経験がないだけで、普通の女性ならどうするものかという知識はある。ヘイゼルはつんとして言った。
「普通、夜のお茶は女性同士で飲むものなんじゃないのかしら」
「なんだったら俺、女言葉でしゃべってあげてもいいけど」
「けっこうです!」
思っていたより大きな声が出てしまって、ヘイゼルは少し赤面する。こんなふうに大声を出すことは、普段ない。
アスランはというとそんなことは気にしてもいないようで、小首をかしげて言い直した。
「あたしアスリーン。ねえヘイゼル、あたしとお茶飲みましょうよ」
「してくれなくていいから!」
「だって聞きたいことがあったから。ねえ、なぜこんなところで素性を隠して暮らしてるの」
言い当てられてぎくりとしたが、そこは隠して、しれっと言い返す。
「──体が弱いから」
ふうん、と彼は考えこむ様子を見せた。
「体が弱いから、ねえ」
「そうよ。ここに住んでいるのは私の体が弱いせい。ほら、ここは空気がいいでしょう」
「それだと微妙に答えじゃないと思うから、もう一回聞くよ。素性を隠して、なぜこんな人里離れたところにひとりで暮らしてるの」
「ひとりじゃないわ、母と弟が一緒よ」
「うん、表向きはね」
ヘイゼルが眉をしかめたのをアスランは見たはずなのに、さらに続けた。
「あの二人はあなたの本当の家族じゃないよね」
「なぜそう思うの?」
ここでひるんではいけない気がして、ヘイゼルはじっと彼を見つめ返す。
相手の瞳から目をそらさない。まばたきもしない。呼吸は深く、大きく。
「着ているものが私だけ上等すぎるからかしら。それなら一人娘にせめていいものを着せたいのだと母は言うわよ」
「いや違う。そこじゃない」
なんて言ったらいいのかな……と彼は言葉を選びながら口にする。
「君が母上を見るまなざしは、娘のそれじゃなかったからね。あれは届かないものを見る憧れのまなざしだ」
ヘイゼルはどきっとする。
「そして、弟が君を見る目つきにもそれがある。家族ならあるはずのないものだ」
不覚にも黙りこんでしまったヘイゼルに、彼はたたみかける。
「もう一度だけ聞くね、次はないよ。──君たちは、本当の家族ではないんでしょう?」
「本当の家族だわ」
なんなく見破られたのが悲しくて、悔しくて、なぜあなたにそんなことを言われなければならないのという憤りの気持ちもあって、ヘイゼルは力を込めて言い切った。
ガーヤとジャジャと自分。この三人が家族ではないなどと、誰にも言わせない。
「血っ……血のつながりだけが、必ずしも家族の証明だとは思わないわ。ともに寄り添って助け合って暮らすなら、それでもう家族と言うんじゃないのかしら。大切なのは単に血のつながりではなく、どんなにどれほど相手のことを思っているかなんじゃないのかしら?」
アスランは、始めは軽く相槌をうっていた。
だが次第に真顔になり、その唇に浮かんでいたわずかに試すような表情は消え失せ、扉に寄りかかるように立っていた姿勢は最後にはまっすぐになった。
「……確かにそうだね、君の言う通りだ」
そこにはもう、相手の嘘をいかにして暴くかという、挑戦にも似た光は浮かんでいなかった。彼は自分の振る舞いを反省するように自嘲気味に笑う。
「申し訳なかった。これ以上の詮索はよすよ」
「……もう十分詮索されたと思うけれど、そうしてくれると嬉しいわ」
アスランはゆっくりと歩を進めて、室内をぐるりと眺めまわした。
ベッドは簡素で装飾もないが、経年変化で深い色合いになったウォルナットのものだ。背もたれには色とりどりのクッションがあり、足元には明るい色合いのベッドカバーもある。どちらもパッチワークや刺繍が施されていて、ガーヤのお手製だ。床には足元が冷えないよう、厚手の敷物が敷いてある。窓は南向きに小さなのがひとつあって、そこに頭部を向けるようにしてベッドは置かれている。そしてその傍らには大きな本棚。
「これまた、すごいね」
そこに目を止めたアスランはちょっと驚いたようにその背表紙を目で追っていく。
斜めになった天井にぴったりと添わせるように作った本棚は、ほとんどぎっしり厚手の書物で埋まっており、その内容は多岐に渡っていた。『大陸国際情勢』『国内外貴族総覧』『中央司法判例記録』『近隣三国近代史』……。
政治や経済、文化についてのものが多いが、薬学や宗教の本もある。それらはすべて、ジャジャが月に一度王都に行くときに頼んで手に入れてきてもらうものだ。
「すごい本棚だ」
「字が小さいから読みでがあるのよ」
「そういう問題?」
「そういう問題だわ。田舎は夜が長いんですもの、退屈で」
「戦意に満ちてるね」
「なんですって?」
はぐらかしている最中だというのも忘れて、ヘイゼルは聞き返してしまった。
「戦意に満ちた本棚だねって言った」
「どういうこと」
「だって、一国の王の本棚だってここまではすごくない」
「……まるで、見てきたように言うのね」
注意深く答えながら、ヘイゼルは思った。
油断のならない人だわ、と。
彼はそれには答えず、本の背表紙を一冊一冊指でなぞっている。
「知識に対する貪欲さが、これを見ただけでわかるよ」
これになんと答えようかヘイゼルが迷っていると、再びノックもなしに扉が勢いよくあいて、血相を変えたジャジャが飛び込んできた。
「ヘイゼル様から離れろ!」
アスランは手近な一冊を棚から抜いてぱらぱらめくっていた手を閉じて、肩越しにジャジャを振り返る。
「──様って言ったよね、今?」
「指一本でもさわったら許さん、動くな、そして速やかにここから出ろ」
「動くなと出て行けと、どっちなの? あと、この子の従者、それとも近習?」
「弟だ!」
さすがにこの状況下でそれは通らないんじゃないかとヘイゼルも思った。だがジャジャは頭に血がのぼっているらしい。続けてアスランを怒鳴りつける。
「このかたに悪い虫がつかないように守ることが、僕の、命をかけた使命だ」
アスランは愉快でたまらないというように破顔した。いい笑顔だった。
「なあ、語るに落ちるって言うの、知ってる?」
あからさますぎる挑発を、珍しく受け流せなかったジャジャがアスランにつかみかかろうと距離を詰めたその時。
「うるさいよ!」
開け放しだった扉から、ガーヤが顔を出した。
「姫様はもうおやすみの時間だ。どっちも部屋から出な。さもないとぶったたくよ」
その片手に黒い革ムチが握られているのを見た男二人は、黙って言う通りにするしかなかった。