第7章 自分の意志で行く 1
これを含めてあと4回分で完結です。
この物語を少しでも気に入ってくれますように。
「あの……」
窓のきわから小さな声がして、ヘイゼルは香炉を持ったまま振り返った。
小さな窓の外側にはサディークが顔をのぞかせている。ヘイゼルは驚くよりも先にため息をついた。
「……どうしてあなたたちは、命綱というものを身につけないの。死んだらどうするの?」
「死にませんよ、このくらいじゃ。落ちませんから」
「誰かも似たようなこと言っていたわ」
「お邪魔してもよろしいですか」
「それを聞くために律義に窓の外にいたの? ……どうぞ」
しばらくぶりに見るサディークはもうすっかり元気そうで、ヘイゼルの手を借りることもなく、許可の声と同時にひょいと窓辺を飛び越えて入ってきた。
「突然来たことをお詫びします。あなたに話があって……」
だがそこまで言ったところで、サディークははっと言葉を切る。そして室内に漂っている匂いに眉をひそめた。
「この匂い……」
私に使った薬ですね、と言うのかと思ったら違った。
「あなたに飲ませるために貯め込まれていた毒ですね」
「……はっ?」
思ってもいなかった言葉に声が裏返る。
サディークは、これは私の推理ですが、と前置きしてから続けた。
「おそらくあの二人……ガーヤとジャジャは、あなたに与えるための毒を定期的に渡されていました」
「毒って、これのこと」
そうです、とサディークはうなずく。
「でもこれはあなたに使った薬なんじゃないの、毒では……」
「使い方によって、薬にもなります。──強い毒というのはおおむねそうしたものですが」
「それは、そうかもしれないけれど」
手にした香炉をこわごわベッドサイドに置き直すヘイゼルに、サディークは言う。
「そこまで警戒するほどのものじゃありません。ちょっと匂いを嗅いだくらいでは、なにも。……ただ、服用を続けると体はしだいに弱まり、死に至ります。ごく微量を的確に用いれば即効性のある睡眠薬ともなり得ますが。──珍しい毒ですよ」
「待って、サディーク。私この薬を飲んだことはないわ」
癖のある匂いだから、飲んだことがあれば必ず覚えていたはずだった。サディークは素直に認める。
「はい。あなたから毒の気配はしない。元来の体の弱さ以外は、健康そのものです。おそらく、あなたを己の手では殺めたくないと思う人間の仕業なんでしょう」
「そうね……」
心当たりはいやというほどあった。
ジャジャが月に一度、決まった日に王都へ行く。表向き、この辺では手に入らないようなものを手に入れるという理由だったが、その時に王宮へ上がってヘイゼルのことを報告していたのも知っている。彼ら二人への報酬もその日に渡される。
(その時に、きっと渡されていたんだわ)
そして、ガーヤとジャジャはそれをずっと使わずにいた。
「この毒の出所は王宮ですよ」
「確信があるのね。なぜそう思うの」
「この薬は希少な禁制種だからです。そこいらには売っておらず、よしんば手に入ったとしてもひどく高価だ。あんなにたくさんあの薬があるのは……王家の典薬寮くらいしか私には思い当たりません」
「そうね、私もそう思うわ」
声に出して言った途端、めまいがした。
何度こうした思いをすればいいのだろうと思う。
思いもよらなかった方法で、何度も、何度も裏切られる。
(生かされていたわけじゃなかった……父は、本心では私を殺したかった……たまたま私が生きていたから、今回アスランへの脅しに使っただけなんだわ)
足元がおぼつかないような、視界がぶれてものがふたつに見えるような感覚に、ヘイゼルは爪を手の平に食いこむほど強く握りしめた。
(私が死んでいても、いっこうに構わなかった)
傷つくまいとヘイゼルは思う。
あんな人のために傷ついたりなどしたくない。それよりも大事なことが、今はある。
「それを私に知らせたのはなぜ、サディーク」
「あなたの未練を断ち切りたくて」
「……私の助けが必要な状況なのね」
「察しが早くて助かります」
ヘイゼルはうつむいて話していたからサディークの表情は見えない。だが、彼の声は平らで、なんの感情もうつりこんではいなかった。
「まどろっこしいこと……」
目をつむってため息をひとつついた。
「お父様がもし私に、死ね、と直接仰っていたら……私は粛々として死んだでしょうに。──これまではね」
でも、もう遅い。
ヘイゼルはアスランに出会ってしまった。彼の言葉や振る舞いを知ってしまった。父にも会ってしまい、彼の言葉も振る舞いもその目で見てしまった。
自分の目で確かめたものほど強いものはなく、今はもう、父を思い慕う気持ちはこれっぽっちも残っていなかった。
「愚かな人ですね」
「愚かなのはあなたもよ、サディーク!」
きっと彼を振り仰いでヘイゼルが言ったので、サディークは雷に打たれたようにびくっと震えた。
「私はずいぶんあなたに見くびられているのね」
「なんの……ことで」
「あなたが私に頼みたいのは、投獄されたアスランのことでしょう。彼を助け出すために私の協力を仰ぎに来たのよね」
「その通りです」
「だから見くびられたと言ったわ。父がどんな人間であろうと、私はやるべきことはやるわよ」
「いや、ですが……」
「行くわよ」
サディークに最後まで言わせはしなかった。ヘイゼルは香炉を手にして戸口へ向かう。
サディークがぽかんとした顔になっているのが目に入った。
子供の頃から、お姫様が出てくるような童話や物語は好きではなかった。
自分と比べて違いすぎたし、読むたびに悲しい気分になったから。
いつか誰かが、自分をあの家から連れ出してくれるだなんて思わなかった。
そんなのは、それこそ童話や昔話の中の出来事だと思っていた。望んでもいなかった。
(──というよりも、そんなことができるだなんて考えもしなかった)
ガーヤが根気強く教えてくれていた礼儀作法もダンスのステップも、彼女を喜ばせたくて習っていたようなものだ。あの家から自分が出て行ける日が来るなんて、思ってもいなかったのだから。だけど違った。
「サディーク」
「……は」
「途中、邪魔が入ったら必ず私を守りなさい」
するとサディークは、みるみるその瞳に嬉しそうな光をともした。
「……はいっ!」
ヘイゼルは思った。
今、自分の意志でここを出て行く。
誰に連れ出されるわけでもなく、自分の意志で。
幸いなことに、ヘイゼルは今王宮の兵と女官の監視下におり、逃げたとしてもガーヤたちに迷惑はかからない。
ここに来てよかったとはじめて思った。




