第1章 まさかお客が来るなんて 3
あくる日、昼近くなってからケガ人はスープを少しだけ飲んだ。それからまたガーヤ特製の薬を飲んで、再び昏睡にも似た眠りに落ちていったらしい。
らしいというのは、ヘイゼルはほとんどその様子を見ることができなかったからだ。
客人の様子が気にならないわけではなかったのだが、奥の部屋へ入ろうとするたび、絶妙なタイミングでジャジャに声をかけられ、それとなく引き離されて、なかなかまともに顔を合わせる機会がなかった。
姉さん、よく晴れたから裏の山ブドウの実を見てきてもらっていいかな。もし食べられそうなら客人に差し上げたくて。あっ、ケガ人は今ちょうどまた眠ったところだから、入らない方がいいよ、姉さん。これからケガ人を裸にして体を拭くから、しばらく入らないでね。ケガ人の世話は力仕事だから僕が引き受けるよ。
姫様ではなく、姉さん。
客人がいる時は互いにそう呼ぶことになっており、ジャジャの態度は仲のいい弟そのものだ。
柔和な態度でそう言われると、反論もしづらい。
それでもジャジャがヘイゼルを彼らに近づけたくないと思っていることはありありとわかった。
(気持ちはわからないでもないけど)
外の人が来たからといって、そんなふらふらついていったりしないのに。
ヘイゼルは小さなため息をついた。
◇◇◇
「さりげなくじゃないよね、露骨に遠ざけられてるよね、俺ら」
ヘイゼルがいなくなってしまうとアスランはおもむろに口をひらいた。自分に話しかけられているのはわかっているはずなのに、ジャジャは背中を向けたままだ。アスランはなおも続ける。
「警戒されてるのって俺? それともこいつ?」
「さあ」
相変わらずジャジャは必要最低限の言葉しか言わない。
ケガ人の手足をきつく絞った布で拭いている間も、彼のほうは頑なに見ようとしなかった。アスランは首をかしげる。
「──俺かあ。なんで俺?」
「なんのことです」
「美人の姉さんの前ではかわいい弟なのに、彼女がいなくなると一気に無表情になるよな。俺にももうちょっと笑ってみて?」
冗談めかしたアスランの台詞に、ジャジャはきつい声を出す。
「姉が美しいからって、手を出したら殺してやる」
「ああ、やっぱりそっちが地なんだね」
わかってたけどね、とアスランはうなずく。
「あの人にかかわるな。話しかけるな」
「うん、確かに美人だよね。正直びっくりしたよ」
アスランは噛みあっているのかいないのかわからない返事をした。
薬を求めてあけた扉の向こう側に、あんな美しい少女が立っているとは予想もしなかった。
はっとするほど小さな顔の中に絶妙な配置でおさまっている小ぶりな口元と整った鼻筋。驚いたように見開かれている大ぶりの瞳は鮮やかな緑柱石色。ストロベリーブロンドの前髪の間から覗く額は広く理知的で、白い肌にはシミひとつなかった。そんな彼女の向こう側に、不信感をあらわにしてこちらを見つめている少年がいた。
ジャジャがことあるごとに邪魔して回るので、きちんと話をする機会はなかったが、それでもひとつ家の中にいると顔を合わせることもある。彼女はほとんど化粧もしておらず、装身具もつけていないというのに、それでもひどく美しかった。
ジャジャが不機嫌になるのは承知の上で、それでもアスランはしばしば彼女をそっと観察した。
派手ではないが上等な衣服。ほっそりとした手足はきびきびと要領よく動いている。声の調子は高すぎず、浮ついたしゃべり方もしないため、十七歳にしては落ち着いた感じがした。こんな辺境に住んでいるにしては訛りもなく、きれいな共通語を話すのがいっそう知性を感じさせる。あまり抑揚をつけず、語尾はけぶるように柔らかく終える発音はどう聞いても上流階級以上のもので、田舎娘のものではなかった。
そんな少女が、この国境外れの森の端にさびしく住んでいること自体が不思議だった。
そう言うと、ジャジャはまんざらでもない表情をした。彼女によその男を近づけたくはないが、褒められるのは嬉しいらしい。
「当然だ。あの人は最高だ……あの人以上の美女なんて国内どこを探してもいるもんか」
「大きく出たねえ。国で一番か」
「人前に出ない生活をしているせいで、比べられる機会がないだけだ。もっとも、機会がないこと自体はあの人にとっていいことだが」
「オーランガワードは大国だろ」
「それがどうした」
「国内っても広いよね。ことに今の新しい王は女好きで、女官も美女ばかり揃えていると聞くし」
言うと、ジャジャは間髪入れずに返してくる。
「広いからどうした。王宮の女たちなんて比べ物にもならない」
おやそう、とアスランはわざとらしく感心した声を出した。
「言い切れるほど彼女らを目にする機会がしばしばあるわけだね」
ジャジャは恐ろしい剣幕でアスランを睨んだが、ぐっと言葉を飲み込んだ。再びケガ人の体を拭くのに集中する。汗をかいている首筋、腰の後ろ、腕の付け根を特に念入りに。
拭き終わると、お湯の入った木桶の中に布を放り込んで立ち上がる。アスランに背を向けながら棘のある口調で言った。
「連れが早くよくなることを祈ってるよ」
「それは、早く出ていけってこと?」
ジャジャは答えなかった。わざわざ答えるまでもないだろうと思っているように。
ややしてからジャジャは口をひらく。
「僕からも質問するよ」
「どうぞ」
「あんたは一体どこの誰だ」
今度はアスランが黙る番だった。ジャジャはわずかに勝ち誇ったような顔になる。
「答えられないだろ」
そう言って、ジャジャは今度こそ部屋から出ていった。