第5章 華やかな王宮でひとり 1
拷問部屋から出されたヘイゼルに、急遽、私室としてあてがわれたのは細く高い塔の最上階だった。
人ひとりが通るのがやっとの狭い階段を上がってそこに入ったヘイゼルは、はっとして立ち止まる。
その部屋は、仮にも王女の私室とするにはあまりに小さすぎ、またあまりに簡素な部屋だった。
部屋の狭さもさることながら、幅の狭い階段を降りた先には王宮の北の棟とつながる扉が一枚あるのみ。階段の途中には窓もない。
要するに、あからさまな虜囚扱いなのだった。
(これって……まさか)
だがヘイゼルが足を止めたのはそれが理由ではなかった。
その部屋には、ガーヤの気配が感じられた。
ベッドの整え方、サイドテーブルの明かりの位置、食べるためというよりも、室内をほのかに香らせるために置いてある小さな林檎。すべてにガーヤの気配がある。この整え方は彼女だ、間違えるはずもない。
ヘイゼルは信じられない思いでゆっくりと足を踏み入れ、林檎の籠の脇に置いてあるお茶のポットの前で足を止めた。お茶の横に添えてあるラズベリージャムのクッキー。食べてみなくても見ただけでわかる。
これは、ガーヤが作ったものだ。
姿は見せないけれど、そばについていてくれるのだと思うとつい声に出てしまった。
「ガーヤ……」
割とせっかちで、礼儀作法には特に厳しく、すぐ手が出る人だった。
暑いからといってジャジャがだらしのない格好でいたり、村の若者の間で流行りのくだけた言葉遣いをしていると、彼の後頭部は平手で叩かれ、よい音で鳴っていた。
怒ると怖い人だったが、骨惜しみという概念がなく、サボることは罪悪と考え、いつもなにかしら必要なことのために手を動かしている人だった。笑う時には顔の筋肉が破壊されそうな勢いで笑う人だった。
彼女が無事でいること、そして自分を気遣い、どこかで見守ってくれていることを感じてヘイゼルは胸の前で両手をきつく交差させた。
「ありがとう、ガーヤ……」
◇◇◇
私室に戻ってきてからずっと苦々しい顔をしているイアン・ウィービング王に女はそっと語りかけた。
「姫君はいかがですの?」
王は小さく首を振る。
「まったく黙り込んだままよ。本当に気の強い……」
あらあら。とアズマイラ・ドルパンティス男爵夫人は王に合わせて困ったような顔を作った。その白く細い指先が伸びて、王の首筋から肩にかけてをやさしくさする。
黙ってさすらせておきながら王は続けた。
「仮にも身分としては王女である、王宮に呼んだからには一度は人前に出さねばなるまい……と言うのだ」
「それは、どなたが」
「先王だ」
眉間にしわを寄せて王は言った。
彼の父であり、息子にあとを譲る形で自分は引退した先王は、王位を退いたというのに妙に重臣たちに影響力があり、それが彼にとっては忌々しい。
確かに、言っていることはまっとうなのだが。それにしても。
イアン王はため息をつく。
「あの方の気まぐれにもまったく困ったものだ……あの娘を人前に出して、いったいどうする? 隠居の身であられるのだから素直に大人しくしていてくれたらよいものを……」
ほほほ、と声に出して女は笑った。
「よろしいではありませんか。もしご自分が、王女としての扱いを受けるにふさわしいなどという思い違いをなさっているのなら、きっと良いご教育の場にもおなりでしょう? ──たとえば華やかな夜会、などは」
貴族の養女という立場を経て王宮に上がり、あれよあれよという間に王の愛妾になりあがった彼女にとって、相手の気持ちを読むことは得意中の得意で、相手が言ってほしい言葉を適切なタイミングで口にするのは、半分寝ていてもできることだった。
「うむ……そうか。なるほどな」
撫でさすっていた王の肩のあたりから力がふっと抜けたのを彼女は確認する。
王の機嫌を取るなどたやすい、と彼女は思った。王は先程よりは幾分機嫌よく、袖机の上に積み重なっていた書状の山のうち一番上にあったものを取って開封した。だが、開封するなりその眉が再びひそめられる。王の肩にぎゅっと力がこもる。ああせっかくほぐして差し上げたのに、腹立たしい。と女は心の中でひっそり一匹の黒い虫を飛ばせる。
「こやつもしつこい。これで何度目か!」
「──陛下」
苛立つ王に、彼女はゆっくり手の平を滑らせて、彼の肩のひときわ凝っているところに来ると、くっ、とわずかに力を込めた。すぐに、離す。
そっと、やさしく。押して、戻す。決してごり押しするばかりが技ではない。ぽんと言葉を浮き上がらせる感覚で、頃合いを見計らって彼女は言った。語尾は少しだけ持ち上げて。
「ひとつくらい、わたくしに仕事を与えてみてくださいませ」
王は書状から目を離すと、肘掛けに寄りかかる姿勢を物憂げに変えながらため息をつく。その書状には、金色に輝く狼の牙の印章がくっきりと押されていた。
「なにができる」
その言葉に、彼女は王の前へ進み出た。そのまま足元にしゃがんで、王の視線が自分に向いているのを十分わかった上で魅力的に目を伏せた。長い睫毛がなまめかしく白い頬に影を落とす。
「姫君の籠絡を」
「できるのか」
彼女は細い首をもたげて王を見上げる。甘えるように。
「ええ、もちろん」
「むむ……では、やってみよ」
「ありがとうございます!」
ほらこれで問題がひとつ解決でございましょ、と歌うように言うと王は喉の奥で笑い声を漏らした。
かわいい女の、ちょっとした我が儘をたやすく聞き届ける男の役ほど、この男の好むものはない。──そのかわいい女に、己のことを崇め、敬い、持ち上げてもらうのも。
「もうひとつ、ついでに解決して差し上げましょうか?」
さも遊び半分、という体で彼女は言う。
愛する女が真面目に有能であることを彼は好まない。だから彼の手助けをする際には、いかにも、わたくし遊んでるんですの、ちょっとおいたをしてしまったら御免なさいまし、という体裁をとらなくてはいけない。──馬鹿馬鹿しいことではあるが。
彼女は王の手から書状を取り上げ、さっさと火にくべる。王はちょっと椅子から腰を浮かせかけたが、遅かった。ドルパンティス男爵夫人はくるりと暖炉の前で身を翻す。
「ほうら、なにも、なかった。そのような書状は、一切、ここには来ていない」
王は目をぱちくりさせて言葉を探していたが、やがて、喉をのけぞらせて笑いだした。
「御怒りになりました?」
そのような心配は必要ないのをわかった上で聞く。
「けど、大切なものなら、また送ってきますでしょう」
「お前は、よいな」
「そうですか」
「お前は、いつも楽しそうなところがよい」
「あら、まあ」
「他の女のようにしくしく泣いたり、深刻ぶったり、弱々しくすがったりしない。そこが気に入っておる」
「ありがとうございます」
口先のきわだけで適当な相槌を打ちながら、にっこりと見目よく微笑みながら、美しい寵姫の胸の中では黒い虫が数を増やし、ぶんぶんと飛んでいた。




