第1章 まさかお客が来るなんて 2
「薬草は練れたかい」
「もうちょっと」
乳鉢で薬草を練り合わせているジャジャが応えて、作業の手を幾分はやめた。
出来上がったそれをガーヤに手渡すと、彼女はどろりとした緑灰色のものを、顔を近づけるようにして背中の傷口に塗り付ける。
薬が傷口に触れた最初の一瞬だけ、ケガ人のだらりと伸びた手がかすかに反応したけれど、それは最初だけで、彼はうめき声を上げることも身をよじることもなかった。そうできるだけの体力がもう残っていないのかもしれなかった。
ひどい、とヘイゼルはそばで見ていて眉をひそめる。
(いったいどうして、こんなケガを)
傷口全体を覆うように薬を塗り終えるとガーヤは息をついた。
「これで血止めと化膿止めができた……」
「ありがとう、感謝します」
「まだ早いよ。あたしは医者じゃない。ケガ人の意識が戻ればまた他に打てる手も出てくるが」
あなたの見立てを信頼します、とアスランが神妙に言って、だからあたしは医者じゃないつってんだろうっ、とガーヤに叱り飛ばされている。
ケガ人を前にして大声を出しているあたり、ガーヤもそれなりに動揺しているらしかった。
ヘイゼルもジャジャも、これまで大きなケガをした覚えはない。包丁で手を切ったとか、転んで足を切ったとかいう時にはあれと同じ緑灰色の薬を塗って治してもらったものだが。
「内臓まで達していないのが幸いだったけど、なにせ出血が多かったね」
ガーヤは眉間にしわを寄せている。
「本人の意識が戻るまで、様子見だ。あんたもここに寝るだろう」
「はい、許してもらえるなら」
「ジャジャ、ここにもうひとつ寝床を作っておあげ」
「わかった」
ジャジャはそう言うと、立ち上がって部屋から出て行った。
出て行く間際、肩越しにアスランのほうを振り返って、軽くにらむような表情になったことにヘイゼルは驚いた。
彼が人を嫌うそぶりを見せるなんて珍しいことだった。
もともと愛想よしだし、近隣の村娘たちがそろって憧れているほど整った容貌でもあるし、それをそつなく受け流す処世術も持っているのに。
ジャジャのこんな顔は初めて見た、とヘイゼルは思う。
(そんなに警戒するほど、怪しい人たちではないと思うけど……)
「すまない、世話になるよ」
寝具を抱えて戻ってきた彼にアスランは言ったが、ジャジャは聞こえていないふりで黙々と寝床の用意を整える。
その態度が、露骨に、歓迎していないことを示している。
「さて当座のところできることはした、あたしかジャジャが交代で起きているが、もしケガ人の意識が戻ったら呼んどくれ」
そう言ってガーヤが片膝を立てて立ち上がろうとした時。
「どうかこれを」
アスランが懐から小さな革の小袋を出した。
「なんだい、これ」
「ただご厚意に甘えるわけにはいきませんから」
ガーヤの目がぎゅっと細められる。
ガーヤは手を出さず、アスランも袋を引っ込める様子を見せない。しばらくの沈黙ののち、口をひらいたのはガーヤだった。
「まずその袋を引っ込めな」
「でも」
「金目当てでケガ人の手当てをしたと思われたら、オーランガワードの人間の名折れだよ」
「そういうつもりではないんですが」
そのやり取りを部屋の隅で見ていてヘイゼルは思った。
──うん、やっぱり、しつけのいい犬みたいだと。
滅多にあることではなかったが、これまでここに迷いこんできた旅人たちは誰も、ガーヤに睨まれてつけつけものを言われると、むっとしてそれから怒りだしたものだ。だが彼はびくともしていない。その様子は、多少のことでは吠えたりしない、強くて穏やかな大型犬のようだった。
「あんたが逆の立場だったなら、こういう場面で多額の金を貰うことと、ケガ人を見過ごしにするの、どっちがどれだけ気分が悪いんだい」
「そう言われてしまうと、言葉もないですね」
アスランはちょっとあきらめたように苦笑して、その袋を下げた。
「どのみち、お礼はさせていただきます。だが今日のところは──ありがとうございました」
そして安心したように金貨の袋を取り出したのと同じあたりから、煙草の包みを取り出して慣れたしぐさで一本抜き出し、口にくわえて暖炉に近づき火をつけようとした。
(──あっ)
と思ったヘイゼルが止める隙もなく、ガーヤは立て膝のスカートの中へ効き手を突っ込んだかと思うと、そこから取り出したムチでアスランの口先から煙草をはじきとばした。ケガ人の、色素の薄い髪の毛がムチの風圧でひとすじ宙に浮く。
アスランが、煙草の包みをまだ片手に持ったまま目をぱちくりさせているところへ、ガーヤは低い声で言った。
「うちのヘイゼルはね、体が弱いんだ。この子の前でタバコを吸ったら、ケガ人もろとも叩きだすよ」
「待って、なんでムチ……」
「それから、この子に酒を飲ませても同じく叩きだす。この子が発作を起こすことはなんであれ厳禁だ。わかったね、わかったら返事」
アスランはゆっくり、ゆっくり両手を肩の高さまで持ち上げ、言うほかなかった。
「…………はい」
◇◇◇
血止めの薬が効いたのかどうか、ケガ人のサディークが意識を取り戻したのはその日の明け方だった。
「……ッ」
彼は目だけを動かしてあたりを見回す。小さなランプが置かれているだけで、室内は薄暗かった。
それでも見覚えのない部屋だということはわかる。背中が焼けるように熱い。自分はなぜここにいるのだろう、と彼が思った時。
「おや、気がついたね」
女の声がした。
若い女ではない。深みのある、しっかりとした声だ。
「この人の言うことには逆らわないほうがいいぞ。女ムチ使いだから」
次いでアスランの声がする。
ムチ使い? 彼は首を動かしてみようとしたが、できなかった。
「うん、ここにいるよ」
アスランはサディークの心を読んだようにそう言った。
「さてと、薬を飲めそうかい?」
低い女の声がして、大きな手の平が彼の額にあてがわれる。分厚くてあたたかい手の平。
「飲めそうなら、吸い飲みをあてるからね。ちょっとだけ口をあけとくれ」
サディークが唇をあけると、陶器の吸い飲みが近づけられる。
くせのある強い匂いにサディークは一瞬眉を寄せた。珍しい──だが彼にとっては覚えのある、だが自分では飲んだことがない薬品の気配。
「眠くなる薬が入っているから、飲んだらすぐに眠くなるよ。神経を麻痺させて、傷の治癒を最優先させるんだ。あんたが正気でいると、体は苦しみ続けるから。それは体力を消耗させて治りを遅くさせるんだ」
女は強引に薬を押し付けてこようとはしなかった。そうしようと思えばできたはずなのに。相手の意思を尊重しようとする気配がそこにはあった。
少し考えて、サディークは自分から吸い飲みに口を当てた。
さらりとした液体が口に流れ込んでくる。体が拒否するような強い苦みがあったけれど、ぐっと我慢して飲みくだす。飲んだと同時に、カッと喉の粘膜が熱くなった。
「さぁよく飲んだ、勇気のある子だ。怖くないよ、次に起きた時、容体はよくなってる。そうしたら、次に飲むのはスープだよ。楽しみにおやすみ」
「見事なお手並み。女ムチ使いでもあるけど、女薬湯師でもあるんだね」
「あんたも飲みたいかい、苦い薬だよ」
「ご遠慮しときます」
「そうかい、朝のスープに混ぜたげるよ」
「遠慮しますってば」
どこか楽しそうなアスランの会話を聞きながら、彼は思った。まったくこの人ときたら。こんな場合だというのに緊迫感の欠片もないんだから。早く戻らないと、みんな、自分たちを探しているだろうに。
だがそのためには自分が動けるようになることが必要で、そのためには早くこの傷を治さなければならなかった。
アスランと女の会話が遠くなる。自分が眠りに落ちていくのがわかる。薬が早くも効いてきたのだ。
ひとまず眠ろうとサディークは重たくなりはじめた頭で思った。
おそらく、ここは安全な場所だ。なぜならアスランが気を許している気配が伝わってきたから。
あの人がそう判断したなら大丈夫だ。そう納得して、彼は深い眠りの中に素直に引きずり込まれていった。