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第7章 自分の意志で行く 3

 男爵夫人でもないとすると、これを置いてくれたのはいったい誰なんだろう、やっぱりガーヤなんだろうかと思いながら、ヘイゼルは地下牢の入り口で香炉に火をつけた。


「これ、私たちも煙を吸っちゃうんじゃない」

「空気の流れが下に向かっていますから、平気です。……それにこの毒の煙は重いので、基本的に下へ下へと溜まりますし」


 そう言ってから、サディークは襟元を引き上げて念のために匂いを吸いこまないようにした。ヘイゼルもそれに習う。


 火をつけると、白っぽい煙は確かにゆっくり下へと降りていく。細く螺旋状になった石段の下からは、兵士たちがなにか言い交わしている気配。笑い声、それから沈黙。


 毒の欠片が燃え尽きて、煙がほとんど出なくなるのを見計らってヘイゼルとサディークは石段を下りた。


 地下牢の壁には松明が刺さっており、二人の番人が互いに重なり合うようにしてだらんと眠っているのをヘイゼルはまたぎ越す。ついでに番人の腰から牢の鍵を拝借した。


「お前、これさあ」


 捕えられているとは思えない、いたって呑気な声が牢の奥から聞こえてくる。


「俺も一緒に眠らせる気なの?」


 アスランは牢の奥で、できるだけ煙を吸いこまないように袖を口元に押し当て、立ったまま話していた。


「煙を嗅いで一緒に眠るような馬鹿なら、置いていこうかと思ってましたけど」


 はははとアスランが笑って、サディークの後ろにヘイゼルがいるのに目を止めた。


「ヘイゼルも一緒に来たの?」


 その言い方は相変わらずやさしい。


 ヘイゼルは石の床に膝をついてひんやりと重たい鍵穴に鍵を差し込んだ。左右に回すとやがてかちりという手応えがある。


「あのね、私……自分の口で言いたくて」


 牢の扉をあけると、アスランが身をかがめるようにして出てくる。ヘイゼルは手を差し伸べた。


「アスラン……私、あなたと」


 最後までは言えなかった。ヘイゼルの手を取って牢から出てきたアスランに、きつく抱きしめられたからだ。


「あの、アスラン」

「うん」


 うん、とはいうものの手を離すつもりはないらしい。彼はヘイゼルの髪に顔をうずめている。


「いちゃついてる時間はないと思うんですけどね」


 サディークが淡々と言うのでヘイゼルは赤くなったが、アスランは慌てるでもなく、ゆっくりとヘイゼルの額にキスしてから体を離した。


「苦しくない? 発作は起きてない? こんな寒い夜にこんなところまで来たりして」

「大丈夫、あのね私ね……」

「だめ」


 言おうとする唇に、指先でふれて止められた。


「俺がヘイゼルを欲しいの。どうしても連れて帰るの。だから俺から口説く。……わかった?」

「でもっ」


 自分からそうしたいのはヘイゼルも一緒だった。だが言いかけた言葉はやはり止められる。


「わかったの?」


 甘くからかうような声とは裏腹に、その瞳はまっすぐだった。

 琥珀と灰色の左右で色の違う瞳。


 会えたら言いたいことがたくさんあった。なのに。

 ヘイゼルはそれ以上言えなくなって口をぱくぱくさせる。


 好きだと言いたい。一緒に行くから連れて逃げてと、ここで会えたら言うつもりだったのに、気持ちは確かに受け止められている実感があるのに、肝心の言葉を言わせてもらえない。


「ですから、いちゃついてる時間はないんですが」

「サディーク、馬が欲しいな」


 はい? とサディークは声を裏返らせた。


「なんでまた。ここを出たらすぐ外は狩猟用の森じゃないですか。身を隠すのになんの不都合も……あっ」


 言っている途中でサディークは気づいたらしかった。その表情が一気に曇る。


「そう。お前ヘイゼルのこと忘れてたね」

「……すみません」


 私なら大丈夫、ちゃんとついていく、歩けるから、と言おうとしたヘイゼルをアスランは目で制した。


「馬を二頭。それから、厚手の外套と」

「かしこまりました。……確かここからすぐのところに、厩舎がありましたね。王族専用の。お借りしましょう」


 てきぱきとサディークは決めていく。

 アスランはヘイゼルの肩を抱き、投獄されていたとは思えないほど堂々とした足取りで、そこから出て行った。


◇◇◇


 馬を拝借するのはいいが、警備の人間がそこそこの人数いるはずですとサディークは言った。確かに私とあなたで片づけられない数ではないですが、なるべく騒ぎは起こしたくないですね、と。


「さっきの毒はもうないの?」

「ありません」


 小声で言い交わす二人の後について外へ出ると、冷たい空気が頬にふれてヘイゼルは夜空を見上げた。


 今にも雪が降ってきそうに思えるほど、あたりはしんと澄み渡っている。


 有無を言わさず馬車で連れてこられた城だった。だけどそこを今、ヘイゼルは自分の足で出ようとしている。


 振り返ると、そこにはあかあかと光がともっており、宴もたけなわのようだった。

 自分には必要のないものだった、と思いながらヘイゼルは王宮を見つめる。


 ──ここで生まれた。破滅の王女だと予言をされた。


 自分の意思とは関係なくその時はここを出されたけれど、今は違うのだと思った。自分で選んで、ここから離れる。


「なんの用意もせず、ヘイゼル様を歩かせるつもりだったんですか」


 その時、闇の向こうで不機嫌そうな声がした。


「この寒いのに、そんな薄着で」

「──ジャジャ!」


 久しぶりに会えた喜びで思わず駆けだそうとするヘイゼルを、アスランが腕を横につきだして止める。


 ジャジャはゆっくり闇の中から姿を現すと、くいとアスランへ向けて顎をしゃくった。


「馬がいるんでしょう。──ついてきてください」


 ジャジャのあとについて厩舎の前に行くと、あたりには揃いの制服を着た兵たちが重なり合うようにして眠っていた。澄んだ空気には癖のある強い匂いが混じっている。


 ジャジャは中から馬を二頭連れてきて、手綱をサディークに渡した。一頭は葦毛で一頭は艶黒。どちらも王族専用の馬らしく毛並みがよくて気品高い馬だった。


「すごいな、全滅か」


 アスランがつぶやいたのをジャジャは無視した。ヘイゼルは案じ顔で言う。


「ジャジャ、こんなことして、あなたが責任を問われるわ」

「起きた時にはどうせ覚えていませんから、大丈夫ですよ」

「ヘイゼルのためにしてくれたの?」


 再びアスランが言うと、ジャジャは目のふちに険をにじませて答えた。


「他に誰のためだって言うんですか」


 アスランはにこっと微笑む。


「助かったよ、ありがとね」

「むかつきます。ここにいる全員、本当は素手でも倒せるくせに」


 まあ出来なくもないけど、とアスランは肩をすくめる。


「俺どっちかっていうと無駄な戦いはしたくないので」

「無駄って……!」


 一瞬でカッとなりかける。ヘイゼルのために戦うことを無駄だと言われたような気がする。そうではないことをわかっていても、腹が立つのを押さえられなかった。それを、ジャジャは大きく深呼吸してこらえた。


「ここで争っている時間はありませんからね」

「それでも、俺のことを黙って行かせていいの?」


 俺と思いきり戦いたかったんじゃないの、と言っているようにジャジャには聞こえた。我慢もそろそろ限界で、彼の目の下が細かく震える。


「……挑発するのはよして頂きましょうか」

「お前のために言ってるつもりなんだけど」


 二人の間に緊迫した空気が流れ、アスランは首を左右に傾けて骨を鳴らす。


 もしジャジャがこの先も王宮で暮らすのなら、目立つケガのひとつもさせておいた方がいいのは確かだった。そうしたほうが、言い訳が立つ。

 それにもうひとつ、彼の男心のためにも。


「戦って、お前に勝ってから行った方がいいの、俺は?」

「まさか」


 吐き捨てるように、ジャジャは即答した。


「僕ではあなたに叶わない。それはわかってる。──だけど、もしその人を泣かせたら、どこまででも追って行って始末をつけてやる」


 これに、アスランはにっと笑った。


「いいよ。俺がこいつを不幸にしたら、いつでも来い。その時お前には俺を殺す権利があるから」

「その言葉、お忘れなく」


 そしてジャジャはヘイゼルの前に立つと、厚手の外套を自分の手で着せかけ、満足したように目を細めた。


「こうしたかったんです、ずっと」


 そして外套のボタンを上から下まで丁寧に全部かけてやり、仕上げに首元の紐を蝶結びにする。まるで、なにか大事なものを封じ込めるみたいに。


「ずっとあなたを守りたかった」

「ずっと守ってもらっていたわ」


 ヘイゼルは返す。


「あなたと一緒に育って、よかったわ」


 ジャジャは男にしては長いまつげを震わせると、その場で膝をついて臣下の礼をとった。ヘイゼルは知らないことだったが、それは、近衛兵が主君に対してする正式な作法だった。


「──どうかお幸せに」

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