第4章 残酷で恐ろしいのは誰? 3
そこには異論がなかったのでヘイゼルはうなずいた。
いつも、いつだって考えていた。王宮に住む父のことを。
だから黙ってあの森の端で暮らしてきた。
そのあともしばらく父王の弁舌は続いた。聞くのも恥ずかしいような下手くそな弁舌だった。
聞いているうちにヘイゼルは思う。もういい、と。
「これはな、お前のためでもあるのだぞ。ここでお前があの者のことを話せば、この王宮でお前の立場もいくらかはよくなろう。生まれ故郷の王宮に戻れるかもしれぬ。もう寂しい暮らしはせずともよくなる。お前もその方がいいとは思わぬか」
「思いません」
生まれ故郷とも思っていないし、寂しかったとも思っていなかった。
ヘイゼルのきっぱりした言葉に王は眉を寄せる。
「なに?」
「あなたが仰っていることはなにやら一見正しく聞こえますが、大切なことは、誰がどの口でそれを言っているかだと思います。どう考えても不釣り合いです。さも私の為であるような台詞と、十七年間国のはずれに追放して、ご自分では様子ひとつ見にこられなかった現実とでは」
王の顔から、それまで浮かべていた薄笑いが消えた。
険しく頑なな表情が彼の顔に戻ってくる。彼はさっと手の平で目の前を払うと、誰にともなく命令した。
「小賢しい。責めよ」
小賢しいというのは、図星ということね、とヘイゼルは思いながら、続き部屋の中から続々と出て来た衛兵に引き立てられる格好でそこを後にした。
◇◇◇
ヘイゼルが連れていかれたのは、地下にある湿っぽい部屋だった。
窓はなく、空気は重く淀んでいた。石の壁には松明が一本さしてあるだけ。
当たりを見回して、ヘイゼルは恐怖ではなくて唖然とした。やけに広い部屋の中にはいくつもの責め具が置いてある。罪人を固定する台座、天井から吊り下げる滑車、壁の飾り棚には何種類ものムチや鉄製のペンチが整然と置かれている。
(まさか、拷問部屋に連れてこられるとはね……)
石の壁には、まるでそこから生えているような格好で鉄の輪が据え付けられており、その前を通ると古い血の匂いが鼻についた。
「ヘイゼル・ファナティック第五王女殿下でいらっしゃいますね」
部屋の奥には若い男性がいた。
ヘイゼルが衛兵に連れられて入っていくと、男はその場で片手を胸に当てて略式の礼をする。
「そうです」
その男だけ着ているものが違った。赤と緑の大柄なストライプ模様のケープを身につけている。整っていると言ってもいい顔つきだが、何事にも感情を動かされない冷えた目をしていた。この男が拷問人なのだとヘイゼルは思う。
「あなたは国敵と通じておられる。そうですね」
「いいえ」
「ハムザの狼をご存じですね」
「そんな人は知りません」
迷いなく言い切るヘイゼルに、拷問人はなぜかうっすら満足そうな気配をにじませた。
軽く目礼をして革の黒手袋をつける。
「けっこう。では始めます」
どうぞこちらへ。片手を伸ばしてヘイゼルを促す彼の振る舞いは、決して粗野でもなければ卑しくもなかった。
責め具の間を縫うようにして進んだ部屋の奥には、簡略化された鳥籠のような器具があった。大人が一人、すっぽり入れるような大きさだ。
天井から幾本もの鎖で固定されて宙に浮かんでいるその器具を見たのは初めてだったが、ヘイゼルは見た途端、そこから漂ってくるおぞましい空気に足がすくんだ。
「どうぞ、おあがりください」
拷問人の口調はどこまでも丁重だ。
なにもやましいことはしていないのにひるんだ様子を見せるのも屈辱だったので、ヘイゼルは震える足を励ましながら小さな円形の足場にのぼる。足場はひどく小さくて、気をしっかり持っていないと危うく滑り落ちそうだ。
ヘイゼルが上がったのを見定めて、拷問人は鳥籠状の鉄枠をすっぽり彼女に着せかけた。手慣れた様子で鉄の留め金を止めながら言う。
「この装置は、ジベットと言います。古来、犯罪者や反逆者を見せしめにするのに用いられるものですが、こうして拷問時にも使います」
手首と胸囲をそれぞれ鉄輪で、それに首から上をさらに二ヵ所鉄輪で固定されて、ヘイゼルはその台座の上から降りることができなくなった。鉄輪は鳥籠内に固定されているため、自由に体を動かすことも、しゃがむこともできない。
天井の滑車が音を立てて回り、ヘイゼルは中空に持ち上げられる。
下から拷問人が淡々とした声を出した。
「人間は長時間体を固定されて動くことができないでいると、血のめぐりが十分進まなくなり、苦痛を味わいます。このジベットは、体のまわりにある鉄輪を縮めることで直接的に骨を圧迫することもできますが、それを用いなくても十分に拷問器具として有用なものです。どうぞしばらくジベットの苦痛を味わってください。──尋問は定期的に行います。あなたが真実を告げるのも告げないのもご自由です。ではまた、のちほど」
◇◇◇
拷問人は人間の心理をよく知っているようだった。
手短に説明を終えてしまうと、あっけないほどあっさりと別室に姿を消してしまう。
その部屋に一人取り残されたヘイゼルは、冷え冷えとした静寂のせいで余計長く感じる時間を耐えなくてはならなかった。
窓がないので時間の感覚がわからない。王宮に連れてこられた時点で夜更けと言ってよかったので、そろそろ真夜中はまわっていると思うのだが、定かではなかった。
ジベットの苦痛はじわじわやってきた。
始めは手足の感覚が鈍くなることから始まり、それは次第に体全体に及んできて、ヘイゼルは苦痛に身じろぎしないではいられなかったが、鉄輪で拘束された範囲でのわずかな自由では到底楽になどならず、そのうちに疲労が溜まってきて、意識は朦朧となり、小さな足場から何度か足を滑らせた。
もともとが、握りこぶしをふたつ合わせたほどの小さな足場だ。足裏にしっかりと意識を束ねていなくては容易に転落してしまう。胸まわりと手足の鉄輪があるため下まで落ちきることはなかったが、足を滑らせるとあごのすぐ下にある鉄の輪が喉に食い込み、ヘイゼルを心身ともに休ませない。
「あなたは国敵と通じておられる、そうですね」
「違います……」
「ハムザの狼をご存じですね」
「知りません!」
尋問はいつも同じ内容だった。
ヘイゼルが否定するとあっさり別室に下がって行ってしまうのも同じだ。
男がいなくなるとまたあの果てしないような静寂が始まるのかと思うと、ぞっとする。
もっとなにか話して、もっとここにいて。そんな気持ちにいつしかさせられていることに気づいて、ヘイゼルは唇を噛んだ。
(人間の恐怖心を取り扱うのがうまいんだわ……)
寒さも加わり、手足のしびれはやがて痛みに変わりつつあった。
そのことを考えるとつらさが増すような気がして、ヘイゼルはできるだけ意識をそらすようにつとめる。
ハムザの狼の名前にはいまだに心当たりがない。だが、もしかして、と思わないこともなかった。
なんの根拠もないけれど、彼がその人なのかも、と。
ヘイゼルがかつて読んだ文献には、ラプラは長年奴隷であった歴史のために、アウトカーストであってもひどく誇り高い性質を持ち、人に使役されるのを嫌がると書いてあった。サディークとはあまり話す機会もなかったが、それでも言葉や態度の端々になるほどと思わせられる部分があった。
誇り高いラプラ。他人に使役されるのを嫌がるラプラ。
だがそのサディークが、アスランに対しては完全に一目置き、まるで主人であるかのように接していたのが、今はやけにまざまざと思いだされていた。