第4章 残酷で恐ろしいのは誰? 1
そこから数日はなにごともなく過ぎた。
ジャジャはいつものようにしばらくすると王宮から帰ってきて、珍しいお菓子や新しい書物を持ち帰ってきてくれたし、なくなりかけていたお茶の葉も補充された。
サディークの体も、その頃にはほとんど全快と言っていいほどよくなっていて、いつ二人が出発してもおかしくない、そんな日の午後だった。
ヘイゼルは庭で一人、ハーブの枝を刈り込んでおり、アスランはサディークとなにやら奥の部屋で話をしていた。
二人はいつ出ていくのかの話をしているに違いない。
サディークが元気になってほっとする半面、さみしさもあった。
ぱちん、ぱちんと庭ばさみを使っていると、騒がしく馬の足音が聞こえて、ヘイゼルが目を上げると騎馬兵が二人、前庭に入ってこようとしていた。
紺とアイボリーの揃いの制服につばの広い帽子をかぶり、真紅の長いマントをつけている。その肩の紋章を読み取るまでもなく、オーランガワード王宮につとめる近衛兵だった。
男たちはヘイゼルの前まで来ると大きく足をまわして下馬し、視線はヘイゼルから離さないまま、膝を折る礼をした。こうしたことは初めてではないので、ヘイゼルも落ち着いて軽くうなずく。前に彼らがやってきたのはガーヤがぎっくり腰を患った時だ。
「ご機嫌よう。今日は誰に御用?」
「ファナティック・ヘイゼル殿下。あなたにです」
(……わたしに?)
近衛兵は話している間もじっとヘイゼルの顔から目を離さない。いっそ不躾なほどに。
その、まるで逃亡を防ごうとするかのような鋭い気配に不穏なものを感じて家の方を振り向くと、いつの間にかそこにはもう一人の近衛がいて、ヘイゼルの退路を断っていた。
「どういうことです。説明しなさい」
「あなたには、国敵と通じていた嫌疑がかけられております」
「……なんですって?」
「速やかに王宮へお連れし、真偽を確かめるとのこと。──どうかご同行願います」
「ちょっ……」
とっさに抗おうとしたが、二人の近衛に前後を挟まれていてはどうすることもできない。追い立てられるようにされながら、ヘイゼルは肩越しに家の方を振り返った。
この騒ぎに気づいてくれているだろうか。家の気配からはなんともうかがえない。ヘイゼルはできるだけ声を張って言った。
「ガーヤに伝言を……待って、せめて身のまわりの荷物をまとめる時間を頂戴」
「必要ありません。そのままで苦しからず、とのこと」
そっちはよくてもこっちは構うのよ、と言い返すのをぐっとこらえる。
「ご抵抗は殿下ご自身のためにならないかと。──さ、どうぞ馬車へ」
男たちは後ろに馬車を待たせていた。
二頭立ての馬車で、車体はつやのあるチョコレート色。上等なものであることはわかるが、そっけないほど装飾は少ない。不承不承中へ入ると、内貼りの布は臙脂色のベルベットだった。
(国敵と通じる……? あり得ない)
同色の背もたれに体を預ける気にもなれず、ヘイゼルは眉をひそめた。
もしかして、数日前にアスランとサランへ行ったのを王宮の誰かに見られていたのかもしれなかった。途中からは彼が機転をきかせて黒いヴェールをかぶせてくれたが、それまでは顔をさらして歩いていたから、確率としては低くとも、ヘイゼルのことを見知っていた誰かがいなかったとも限らない。
一刻を惜しむというように馬車が勢いよく動き出して、ヘイゼルはぼんやりと手に持ったままきてしまった庭ばさみを見下ろしていた。
◇◇◇
馬車はそのまま、休むことなくオーランガワードの王都エルランディアへと入った。
その頃にはヘイゼルもいくらか落ち着いており、と言うよりもなんら心にやましいところがなかったので、幾分鼻白む思いでこの道中を俯瞰していた。
(着の身着のまま連れていくなど、罪人扱いね、まるで。──いえ一応罪人とみなされてはいるのかしら。なにしろ国敵と通じていることになっているんだものね)
これからどうなるかという不安はもちろんあったが、それこそ今考えたところで仕方がない。
こうなったら落ち着いて腹をくくり、状況の把握につとめるしかあるまいとヘイゼルは背筋をのばす。
(むしろ、心配なのはアスランとサディークだわ)
自分は仮にも王女なのでそうひどい扱いも受けないだろうが、彼らは見つかると少々面倒なことになるだろう。はじめから疑ってかかっている者たちに、ただケガの手当てを求めて滞在しているだけですと言ったところで、納得してもらえるとは思いにくかった。
彼らはうまく逃げられただろうか、とヘイゼルは内張りと同じ臙脂色のカーテンを指でずらす。
窓の外にはくすんだ石造りの建物がひしめき合っている。
王都に入ってからはずっとこんな感じだった。ひたすら道沿いに同じような灰色の街並みが並んでいるのがむやみと息苦しい。
自分もかつてここで生まれたのだということが、なんだか信じられなかった。
王宮に到着し、馬車が止まる。
外から馬車の扉をあけた近衛兵は、外開きの扉の内側に庭ばさみがぐっさり突き刺さっているのを見て一瞬ぎょっとした顔をしたが、ヘイゼルは素知らぬ顔で彼の手を取って馬車から降りた。
時刻は夜になっており、広大な王宮のどこに自分がいるのかヘイゼルには見当もつかなかったけれど、近衛に連れられて歩くと女官が門の前で待ち構えており、近衛と少し話すとその扉をあけてくれた。
それを幾度も繰り返す。
長い回廊を歩いた先にはまた違う扉があり、そこで女官に取り次いでもらって先へと進む。
いつしかそばを歩いているのは近衛兵から女官に変わっていた。
それを何度か繰り返すうち、ヘイゼルは妙な感覚になった。
(……なんだろう、この違和感)
夜だというのに回廊の壁には等間隔に燭台が据えられ、あかあかと灯りが燃えている。天井は見上げるほどに高く、夜目にもそのいたるところに絵画が描かれているのがわかる。床は光沢のある白と黒の大理石だ。
さすがは大陸随一の大国、その王宮はどこもかしこも豪華で美しい。女官たちのお仕着せも見事だ。見目の良くない女は一人としておらず、髪も化粧も上手に整っている。それなのに。
ヘイゼルは違和感の出所を考えながら歩いていて、いくつめかの扉の前で待たされている時、ふと気づいた。
(そうか……生身の人間という感じがしないんだ)
隣の女官をちらりと見る。
くっきりとした中高の横顔をこちらに向けた女官は微動だにしていない。その仮面のような横顔には、どこか、半透明な膜が一枚かかっているような気がするとヘイゼルは思った。
あんまりヘイゼルが見つめるので、女官はわずかに視線を動かしてヘイゼルを見返した。だがそれだけだった。またまっすぐ前を見直して鉄壁の無表情へと戻る。
(だからだわ……)
彼女たちには、どこか人目を気にして動き、人の耳を気にしながら言葉を紡いでいる様子があった。それが、ヘイゼルの目には違和感として映ったのだった。
あの隊商都市で見たような、見知らぬ相手でも目が合うとにこっと笑いかけたり、きびきびはじけるような身のこなしで働いているものは誰もいない。
女官たちの身のこなしは洗練されていて優雅だけれど親しみは感じられず、表情も、沈着という仮面を貼りつけて二度と取れなくしたみたいだった。
ガーヤも元々は王宮の女官だと聞いていたが、彼女はこんなふうではなかった。
華奢でも美女でもなかったが、どこまでも誠実で清々しい人だった。なにをすれば喜んでくれて、なにをしたら彼女が怒るのか知っていた。顔には年齢が深々と刻まれていたがそれを隠すわけでもなく、彼女の笑顔はからりと晴れた秋の空みたいに憂いがなかった。
この美しい女官たちにはそれがない。
付き合いの浅い深いとは関係なく、なにか、相手の側からぴったりと見えない扉を閉められているような気がするのだった。だから、隣にいられるとざわざわして落ち着かない。