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第7章 自分の意志で行く 2

 迷路のような広大な王宮の地理は、ヘイゼルよりもサディークが詳しかった。


 女官たちはほとんどすべて夜会の手伝いに行っていたというのもあるが、人と出くわさずに済む道をサディークはよく知っていたし、牢のある場所も熟知していた。


 いわく、後宮の東の端にもうひとつ塔があり、その下部が牢獄になっていること。数は少ないが、昼夜を問わず見張りがいること。そこへ行くには後宮内部を通っていくのが近道であり、かつ、人目にもつきにくいこと。近衛兵たちが詰める兵舎からは離れているため、そこから出れば追っ手がかかったとしても少し時間が稼げることなどを。


「ですから……あなたがその毒をお持ちだったのは正直助かりました。私も多少は薬品を扱いますが、即効性と確実さでは到底かないませんから」

「私が持っていたわけではないんだけどね……」


 サディークの足取りはしっかりとして、迷うそぶりはほとんど見えない。先ほどから聞きたかったことをヘイゼルは口にした。


「なぜこんな……王宮内部の事情に明るいの、あなたは」

「それはかつて何度も入ったからですよ。あなたの父上の刺客でしたから、私は」


 まあ、たいして良い刺客ではありませんでしたけどね、失敗しましたからと言う彼の背中にはなんの感情も浮かんでいない。


「あなたがお持ちのその毒も……よく使わせられたものです」

「ねえ、サディーク」

「なんですか」


 ラプラ特有の美しいプラチナブロンドが夜目にも明るく光っている。


「王宮の兵士に、あなたはおくれを取ると思う?」

「それはあり得ませんよ」


 なにをいきなり、というように彼が肩越しに振り向く。

 自信があるというよりも、さも当然の摂理を口にしているようだった。苺っていつ実るの? 初夏に決まっているでしょう。というような。


「どうしたんですか」

「王宮の地理にも明るい。兵士たちと出くわしても勝ち進める。──そんな人が、どうして私の助けが必要なんだろうって思って」


 なんだそんなこと、というようにサディークはまた前を向いた。


「アスランは、あなたを置いては出てきませんから」


 だからどうしても、あなたが一緒に逃げてくださることが必要だったんですよ、と彼はさらりと言った。


 ヘイゼルは胸が詰まる。


「──馬鹿ね、あの人」

「ええ。愛情深くて、一途で、仕えがいのある馬鹿だと思いますよ」


 人目につくのをおそれて二人とも灯りは持っていない。ひたひたと、押し殺した足音だけが細い通路に響く。


 後宮の入り組んだ通路を抜けて東の端にやってきた時。ぴたりとサディークが足を止めた。


「……お静かに」


 行く手に小さな明かりが見える。

 ひとつ、ぽつんと灯ったそれはゆらゆらと揺れていた。


「女官なら、私が話すわ。夜会から戻るのに迷ったと言えば誤魔化せるはずだから」

「──しっ、こっちに来ます」


 サディークがヘイゼルを背中に隠して身構えていると、灯りは静かに近づいてきた。


 小さなオイルランプを下げてたった一人そこにいたのは、夜会服に身を包んだままのドルパンティス男爵夫人だった。


 互いの顔が見える距離まで来ると彼女は足を止めた。


 細い通路の真ん中に立ちはだかる彼女は、夜会の時の華やかな笑顔はひっそりと封じ込めてヘイゼルを見つめている。その青ざめた表情からはなにも読み取れない。ヘイゼルの声のかけ方で、もしくは振る舞いで、どの方向に転がるかわからない危うさがそこにはあった。


 緊張した面持ちのサディークを押しやって、ヘイゼルは自分が一歩前に出る。


「……こんばんは」


 ヘイゼルはしばらく考えていたが、他に言うべき言葉も見当たらなくてそう言った。それを聞いた彼女は眉をひそめる。


「なに、それ」

「なにって、夜間の挨拶です。──こんばんは」


 彼女は大きなため息をついた。肩を落とし、力なく首を横に振る。


「いいわね、自由で……」


 掠れた声で絞り出すように言われてびっくりした。自由。そんなふうに見えていたのか。


 それは皮肉というよりは、どちらかというと毒気を抜かれたといったふうだった。ヘイゼルが驚いていると彼女は続ける。


「あなたみたいな人からしたら、わたくしなんて馬鹿みたいで軽蔑するでしょう」

「軽蔑するほど、事情も知りません」


 至極当たり前のことを口にしたつもりだったが、彼女はなにやら目を見開いた。


「──だって、どんな人にも事情ってあるじゃありませんか」


 途端、彼女はくしゃっと顔を歪めた。憎しみ、悲しみ、羨望、反発。複雑に混ざり合った気持ちをひと息に潰して、丸めて、捨てるように口にする。


「さすがね、生まれながらの王女様は心もきれいで」

「血筋なんて関係ありません」


 昔からそう思ってはいたが、今こそ自信を持ってそう言える。


「私はたまたまこういう血筋に生まれましたが……重要なのは血筋ではなくて……その人が今いる状況で、どんなに、どれだけ努力したかでしょう」


 ぐっと、彼女のあごの付け根が盛り上がるのが見えた。奥歯をきつく噛み締めたのだとわかったが、なにが気に障ったのかはわからなかった。ふとヘイゼルは思いついて聞いてみた。


「ねえ、薬と香炉を私の部屋に置いてくださったのは、あなたですか?」

「は?」


 その咄嗟の表情と声の感じでわかる。彼女ではなかった。


「うん……そうよね。聞いてみただけ」


 もうお会いすることもないかもしれないけど、わがままな父をどうぞよろしくお願いします。そう言って頭を下げて彼女の脇をすり抜ける。


 男爵夫人は体を斜めにしてヘイゼルを通す間、じっと彼女を見つめていたけれど、それ以上邪魔をしようとはしなかった。サディークもそれに続き、軽く会釈して通り過ぎる。


 ドルパンティス男爵夫人は二人の姿が見えなくなっても、長いこと、そちらをじっと見つめていた。

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