第5章 華やかな王宮でひとり 4
『姫君の籠絡を』
そう約束したからには、なんとしても成功させなければならない。
アズマイラ・ドルパンティス男爵夫人は王の寝室近くに与えられた私室で侍女に髪を梳かせていた。機嫌は、この上なく悪い。
(あんなのは籠絡とは言わない……ただ苛めてやっただけに過ぎない)
やり方を間違えた自覚はあり、それが彼女の機嫌をことさら悪くさせていた。
王は理由の如何を問わず、無能な人間をそばに置かない。やれと言われれば必ずや成し遂げなくてはならず、自分からやると言った手前、失敗は許されなかった。
「痛いっ!」
きつく癖をつけた巻き毛に櫛が引っかかり、彼女は甲高い声をあげた。
「気をつけなさいな!」
恐縮する侍女を怒鳴り飛ばして、険しい顔のまま足を組み替える。
彼女の目論見としてはこうだった。田舎育ちの社交も知らぬ娘である、おそらく慣れない夜会でもたつくだろう。恥もかくであろうし、どうしてよいかわからない目にもきっと合う。それをしばらく見つめていて、頃合いを見てやさしくする。
彼女がもっとも得意とする流れであるはずだったのに……実際にはどうだ。彼女はいともあっさり人々に受け入れられたではないか。遠くからだったので内容まではわからないが、ほどよく話も弾んでいた。
(なによ……)
きり、と唇を噛みしめる。
彼女のあの振る舞い、落ち着いた態度。思いだすと腹が煮えた。
猜疑心や侮蔑や裏切りの棘の上を歩いてきた身の上には、誰の前でも物怖じしない態度はたまらなく憎らしかった。それでつい、しなければいけないことをかっ飛ばして感情のままに意地悪をしてしまったのだ。
(それに、あの言葉遣い)
いらいらと肘置きを指で叩く。
若い女性らしくなく、堅苦しいほどの丁寧な言葉遣いは彼女からすると古めかしいが、最近の女性には珍しいといって、年取った古い貴族にはおおむね好評だった。
なんと可憐で美しい、お母様に瓜二つだ、と涙ぐむものまでいた。
(──あんなもの、化粧のせいに決まってる)
そこもまた、小憎たらしいったらなかった。
わざと流行の濃い化粧ではなく、伝統の、ごく当たり前の化粧法で出てきたりして。
「いったい誰なの、あの子の化粧を受け持ったのは!」
「あの……」
言いづらそうに、髪を梳いていた侍女が言葉を濁す。
「化粧のうまい女官はあの子につけないようにと言ったでしょう!」
ややしてから侍女がおずおずと言った言葉に、男爵夫人は耳を疑った。
「あの、おっしゃったとおり、誰もつけてはおりません……」
「なんですって?」
「ドレス一式をお届けしただけで、身支度には誰もついていないはずでございます……」
「まさか」
思わず素の声でつぶやいてしまった。
「それ、本当なの」
「確かに」
ではドレスも化粧も、あの田舎娘は自分一人で整えたというのか。
あり得ない、と彼女は胸の中で打ち消す。
身分の高い女性というのは、着替えはおろか、化粧も自分ではしないものなのだ。それが普通であり、身支度のすべては側仕えの女官がしてくれる。
(だから、身支度の女官をつけないというのは、最高の意地悪になるはずだった……まずあの子はそこで泣きが入るはずだったのよ)
ドルパンティス男爵夫人は別だ。彼女は生粋の貴族の生まれではないため、もちろん、それらをすべて自分ですることができた。
育ちのいかがわしさを逆手に取って、奇抜な髪飾りを流行らせたり、与えたい印象を自在に与えるべく、工夫を凝らして人目を引く装いを作り上げるのは彼女の得意とするところだ。
(それなのに……)
きり、と今度は爪を噛んだ時、入り口からおずおずと小さな器を手にした別の侍女が入ってきた。
「お薬を……お持ちしました」
その顔はこわばって、明らかに叱られるのを怖がっていたが、男爵夫人は容赦しなかった。
「遅いわ! 呼んだのはいつだと思ってるの!」
「あの……申し訳ありません、ですがお薬がもう残り少なくて……」
「王宮の典薬寮からいくらでも貰って来ればよいでしょう。そのためにあそこの人間には多額の賄賂を払っているのよ」
「はい、ですが……」
銀の小さな器には、黒い丸薬がまるで上等のチョコレートのように入っている。あれだけ時間をかけてこれだけなの、と男爵夫人の目が細められる。
「あの、最近お薬の管理が厳しくなっているとかで……どうしても今はこれだけしかお出しできないと……」
「貸しなさい!」
ドルパンティス男爵夫人は手を直接器の中に突っ込んで、手づかみで丸薬をつかみとる。
そのまま口の中に押し込むと、いくつもまとめてバリバリと音を立てて噛み砕いた。すっとする薄荷の匂いに混じって、じんわりと覚えのある苦みが口内に満ちる。それで、苛立っていた神経はいくらか落ち着く。だが、まだだ。
(こんなものでは足りない……こんな量では今晩一晩もっていいところだ……足りない、足りないわ)
口の中にまだ薬が入っているのに、手を伸ばして幾度も器の底をさらう。次から次へと口の中に押し込む。
器が空になっても、まだどこかに残っているような気がして濃い色に塗られた爪先が器の底をひっかく。
侍女は怯えた顔つきで盆に乗せた器を差し出していた。その顔をじろりと見上げて彼女は言う。
「──なにを見ているの。追加をもらっていらっしゃい」
「……でも」
「さっさと行きなさい!」
侍女は雷に打たれたようにびくっとして、部屋から下がっていった。
(足りない……)
ぺろり、丸薬をつかんだ指の腹を舐めあげる。そこにはかすかに薬の味が残っていた。
そうしている間にも少しずつ薬の作用があらわれてきて、彼女は落ち着いた気持ちで椅子の背もたれに身をゆだねた。あたたかいお湯に浸かった時のようなため息がこぼれ出る。
(陰口を、きかれていることなど知っている)
そんなもの、特になんとも思わない。
嫉妬、中傷、なんであれだ。誰であろうと好きなように言うがいい。ただひとつ、自分の邪魔をしようとしたものは、これまで必ずどんな手を使っても潰してきた。
それは自分の身を守るための当然の権利だ。
王の一番のお気に入りという立ち位置は、敵を潰すために必要だった。
そのかいあって、彼女は王宮に出仕したごく初期の頃を除いて、面と向かって意地悪されたり、振る舞いを否定されたことはない。当然だ、誰も王の不興は買いたくないのだから。
「──なぜ、手を止めているの」
「ひっ」
髪を梳いていた侍女を下から見上げてそう言うと、侍女は震える手で仕事を再開した。
「続けるのよ」
そう、続けていかなくてはならない。ドルパンティス男爵夫人は強く思った。
王宮の競争の世界に一度足を踏み入れた以上、止まることは許されない。自分の身を守るために、立場を盤石にするために勝ち続けていかなくてはならず、負けることは死ぬことと同じだった。
(続けるためにはまだ……足りない)
あやしく瞳の奥を光らせて、じっと前を見つめる彼女の様子には不気味な一途さだけがあり、そこにはなんの美しさもありはしなかった。




