第5章 華やかな王宮でひとり 3
遠回しな言い方でも十分に彼女が愛妾だということはわかった。
艶のある黒髪を形よく結い上げ、ひとふさふたふさ、カールした毛先を胸元に垂らしているその女性は、白い肌を強調する深緑のドレスを着ていた。肘のあたりは柔らかいアイヴォリーに銀糸を折り込んだレースに包まれており、大胆にカットされた胸元にも同一のレースがあった。ヘイゼルが彼女の美しさに見惚れていると、
「今夜はずいぶん寒いですこと」
彼女の方から話しかけてきた。
「そうですね」
「王女様がこれまでお暮らしのところはいかがです? ここと比べて?」
「ここよりは温かいですが……もうじき冬ですので……」
当たり障りのない挨拶を受けて返したつもりだったが、彼女はヘイゼルが言い終わるのを半ばひったくるようにして続けた。
「温かいのは、砂漠にほど近いからかしら?」
「……そうです」
そうとしか返しようがなくてヘイゼルはうなずく。
「まあ! 姫君は砂漠でお暮らし?」
「違います、森の端です」
ざらつくような掴みどころのない会話の主導権を相手に握られており、よくない傾向だなというのは感じていた。だがヘイゼルが話題を変えるより早く、彼女の方が次々と質問を繰り出してくるので、答えないわけにもいかない。
「まあ、国境近くの森ですか。ロマンチックですわね、なにもなくて」
褒めているようで、褒めてはいない。
「そんなさみしいところでお暮らしなんて、考えただけでも素敵ですこと。物語みたいで」
にこっと笑われて、ヘイゼルも笑みを返した。
これは愛想笑いじゃないからね、ガーヤ。と内心で思う。これは、喧嘩を売られたから受けて立ってるだけなんだから。
「わたくし田舎暮らしは憧れですの。もしかして、畑なんかもあるのでは?」
「ありますけど」
「素晴らしいわ! 畑仕事をなさってお暮らしだったのね、王女様は!」
言葉にはちくちくしたものを折り込みながら、表情だけは申し分なくうっとりと、細く甘い声をあげる。
周囲の人たちも、賛同するようにくすくす笑うものが半分、曖昧な微笑を浮かべて困ったようにしているものが半分だった。表面上はあからさまな悪口でないため、その言葉にいくら悪意を感じたところで、表立って糾弾するわけにもいかない。
(──ここは静かに耐えるべきところだわ)
ヘイゼルはとっさに判断した。
それにしても、彼女のしたたかさと会話の巧みさ、それに華やかさには、悪意があるとわかっていても感心せずにいられなかった。見惚れてしまうくらいには、その人は美しい人だったし。
この圧倒的な美貌は、王宮においてはさぞかし強い武器になるのだろうとヘイゼルが思った時、脇から若い男性が数人割りこんできた。
「新しい王女陛下、踊りましょう」
「僕だぞ」
「なにを言ってる、僕が先だ」
若者たちはすでに酔っているらしい。始終にこにことして、いくらか馴れ馴れしかったが、この会話から逃れるいいきっかけになると思って、ヘイゼルはその中のひとつの手を取った。
◇◇◇
ヘイゼルが踊っているのを、男爵夫人は怖いくらいじっと見つめていた。
ダンスが一曲分終わる頃になっても、まだ視線はそれてくれない。
(悪意……というにも、ねちっこすぎやしないかしら)
おかげでヘイゼルは話の輪に戻りたくない一心で、相手を変えて続けざまに三曲も踊り通してしまった。
「──ごめんなさい、たくさん足を踏んだわ」
「構いませんよ、いくらでもお教えします」
今はどちらにお住まいなのですか、伺って最近のステップをお教えしますよと押してくる若者をなんとかかわして、最後のほうはくたびれ果てて大広間の壁際のほうへ戻ると、そのヘイゼルの姿を見た小太りの中年婦人がおいでおいでをした。
ヘイゼルが寄ると、小さな銀の皿をえくぼのある手に乗せて差し出してくる。
「踊ってお疲れでしょう、甘いものはいかが?」
「いただきます……」
実を言うと、喉も乾いていた。男たちはダンスが終わるごとに飲み物を勧めてくれたけれど、どぎついミドリ色の液体や、気泡の上がるグラスの中身は見るからに酒類らしくて、ヘイゼルには手に取れないものばかりだったのだ。
(お酒じゃないものを頼むには、どうしたらいいのかしら……)
思いながら銀の皿に手を伸ばす。
はじめは、なんてかわいいキャンディ、とだけ思った。刷りガラスのような小粒のキャンディの上には爪の先ほどのシュガープレートがついており、色ごとに違う果物の絵が描かれている。
「これね、わたくしだぁい好きなの。ここにはいつもあるのよ」
中年の婦人はラズベリー色のをひとつつまんでぽいと口に入れた。噛みしめて、世にも幸せそうな顔になる。
ブラックチェリー、マンダリン、カシス、ストロベリーにミント、レモン、プラム。色とりどりのキャンディは見た目にも愛らしくて、ヘイゼルはついひとつそれをつまんでしまった。それがリキュールボンボンなのだと気付いたのは、口の中で砂糖衣が溶けた頃だ。じゅわっと濃厚な洋酒の香りが口内に充満する。
(──いけない)
早くもくらくらしてくる頭で思った。これは、まずい。
(いけない、発作が起きる……)
吐きだすわけにもいかなくて、ヘイゼルは両手で口元を覆った。
めまいがきつくなり、すぐにしめつけられるような息苦しさが襲ってくる。それだけでもうわかる。これは、放っておくと、もう何年も起こしていなかったほど大きな発作になると。
「あの……わたくし失礼します」
ちょうどあたりには菓子や軽食の置かれた大きなテーブルがあり、ダンスホールのすぐわきであることも手伝って、ひと休みしたい人たちが溜まっていた。貴族女性が着る正式なドレスは横幅があり、人々の間を抜けていかれない。
「すみません……通してください」
まだ言葉が口にできるうちにヘイゼルはそう言ったが、あたりの人たちは笑ってこう言うだけだった。 まあ、まだいらしたばかりなのにもったいない。これから人気の歌姫が歌いますのよ。
その笑顔に悪意は見られなかったけれど、ヘイゼルは焦り混じりの苛立ちを感じる。
(そうじゃない……そういうことじゃないのに)
こういう時、社交界ではどうやら一度や二度は相手を引き留めてかかるのが礼儀であるらしかった。人混みは一向に動く様子がない。扇をひらいて笑う顔、冗談を言う若者、退屈そうな顔などが視界にうつり、苦しさのせいでそれはやがてぼやける。
(お願い、ここから出して……ガーヤ……今ここにいて……)
まるで、見えない手で首を絞められ続けているようだった。息を吐くことはかろうじてできるけれど、吸い込むことがどうしてもできない。
(……アスラン……)
ふいに、思いもよらない顔が浮かんできた。
日焼けした、人なつこい犬みたいな笑顔が。
彼に会いたいと強く思った。その瞬間。
ダンスホールで踊る男女の向こうで、あの美しい男爵夫人がヘイゼルに視線をあてていた。
(──あっ)
彼女がにたりと笑うのが目の端にうつる。
獲物発見、とその顔には書かれていた。遠目にも、蜘蛛の足に似たグラマラスな睫毛が嬉しそうに震えるのがわかった。彼女は手の平で閉じた扇をパンパンと鳴らして、大きな声をあげた。
「にぎやかな音楽を!」
おおっ、と人々は盛り上がり、我先にホールへ出ていく。ホールがいっぱいになって入れなくなると、人々は今いるその場で回転しながら踊りはじめた。おかげでヘイゼルはよりいっそう身動きが取れなくなる。回転で膨らむ貴婦人たちのスカートが所狭しとひらひらして、逃げ場をなくしてゆく。
(お願い……誰か、医師を)
声を出すのも苦しくなってきて、片手を上げて助けを呼ぶヘイゼルの姿は、男女がかかとを打ち鳴らして激しく回転しながら踊る姿にまぎれてしまう。
(わかってて……意地悪を)
男爵夫人のにんまりとした笑顔も次第に滲んでゆき、ヘイゼルの意識が薄れていく。
(もう……ダメ)
かろうじて立っていられたのはそのあたりまでだった。
ヘイゼルは、その場にがくりと膝をついた。




