第5章 華やかな王宮でひとり 5
ヘイゼルは北の塔の一室で静かに横たえられていた。
夜会で発作を起こして倒れ、ようやく呼吸が落ち着いてきたのは丸一日が経った翌日の夜のことだ。
(長かったな……)
体力をひどく消耗したけだるい頭でヘイゼルは思う。
それから、濃い洋酒を封じ込めたリキュールボンボンを勧めてくれた婦人のことを思い返してみる。
『わたくし大好きなのー』
ぽっちゃりとした笑顔が人好きのする彼女から悪意は感じられなかった。むしろ倒れる彼女に気づいて侍医を呼んでくれたのは彼女だ。
(むかむかするのは、そっちではなくて……)
ヘイゼルは今回のことを、半分事故で、半分悪意だとかたをつけていた。
悪意だと思うのは、宮廷の男たちのことだ。ダンスに興じていてヘイゼルのことなど見て見ないふりをする男たちがいた。明らかに目が合ったあとでそらして、自分はなにも関わりたくありませんという顔をする男がいた。さも親切そうに声をかけて、別室へ連れ込もうとする下心が見え見えの男もいた。
(ろくなものじゃないわ……)
挙句の果てに、「少し踊ればご機嫌もよくおなりですよ」「新しい飲み物はいかがですか」──ときた。今思いだしても腹が立つ。
駆けつけてきた侍医からして、やることが的外れだったのには怒るよりも呆れた。
慣れた手つきで彼女の脈をとったまではいいが、おもむろに小瓶の蓋をあけて気付け薬をヘイゼルに嗅がせたのだ。確かにこの時代、夜会で気絶する女性は少なくなかった。それは細く絞めるコルセットのせいなのだが、気付け薬には強いアルコールが入っていたので、ヘイゼルはそれを嗅がされて、余計に発作がひどくなった。
最後にはほとんど痙攣するようにして浅い喘ぎを繰り返す彼女に、なんと侍医はあとじさった。
「わたくしはなにも! わたくしはなにも!」
妙に甲高い声でそう告げる声が聞こえていた。
あまりの苦しさに、私は死ぬのかな、と一瞬頭をよぎったほどだ。
そこからどうやって北の塔の自室に帰ってきたのかは、正直覚えていない。
誰か力強い手が支えてくれたような気もするし、ガーヤの怒鳴り声が聞こえたような気もした。会いたいあまりの幻聴だったのかもしれないが。
今、ヘイゼルの枕元にはたっぷりと白湯が置かれている。小さな暖炉には水の入った鍋がかけられ、そこから常に蒸気が上がっているので苦しさは軽減していた。
(まったく、宮廷の男ときたら……)
あんな時アスランなら、絶対にあんなことはしないし言わないと思った。
ヘイゼルの様子がおかしいことにすぐに気づいて、背中に手を当ててくれるはずだった。あの夜、荷車が細い道を走ってきてヘイゼルが避けそびれた時、体で包んでかばってくれたみたいに。
それから顔を覗き込み、どうしたの、と聞いてくれる。男に絡まれたのち、すぐに衣装屋に飛び込んで人目につかない服を買ってくれたあの時みたいに、きっとなにかしらの処置をしようとしてくれたはずだった。
間違ってもあの侍医みたいに、女が声も出ないほど苦しんでいるのを前にして、自らの責任を逃れようとして弁解したりなどしない。
(アスランなら……)
あの日、ガーヤにしこたま怒られた時だってそうだった。
ちゃんとヘイゼルの手をつないで、まっすぐガーヤの目を見て、ごめん俺が無理やり連れ出した、と言った。だから彼女を怒らないで、と。食べさせたものはあれとこれとこれ、煙草の煙には当ててない。もちろん水タバコだって吸わせてない、と詳細に報告までして。
(──こんな時、アスランがいてくれたら)
気がつくと彼のことばかり考えていた。
彼がしてくれたこと、言ってくれたこと、見せてくれた笑顔。なにもかも覚えている。
『あの二人はあなたの本当の家族じゃないよね』
思い返せば、不躾に踏み込んでこられもした。
『馬には乗れる? 乗れるよね』
なかなかに荒っぽい扱われ方をされた気もする。
だけどなぜだろう、今振り返ると、やさしくされていたようにしか思えなかった。人混みで抱きとめてくれた手も、怖くないように体ごと盾になってくれるやり方も、星空の下で淹れてくれた甘くて熱いお茶も、すべて。
(こんなに、時間がたつほど何度も思いだしたりして……)
こんなに強く思ってしまってどうしよう、とヘイゼルはベッドの中で顔を覆った。
会いたいのに会えなくて、それを思うと胸が締め付けられるように苦しくて、ぐっとこらえていなくては涙がこぼれそうだった。
ここにはガーヤもジャジャもおらず、もう自分の気持ちを抑えなくてもいいということがいっそう彼女の気持ちを苦しく暴れさせていた。
(どうしよう、会いたい……)
始めは、毛並みのいい犬みたいだと思った。笑ったところは人なつこいとも。油断のならない人だなとも思った。
とっさの時にも動じない強さを持っていて、熱くておいしいお茶を入れる、器用に動く手をしていた。あの手にふれたいとヘイゼルは思った。はしたないと思われても構わない。そばにいてほしい。手を伸ばせばさわれるところにいてほしい。
誰に教えられなくても、一度も経験がなくてもわかった。会いたいと望む気持ちが恋だった。
(好き、なんだ……)
もう二度と会うはずのない相手を思って泣くなど、愚かなことだとわかっていた。頭ではわかっていたけれど、今までのように気持ちにうまくあきらめがつけられない。
ひっく、としゃくりあげる声が漏れた。室内にはお湯が沸いている音が静かに続いている。
涙はいつしか頬をつたって、こらえなきゃと思えば思うほど止められなくて、室内にはヘイゼルのしゃくりあげる声が響く。一度嗚咽を漏らしてしまったら、止めることのほうが難しかった。
ヘイゼルはベッドの中で上体を起こし、掛け布団の中で膝を立て、その上に顔をうずめる。
「うっ……うう」
しゃくりあげる嗚咽を噛み殺そうとするとのどの奥から情けない声が漏れる。
でも、もういいとヘイゼルは思った。もうここには、気持ちを隠して笑っていなくてはならない理由はない。
大切な人はここにはいない。だから、もういい。
アスランがあの日扉を開けてやって来なければ、ヘイゼルの世界は静かだった。ここに来ることもなかったし、夜会であんな思いをすることもなかったはずだ。それでも、とヘイゼルは思った。
(それでもいい。……それでもいい、後悔しないから)
彼の言葉や彼がしてくれたことのひとつひとつのほうがずっと大事なものだった。
ふと風が強くなった気がした。
もともと賓客用には作られていない塔は、小さな窓がひとつあるきりで、そこにはガラスも嵌め込まれていない。風の強い夜などは冷気が直接入ってくる。それがなおさらヘイゼルの体にはよくないのだが、世話をする女官もいないので仕方がなかった。
その窓から、思ってもいなかった声がした。
「どうしたの」
空耳かと思った。膝に伏せた顔を上げるのを躊躇するくらいに。
(……まさか)
聞き覚えのある声。だけど、まさか。
ここが塔の上だということを思いだして、ヘイゼルが気を取り直そうとした時、声はさらにたたみ掛けてきた。
「泣いてるの?」
アスランの声だった。




