第6章 三代目の狼 7
自分は父に、手駒のひとつとしてしか見られていなかったのだと思った。ヘイゼルの胸が激しくざわつく。
悲しみではなかった。涙だって出る気はしない。自分を利用してアスランを投獄したこと、ヘイゼルはそのことこそに怒っていた。
降りてきたばかりの大階段を上がるヘイゼルに、貴族たちがまたもやほめそやす声をかける。
「拷問部屋に入っていたのですってね」
「あら、それって、噂でしょう。ハムザの狼をおびき寄せるための」
「その者、殿下に恩義がおありだとか?」
「どちらにしても勇気ある行いですわ」
「まあ、震えておいで」
「もう済んだことです、どうぞお忘れ遊ばせ」
「そうそ、なによりのお手柄ですもの」
彼らに悪気などない。わかってはいたが聞けば聞くほど怒りで目がくらみそうだと思った。その時、ちょうど大階段を降りてこようとしているドルパンティス男爵夫人と目が合う。
──いやだ、と思う。今彼女と話したくはない。
だが彼女の方はヘイゼルを認めてにんまり笑った。
「まあごきげんよう、ヘイゼル・ファナティック第五王女殿下」
ご丁寧に、踊り場で立ち止まって彼女はヘイゼルを待っている。
やたらにこやかなその様子といい、その名前の呼び方といい、悪意があることはわかるものの、そうして待っていられては避けることもできない。ヘイゼルは仕方なく踊り場で足を止めた。
「──ごきげんよう、ドルパンティス男爵夫人」
「お話、聞きましてよ? ……おそろしい目にお会いでしたこと」
親しげに身を寄せられざまに、ぽん、と閉じたままの扇でむき出しの肩を叩かれた。
痛みを感じるようなものではなかったものの、顔色が変わるのが自分でもわかった。扇で相手の肌を叩くなど、仮にも王族に対してすることではない。しかも、人前で、これ見よがしに。考えるより先に声が出た。
「無礼者!」
その剣幕に、男爵夫人はちょっと身を引く。ヘイゼルは相手の顔を見据えたまま続けた。
「それが男爵家で習った礼儀なんですか。十六歳で養女縁組したところからやり直しなさい!」
さほど大きな声を出したつもりはなかったが、ヘイゼルの剣幕にあたりはしんと静まり返った。
男爵夫人ははじめぽかんとしていたが、すぐにその白い肌に赤みが差してくる。顔には厚く化粧をしているのでわからないが、白く塗っていない首からデコルテにかけて朱が差したのでそれとわかった。
「──誰っ!」
ヘイゼルがその横をすり抜けようとした時、彼女が鋭くそう言った。ヘイゼルは振り返る。
「いったい誰があなたに、そんなことを知らせたの! 言いなさい!」
黒曜石のような瞳が怒りに燃えている。
彼女にとって、出自は触れられたくないことなのだとその表情でわかった。おそらくはひた隠しにしており、圧力や報復でそれらの話題が出回るのを防いでいるのだと。ヘイゼルは静かに言い返す。
「誰にも特に教わっていないわ」
「嘘! 誰かが告げ口したはずよ!」
「誰にもそんなことされてない。父のお気に入りであるあなたならわかるでしょう、私は今、北の塔に住んでいるのよ。話をするような女官もついていないわ」
「では、なぜ!」
「書いてあるのを読んだだけよ」
「書いてある?」
「国内外貴族総覧に書いてあるわ。年一回新しいのが出るの」
彼女は怒りのおさまらない表情のまま、少しだけ眉をひそめた。言っていることが理解できないというように。
ヘイゼルにとってそれは当たり前のことだった。ある年、急に、妙齢の女性が貴族の一員に名を連ねるのは、どこかから養女縁組をしたということだ。彼女以外にもそうした例はいくらもある。だが、男爵夫人はまだ怪訝そうな顔をしている。ヘイゼルは少し声を落として言った。
「そういう書物が、あるのよ……大きな街ではどこでも売っていると思うわ」
「書物……」
「でも確かに、そんなものに隅から隅まで目を通す人なんていないわよね。私は森の暮らしで退屈だったからずっと読んでいて知っているだけよ。貴族の養子縁組はさして珍しいことでもないし。──でも、あなたがそれを言われたくないとは知らなかった。その点はごめんなさい」
男爵夫人は美しく塗った唇を半開きにして、無言でヘイゼルを見つめている。まるで、珍しい生き物でも目にしたみたいに。
「私の素性が知られているように、私が拷問部屋に入ったことを多くの人が知っているように、あなたの素性も一緒です。誰でも、知ろうと思えば知ることができます。──だから、私はこう思うの。王族や貴族の一員になるということは、自分のすべてとは言わないまでも、暮らしぶりの大部分が周囲に明らかになることなのだと。──もし、それが煩わしくておいやなら、貴族になろうなどとは思わないほうが、ずっと楽だったと思います」
返事は待たずにヘイゼルは彼女の横をすり抜けた。
人の間を縫うようにしてその場を立ち去り、北の塔の自室に帰る。
後ろ手に扉を閉めるなり、ヘイゼルはヒールを脱ぎ捨てた。細いかかとを仰向けにして靴が転がったが、拾う気になれなかった。
今まで十七年間生きてきた中で、これほど腹が立ったことはない。ひどく怒った時、自分は熱くなるのではなくて冷たく血が引くタイプなのだということも、今日初めて知った。
(挙句の果てに、王の愛妾を怒鳴りつけたりもしてしまったしね……)
大きくため息をついたヘイゼルは、ふと、なにか室内に違和感があるのに気がついた。
なにとは言えないが、どこかが変だった。
ヘイゼルはそう広くもない室内を眺め渡す。誰かここへ入ったのだろうか。女官たちならば誰でもここへ入れるはずだから不思議ではないが……。
くん、とヘイゼルは鼻をうごめかす。
さっきまでとは明らかに違う匂いが室内にはわずかに漂っている。なんだろう、と思いながらベッドサイドを見ると、そこには香炉がひとつ置いてあった。
(さっきまではなかった……)
手の平に乗るほどの大きさの、しずく型をした錫製の香炉の蓋をあけてみると、そこには小さな包みが乗っていた。違和感のある匂いはそこから出ている。
鼻を近づけるとわかる、きつい、癖のある匂い。
そして、ヘイゼルはその匂いに覚えがあった。
それはサディークのケガを治す時、ガーヤがすりつぶして使っていたものだった。
(ガーヤが……ここに来て、これを置いた?)




