第6章 三代目の狼 1
アスランは、窓の縁に手をかけて、今しもあがってこようとしているところだった。
ヘイゼルは自分が発作を起こしたばかりだということも、さっきまで泣いていたことも忘れてベッドから飛び降りるとあわてて彼に手を貸す。
なんてことかしらとヘイゼルは冷え切った彼の手にふれて思った。
(なんてことかしら、本物だわ。幻じゃないわ)
彼はヘイゼルの手を借りて体を持ち上げると、ひょいと窓辺を乗り越えるようにして室内に入ってきた。それから改めて聞き直す。
「どうしたの、泣いてるの」
「……泣いてない」
涙のあとがまだ乾いていないということも忘れて、ヘイゼルは言った。見え透いた嘘にアスランが笑う。
「ん? どこか痛いの? それとも誰かになにかされた?」
「……誰にも、なにもされてない」
うわごとのようにヘイゼルは返した。
こうして彼が目の前にいて、手を伸ばせばふれられる距離にいてもまだ信じられない。
どうして。どうやって。どうして。疑問がぐるぐると頭の中をまわる。迷った末に口から出たのは、ひどく子供じみた一言だった。
「本物なの……」
「本物ですよ」
笑いながら返してくるアスランの体を、とっさに検分してしまった。
「けがは。どこもけがはしてない?」
彼の体には綱もついていない。考えるとぞっとするが、おそらく塔の外壁をその両手と両足でのぼってきたのに違いなかった。アスランはさらに笑う。
「こんな時にも俺の心配、先にしちゃうんだもんね」
「だって!」
「こう見えて砦育ちだよ。これくらいちょろいよ。……この塔の設計者に、防犯を考えるならもう少し組み石の凹凸を削ったほうがいいって言っといて」
「……機会があったらね」
「なんで泣いてたの」
その両手が無遠慮にヘイゼルの両頬を挟む。冷たい手だった。
冷たいけれど、この手にふれられたかったと思ったら、泣きやんだはずなのに再び涙が滲んできた。
「……泣いてない」
「ふうん?」
まったく真に受けていない言い方だった。
「言いたくないなら言わなくていいけど。ヘイゼルはそう簡単に泣いたりしない女の子だから。──心配だな」
「そうかしら」
「そうでしょ。ヘイゼル、あの家で何年暮らした?」
「十七年」
「ガーヤとジャジャの目の前で、追放の暮らしがつらいと泣いたことは?」
「ないわ」
一度もない。あるわけがない。そんなことをしたら、二人がどんなに心配するか。なにより、ガーヤが悲しむだろうから。
「じゃ、砂漠で泣いたのは、十七年分の涙だったってことでしょ。──ためこみすぎ」
「さも、俺は見ていません、みたいな顔してたくせに」
あの時のことを思い出すと恥ずかしさが募って、ヘイゼルは口を尖らせた。
「そりゃするでしょ。だってヘイゼルの性格だと、大丈夫? って声かけたら必ず大丈夫って返すだろ。たとえ大丈夫じゃない時でも」
「……」
「だから俺は今も無理に聞かないけど、ヘイゼルが泣くほどのなにかがあったんだな、って思うことにする」
ヘイゼルは首を横に振った。
なにもないわけではなかったけれど、もういい。もう十分だと思った。この人は、自分がなにも言わなくてもちゃんとわかってくれるのだと。
(来てくれた……会えたから、もういい)
ぐすっと涙をすすりあげて、ヘイゼルは彼を見上げた。琥珀と灰色の、左右で色の違う瞳がヘイゼルを見返す。
「どうしてここにいるの。どうやってここにきたの」
アスランはちょっと秘密めかすような、幾分やんちゃ坊主のような顔になった。
「どうやって……はまあ、色々やりようがあるとだけ言っておこうかな? ……どうして、は」
そこで一度言葉を切って、真摯なまなざしでヘイゼルを見下ろす。
「何度書状を送っても、ヘイゼルのお父上がお返事をくれないから、もう、直接来ちゃった」
「……返事、って」
その言葉に抑えた怒りが滲んでいる気がして、ヘイゼルは声をひそめる。
「実は、ヘイゼルとはじめて会う前から、俺は君の父王陛下に書状を送っていた。あなたが砦のまわりに貼りつけている私兵を退かせろ、って」
「……私兵」
「そう」
砦という言葉がまた出てきた。尋ねたかったが後回しにしてヘイゼルは先を促す。
「私兵ってどれほど」
「んー、数にしておよそ数百」
しごくあっさりアスランは口にしたが、ヘイゼルは、それはちょっとした軍隊の規模だと思った。父がまさか、そんなことをしていたとは。
(いえ……するかも。あの人なら)
そう思えることが悲しかった。
「砦に抜け道はいくらもあるから、たとえ道の一本や二本が一時的に使えないところで、実際には困らない。だがそのことと、停留している兵たちを黙って見過ごすのとは、また別の話だ」
そうね、とうなずきながらヘイゼルはひそかに思った。今、この人は王の顔をしている、と。
「父はあなたがたに武力で圧力をかけているわけね」
「そうだ。いくら書状を送っても返事は相変わらず一通も来やしないけどね。……最近の二通には、ヘイゼルのことも書いた」
「私の?」
「乱暴はせず、速やかに解放するようにって。彼女はこちらの素性は知らないから、問い詰めても無駄だって」
「こちらの、素性……」
息を呑むヘイゼルに、アスランはひどくやさしい目をした。
「俺がサディークの手当てを頼んだせいで、疑いをかけられたんでしょう」
「違うわ」
口が勝手に動いた。
自分のせいだと思ってほしくない。自分が悪いと彼に思ってほしくなかった。悪いのはもともと父の方だ。ヘイゼルもガーヤも瀕死のケガ人を前にして、当たり前のことをしただけだったし、そもそもヘイゼルはほとんどなにもしていないし。
「ひどいこと、されなかった?」
「平気、されてない」
「じゃ、これはなに」
やさしい瞳のままで、アスランがヘイゼルの首にふれてくる。指の先でそっと、決して痛みを感じさせないように、ふれるかふれないかで。
「違うのよ、それはただの、ええと夜会でつけた、ぴったりした首飾りの」
赤紫色にまだ残っているジベットの跡をアスランはゆっくりとなぞった。
夜会の時には幅広のリボンを結んで隠したが、今は隠すものがなにもない。
「王女を、首枷に繋いだのか……」
痛ましそうに声を掠れさせてそう言うと、両手でヘイゼルの細い首をそっと両側から包み込んだ。まるで、そうすれば少しでも早くその痕が消えるとでもいうみたいに。
しばらくそうしていて、やがてその手を肩へと滑らせ、顔を斜めにして、首の赤紫の痕のところにそっと口づけをする。
「……アスラン」
「ヘイゼル、これ」
くすぐったいような、ぞくぞくするような、逃げ出したいような、もっとそうしていてほしいような、そしてそう思っていることを絶対に知られたくないような、そんな焦りにも似た気持ちでヘイゼルが相手の名を口にした時。アスランは夜着の内側に隠れていた金の鎖に目を止めて唇を離した。
「あげた首飾り、つけててくれてるね」
「ええ……」
「もうわかってるかもしれないけどさ、俺、ハムザの狼って呼ばれてるのね」
やっぱり、という気持ちでヘイゼルはうなずいた。
やっぱり彼がそうだったのだ。




