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第5章 華やかな王宮でひとり 2

 塔で暮らして数日後のこと。


 唐突に夜会に出るよう言われて、驚かなかったわけではない。だが女官は夜会で使うドレスから靴、髪飾りに至るまでひと揃い用意してくれたし、まあこんなことも王宮に連れてこられた以上一度はあるかと心の準備もしていたので、ヘイゼルはそれを聞いてわかったと返事した。


 驚き顔で女官が下がろうとするので、呼び止める。


「迎えに来てくれる?」

「はい?」


「王宮の中は右も左もわからないわ。時間になったら私を呼びに来て、そこまで引率してもらえるかしら」

「……ええ、はい、まあ……それはもちろん」


 女官がなぜ言いよどんだのか、ヘイゼルにはわからなかった。だが呼び止めてまで聞くようなことでもないと思ったので、そのまま行かせた。


 女官はヘイゼルの求め通り、夜になって彼女を迎えにきたので、そこは素直にありがたかった。この広大かつ複雑な王宮の中を一人で歩け、と言われるのは今のヘイゼルには無理だ。


「──行ってらっしゃいませ」

「行ってきます」


 途中まで手を取ってくれていた女官と別れて、ヘイゼルは一歩一歩、ダンスホールへと通じる大階段を降りていく。


 ホールは吹き抜けになっており、天井は、見上げるとめまいがしそうなほど高い。天井からつながる柱は精緻な彫刻と金泥で飾られており、そこかしこに聖人や天使が描かれている。


 天井から下がっているひときわ大きなシャンデリアと、壁面に数え切れないくらい灯っている燭台とで室内はまばゆいばかりだった。談笑する着飾った男女たちが、そのまま広間の飾りとなっている。


 ヘイゼルがゆっくり階段を降りていくと、そこにいた人々が振り返って彼女を見た。


 さまざまな顔がある。笑顔、探るような顔、無表情。無邪気な笑顔、冷静に見定めようとする目、作り笑い、目を合わせようともしない顔。


 ガーヤの教えを思いだしながら、ヘイゼルはゆっくりと階段を降りる。


(──ゆっくり。背筋を伸ばす。あごを引く。視界は広く取る。肩の力は抜く。してはいけないことは、愛想笑いと不安な素振り)


 習った通りに体を動かしていると、次第に、視線が気にならなくなってきた。目が合ったなかに感じのよい笑顔を浮かべている女性がいたので、ヘイゼルも同じだけ笑顔を返す。ほおっというどよめきがあたりに満ちる。


(微笑みには微笑み。会釈には会釈。──不躾な好奇の視線には決して顔色を変えてはいけない。目を合わせてもいけない。静かに堂々と視線の前を通り抜けること)


◇◇◇


「いいですか、姫様」


 ヘイゼルがいくら嫌がっても、ガーヤは立ち居振る舞いの稽古をやめることはなかった。


 お辞儀の仕方、歩き方、笑顔の作り方から始まって、彼女の指導は優雅な求愛の受け方にまで及んだ。


「淑女のマナーとして、なによりもまず大切なのは」


 はい、はいとヘイゼルは聞いている。こういう時のガーヤに逆らっても無駄なことは会得済みだ。


「好きな人には素直になることです」

「ねえ、ガーヤ」


 さすがにこれには苦笑してヘイゼルは答えた。


「私にはこの先、恋人ができる日なんて来ないわ。わかってるくせに」


 すると乳母は首を振った。


「違います。男女の別なく、老若にかかわらず、です」


 ヘイゼルは目をぱちくりさせる。


「好きだと思った人には自分から心をひらくこと。いいですか」


 いつものくせで、ええ、とヘイゼルは返事をした。その実、ちっともわかってはいなかったのだけれど。ガーヤは続ける。


「好きだという気持ちを十分形の中に込めた時、それはもっとも格の高い礼儀となるのです。さ、もう一度、お辞儀から」


◇◇◇


 ヘイゼルが落ち着き払ってホールに降りるのを見て、参列者の間にはため息のような声が漏れた。


 もともとヘイゼルは美しい少女だったし、流行の濃厚な化粧をしていないことも彼女の整った顔立ちを瑞々しく際立たせていた。


「あの方はどなた」

「五番目の王女様でしょう」

「あの方が、そうか」

「ファナティックとおっしゃるのよね」

「はじめてお目にかかるわ」

「確か追放されたのでは」


 ひそひそと周囲の声が耳に届く中、ヘイゼルは思った。


 この中に、好きだと思える人はいない。だけど自分にすべてを教えてくれた乳母のことを思おう。


 今もこの王宮のどこかにいる彼女への感謝を胸に抱いて、自分のせいで乳母が笑われないような振る舞いを、今日はしてみせる。


 所詮、血筋がよいというだけの田舎娘。そんなふうに高をくくっていた人々の予想は、その夜、あっさりと裏切られた。

 好奇心と、退屈を紛らわす刺激を求めて彼女に話しかけた古い血筋の貴族女性たちは、ヘイゼルの受け答えに幾度も目をぱちくりさせることになる。


「まあ……我が孫のことまでご存じでいらっしゃるとは……」

「お会いしたことは勿論ありませんが、昨年ご結婚なさったことは存じてます。──遠くに行かれてお寂しいことでしょうけど、ご結婚、おめでとうございます」

「まあまあ、まあ。嫁ぎ先のことまで……」


 年一回新しくなる、国内外貴族総覧をくまなく読んでいたことが役に立った。誰が教えてくれなくとも、貴族の中で起きていることはたいていそれを見れば書いてあった。何度も何度も読み返すうちに、貴族の名前と各分家ごとの構成、それと、それぞれの所持領土くらいはそらで言えるようにもなる。


「第五王女殿下でいらっしゃいますの? はじめまして、わたくし、メラニー・マンタレイです」


 ヘイゼルは少し考えてから、彼女が着ている鮮やかな真紅のドレスに目を落とし、にこっと微笑んだ。


「マンタレイ領主夫人でいらっしゃいますね、お召しになっている赤いドレスの染料は、ご領地で採れたものですか?」


「そうですの! まあお詳しいこと……国内でも最高級の染料を作っておりますのよ、よかったら、王女殿下にもいずれ献上に上がらせていただきますわ」


「マンタレイの染料は青も有名ですが、近年、ご領地では赤色に力を入れておられると聞きました。さすがに見事な鮮やかさですね」


「おわかりくださる? この玉虫色の光沢を持たせるために夫は何年も費やしましたの。ぜひ明日にでも布地を届けさせますわ、殿下の色白の肌をきっと引き立たせてくれましてよ」


(届けるって……どこにかしら)


 厚意はありがたいが、内心でヘイゼルは苦笑した。

 あの北の塔に? それとも、ファゴットの森の端の家に?


(どちらも、無理よね)


 その時だ。人の間をゆるやかに縫うようにして、こちらへ歩いてくる美しい女性が目に入る。


 なぜだろう、ヘイゼルには、その人が自分めがけてやってきているような気がしてならなかった。


「あちらの美しいかたは……」


 横にいるマンタレイ領主夫人に尋ねると、彼女は声をひそめて返した。


「あの方は……ドルパンティス男爵夫人ですわ」


ヘイゼルは記憶を探る。


「その……現在もっとも陛下のお気に入りの女性でいらっしゃる方です」

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― 新着の感想 ―
[一言] …好色じじぃ…(笑)
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