第6章 三代目の狼 5
祖父がいなくなってしまうと、ヘイゼルはその場に立ちすくんだ。
戦が始まる、と聞いた時から胸が不穏に鳴り響いていた。
(私は……破滅の王女なんかじゃないって、ずっと思ってた)
祖父を見送った場所から足が動かなかった。どうやって動けばいいのか、歩くときにはどちらの足から出すのだったか、思いだせない。
(インチキな占い師が適当なことを言ったんだって思ってた……きっと政治的な事情で、私を追放することで誰かが得をするんだろうって……)
ジベットにかけられている時も、こんなに底知れない不安な気持ちにはならなかった。
立っている足元が崩れていくようで、膝から下の感覚がふわふわと頼りない。
(でも、そうじゃなかった)
破滅の王女なのだと、思い知らされた。
これまで幾度も砦に兵を出し、打ち負かされてきた父王。ヘイゼルを解放するようにと書状に書いたアスラン。それを無視した父王。一触即発の現状。女官たちを素早く逃がした祖父。いくつものピースが嵌まり、ひとつの絵柄を形作る。
それは、砦の兵士たちに王宮の父王が敗北する図柄だった。そしてその図柄の中心にはヘイゼルがいた。
(予言が今、本当になってしまう……)
ずっとヘイゼルが沈黙しているのに気づいたアスランが、ベッドの下からはい出てくる。
「どうした、ヘイゼル?」
背後から顔を覗き込んで尋ねるが、ヘイゼルの顔色は蒼白のままだ。
「……おいで」
何度か声をかけても反応がなかったので、アスランは彼女の肩を抱き、ゆっくり促すように歩かせながら、先程まで先王がいた肘掛け椅子にヘイゼルを座らせる。
ベッドサイドに置いてあった水差しから、まだあたたかい白湯を注いでヘイゼルに持たせた。
「手を離してもいい?」
「……うん」
ヘイゼルが返事するのを待ってから自分の手を離す。
「言ってごらん。どこがそんなにショックだった」
ヘイゼルは白湯で乾いた唇をうるおしてから口をひらく。
「……おじいさまとの話、聞いてたでしょ」
「うん、俺にとってはこっぱずかしい部分もあったけどね」
「おじいさまが言ってたこと、本当なの」
どれのことか、とはアスランは言わなかった。ただ真顔でうなずいた。
「おおむね、本当だよ」
彼は祖父が出て行った扉の方を見て、ふーっと息をついた。
「しかし驚いたな、あそこまで詳しく把握しているとは。相変わらず、情報収集力も行動力も今の王とは段違いだ」
彼が言うのをヘイゼルはほとんど聞いていなかった。
「ヘイゼル?」
気遣う声もどこか遠くで聞こえる。
この王女は忌まわしき赤子である。覚えているはずもない予言者の言葉が耳に迫ってくる。長ずれば必ずや、オーランガワードに破滅の風を吹かせ国を亡ぼすであろう。
よくないものに追いつかれた気がして、ヘイゼルはぞっとした。体に鳥肌が立っているのがわかる。
「私……なの?」
「違うよ」
言葉足らずな問いかけにも、アスランは即答する。
「私のせい?」
「違うってば。さっき言ったでしょう、王には前から書状を送ってたんだよ。前から不満は募っていた。ヘイゼルがどうとかじゃない」
(でも……)
引き金となったのは自分だとヘイゼルは思った。
『やられたらやり返すことの、どこがいけないのかしら』
『復讐、いけないこと?』
いつか自分が言った言葉がよみがえってくる。間違ったことを言ったとは思わない、だが、今思いだしてみてこんなにおそろしい言葉もなかった。
(……私の言葉が引き金になって、戦が起こるとしたら……)
祖父は、逃げられるなら逃げろと言ってくれたけれど、そんなことはとてもできないと思った。たとえ、自分だけが悪い話ではなくとも、責任を取らなくては……。
(だけど、どうやったら……)
青ざめて一点をじっと見つめているヘイゼルに、おそらく今はどんな言葉も届かないと判断して、アスランはその小さな手を両手で包み込むように握ると、腰かけているヘイゼルの足元に膝まづいた。
「わかった」
「……え?」
「ヘイゼルは破滅の王女なんかじゃない。俺にはそれはよくわかっているけど……言葉で言っても多分だめだろ」
心細い子供みたいな気持ちでヘイゼルが彼を見下ろすと、彼は左右で色の違う瞳で、じっと見つめ返してきた。
そこにはやさしさと、信じられる誠実さと、それから揺るぎないなにかがあった。
ややしてから彼は言った。
「待ってなよ。そんなことないって証明してあげる」
◇◇◇
それから数日が過ぎた。
日々は不気味なほど平穏に過ぎ、まるで戦の話は夢だったのかと思うほどだった。
女官は相変わらず決まった時間に食事を運びに来たし、その際に余計なことを言わないのも常と同じだった。
あなたは逃げないの。幾度か女官に尋ねようとしてみたが、その仮面のような無表情を見ると、やはり聞けなかった。
ヘイゼルの見る限り、王宮の中にはなんの変化もなく、彼女の元にもなんの知らせももたらされなかった。
ヘイゼルは暇さえあれば小さな窓から外を見下ろし、兵舎の様子に変わりはないかどうか、市街の様子はどうか、どこかで火の手が上がったりしていないかと注意深く観察していたが、数日経ってもそれらしい気配はない。
彼女が暮らす北の塔からは、近衛兵たちが詰める兵舎と隣接する演習場が見えるのだが、兵たちは談笑しながら靴の手入れなどをしている。どう見ても、緊迫した雰囲気ではなかった。
(どういうこと……)
アスランもあれから姿を見せることはなかったので、彼がどうしているかも気にかかった。
そんなある日のことだ。朝食を届けに来た女官が、今夜は夜会がございますので夕方着付けに伺います、と言った。
「……夜会?」
「はい」
「私が、出るの?」
「さようでございます」
こんな時なのにどうして。
聞きたかったが、女官は質問は一切受け付けないというように、ヘイゼルとは目もまともに合わせることなく、口調とお辞儀だけは慇懃に部屋を出て行った。最初から最後まで、まったく取り付く島もない。
ただ前回の夜会の時と違うのは、夕方になると女官が数人やってきて、数人がかりでヘイゼルにドレスを着せてくれたことだ。
ヘイゼルは黙ってされるがままになっていたが、前回と今回とでいったいなにが違うのか、さっぱりわからなかった。




