第6章 三代目の狼 2
「ハムザの狼は、俺で三代目」
アスランはガラスのない窓から冷たい風が吹きこんでいるのを気にして、ヘイゼルを暖炉脇のベッドに座らせた。自分も隣に座りながら言う。
「俺はみんなを束ねる長の立場だ。──砦には昔から自治権もあるし、その代表であるハムザの狼は周辺諸国の国主とも対等な立場をとってきた」
「砦って、あなたたちの家みたいな場所なのね」
「そう。先代の頃から、オーランガワードの国王は砦を自国の領土のように扱いたがってた。だからこそ、俺たちを追い出したくて、もしくは支配下に置きたくて私兵を常駐させてるんだろうが……砦は、俺たちにとっても大切な帰る場所だ。その件で幾度も書状を送って正式に抗議し、また返答を求めているのに、国王は無視を続けている。いい加減、無礼な態度だと俺は思う」
そうね、とヘイゼルはうなずいた。
同時にヘイゼルが彼らのことをよく知らなかった理由もわかった気がした。彼女がこれまで読んできた書物は、ジャジャが王都から手に入れてきたものだ。オーランガワードの書籍に、彼らを認めるような記述があるはずがない。
(……私って、愚かだった)
とヘイゼルは思った。
できるだけ書物を読んで知識を増やしたつもりでいたけど、それはあくまで一面的なものの見方であり、偏った知識だったのだ。わかっていないこともたくさんあったのだ。アスランは続ける。
「このままじゃ、砦の皆を抑えておくのも限界だ。二人目のサディークが出るのも困る」
「サディークは、父の私兵にあの傷を?」
「いや、そうじゃない」
そうだと言うこともできたのに、彼は律義に否定した。そして彼のケガの原因を手っ取り早く話してくれた。
オーランガワードと徹底抗戦したがる男たちが砦には多いこと。その男たちをアスランが現状抑えていること。何度目かの話し合いをしているうち、彼らとアスランはもみ合いになり、サディークが彼を守ろうと割って入ったこと。元々サディークをよく思っていたかった男が、部外者は引っ込んでいろと剣を抜いたこと。アスランがサディークをかばおうとしたので、サディークがとっさに背中でそれを受けたこと。
「……それ、元をたどれば父のせいよね」
話を聞き終えてヘイゼルは言った。
「そうじゃない。これはただ、内輪のいざこざさ」
ただ、と彼は付け加えた。
「今回は、俺が戻るまで頭を冷やしておけ、と怒鳴りつけてきたけど……。本来あいつらには、オーランガワードと一戦交えたがるだけの、十分な理由があるからね」
「それって」
「それを避ける方法はないか、ずっと考えていたんだけど。そろそろ時間切れかな」
そう言って、彼は小さく笑った。
「アスラン、それって」
問いかける彼女にその先を言わせまいとするように、アスランは笑顔のままで強引に先を続けた。
「君のことまで巻きこんでしまってすまない」
「私のことならいいの、気にしないで」
「だから、おいで」
えっ、とヘイゼルは無言でまばたきする。
なにを言われたのか一瞬わからなかった。
返事に詰まるヘイゼルに、彼は目を細めて微笑む。その目尻に甘さが滲んでいた。愛しくてたまらないものを見ているみたいに。そしてもう一度言った。
「俺とおいで」
ヘイゼルは慌てて首を横に振る。
「だめ、それこそ戦のいい口実になるわ。仮にも王女が奪われたなんて、あの父にとっては十分すぎる口実よ。──たとえそれが、たいして要りもしない王女であっても」
それにアスランは答えなかった。じっとヘイゼルを見つめている。
ここは譲れないと、決してあきらめないと決めている目でもあった。
彼が自分の身を案じてくれているのが痛いほど伝わり、ヘイゼルは笑ってみせた。
「私のことなら平気。我慢できる」
「本当に? 俺なしで?」
間髪入れずに返されて、ヘイゼルは再び言葉に詰まってうつむく。
(その聞き方はずるい……)
アスランは返事を待っている。なんて返したらいいか本気でわからなくてヘイゼルが困っていた時。どん、どん、と低く確かなノックの音がした。なんとなくその叩き方は、女官のものではない気がして、ヘイゼルは彼をベッドの下に押し込んだ。
「誰か来た、隠れて」
◇◇◇
アスランの姿が見えないよう、ベッドカバーを自然な感じに垂らして様子を整えたあと、ヘイゼルはいかにもたった今まで寝ていました、みたいなのんびりとした声を出した。
「はぁい」
扉はひらかない。ヘイゼルは重ねて言う。
「どうぞ」
「邪魔するぞ」
扉があき、背の高い豊かな顎髭の老人が部屋に入ってくると、片手でその扉を閉めた。
長く豊かなローブの豪華さから、いずれの王族かと思ったけれど、伴の人間は連れていない。顔は深いしわに覆われていたが、そのしわも含めて尋常ではない品格があった。
(夜会で会ったわけじゃないわ……どなたかしら)
記憶を探り探りしていたヘイゼルは、ふと、彼が片手に杖をついているのに気がついた。慌てて腰かけていたベッドから降り、老人の、杖をついていないほうの側にまわると肩を貸して一脚だけある肘掛け椅子に座らせる。
「うん、すまないな」
礼を言うのは少し掠れた低い声で、その声は耳に心地よかった。
「いいえ、ところであなたはどなたですか?」
ふと老人はヘイゼルの顔を見つめた。その瞳は深い緑色で、あたたかみのある色だった。一瞬遅れて豪快な笑い声が狭い室内に響く。
「わからぬで肩を貸したのか!」
「え、ええ。まあ……」
確かにちょっと不用心だったかも、とヘイゼルは顔を赤らめて下を向いた。
仮にも若い女性の私室である、もう少し警戒してもおかしくない場面だった。なにしろお互いにまだ名乗り合ってもいない。ただ、用心しなくてはいけないという感覚は不思議なほど覚えなかった。
その人がそばにいるだけで、狭い部屋の中が一気に明るくなったような、なにやら安心するような。それでいて華やかでもあり、大きくてあたたかいもので包み込まれているような気持ちになる。
そういえば、アスランも警戒心をあまり起こさせない人だと思いながら、ヘイゼルはじっとその老人を見つめた。彼のほうでもしばらくヘイゼルを見つめ返していたが、ややしておもむろに頭を下げた。
「さっさと助けてやりたかったが、叶わなかった。──つらい思いをさせたな。すまなかった」
拷問部屋のことだ、とヘイゼルは思った。あの部屋にヘイゼルが入れられたことを知っているのは、確か、王宮内でも限られた人だけのはずだ。
「いえ……」
「ひどい目に合ってはおらぬか。正直に言いなさい。──まあこの部屋にしても、若い娘にあてがうにしてはずいぶんだが」




