第3章 夜市 6
「そんなふうには見えなかったけど」
「だからこそよ」
ヘイゼルは言い切った。
「私が逃げれば二人は責任を問われてきつい罰を受ける。彼らのことを大切に思えば思うほど、私はあそこから逃げられない仕組みなの。……あの二人は言うなれば、生身の枷」
「それがわかっているのに、逃げずにいるの?」
ヘイゼルはうっすら苦笑いを漏らす。
「私、ガーヤのことは好きなのよ。ジャジャもそう」
「でも監視役だろう。おそらくそれで金をもらってる」
「ええそうね」
誰に言われなくてもそれは承知していた。だから指摘されても傷つきはしない。
「それでも、私の身になにかあったら彼女は私をかばおうとするでしょう。それくらいには母性が強い人だから。──私、彼女に嘘をつかせたくないの」
「強いね」
ふいに言われて、ヘイゼルはえっと声をあげて聞き返した。今、なんて?
「こんな強い女ははじめてみた」
自分ではよくわからなかった。私ってそうなのかしらと自問する。考えてみても答えは出なかった。
「そんなこと言われたのはじめてだわ。体が弱いのは知ってるけど。……ねえそれ褒めてる?」
「褒めてるよ」
そう言ったあと、アスランはさらに続けた。
「強いと思うよ、そういう女は好き」
「……自分では自分のこと、強いとは思えないんだけど。ちょっとのことですぐ発作を起こすし」
「淡々と日々の努力ができるのは、まぎれもなく強さだと思うよ。外敵と戦うだけが強さではないでしょう」
そうなのかしらとヘイゼルは思った。
胸の中にじんわりあたたかいものが満ちてくる。本当に? 本当に?
「ちゃんとした名前はなんというの。王族なら、それらしい名前があるでしょう」
あまり言いたくないのだけどと前置きして、ヘイゼルは告げた。ファナティック・ヘイゼル。
幾分そこだけ声が小さくなってしまったのは自分でもわかった。勇気を出してヘイゼルは続ける。
「予言を受けて、父は私の名前を変更したの。生まれる前にあらかじめ用意されていた名前から、ファナティック・ヘイゼルと」
「王女につける名でもなければ、娘につける名でもないね」
「そうね」
ふんわりとしたスカートの下で膝を抱える。
「だけど私は正式な場では必ずその名で呼ばれなくてはならないの。年一回与えられる下賜金の宛名もそれで来るわ」
それはまるで辱めのように、折り目正しく年が変わるごとに届いた。この名前を、自分の立場を決して忘れさせまいとするように。
「そんな名前は忘れなよ」
アスランは静かに言った。
「そんな名前に意味なんてない。そうでしょ」
わかっていた。自分でもわかっている。だが。
「本当はなんて呼ばれたいの?」
「本当は……?」
秘密を共有するように、そっと背中を押すようにアスランの言葉が耳に届く。
「言ってみて」
「ヘイゼル、って……」
気恥ずかしさを押しのけて口にしてみた。
「ヘイゼル様でもなく、姫様でもない。ただヘイゼルって呼ばれたいの。だから稀にしかないことでも、旅人がやってくると嬉しかった。そんな時だけガーヤは私を娘みたいに扱ってくれる。──嬉しかったの、だって他にそう呼んでくれる人なんていないから」
「俺がいるでしょ」
「……」
言われたことの意味をにわかに理解できないでいるヘイゼルがなにか言うより先に、アスランは続けた。
「ちょっと手を出して」
「はい?」
素直に差し出した彼女の目の前で、彼は両手を首の後ろに持ち上げると、そこからなにか外してヘイゼルの手の平に乗せた。
「これあげるよ」
それは、夜の闇の中でもきらきら光る金色の首飾りだった。純金であるらしく、手の平に乗せられるとしっかり重い。
「あの、これって」
あわてて返そうとするヘイゼルを、彼は手の平で制した。
「あげたいんだ。持ってて。……いやなら捨ててもいいけど」
捨てるなんてまさか、とヘイゼルは首を横に振る。
細い鎖の真ん中には一枚の金貨がぶら下がっていた。通常国内で流通しているのとは違う、かといって、ヘイゼルのスカートに飾りでつけられているような錫製の飾りコインともあきらかに違う。
金の鎖には他にもうひとつ飾りがついていた。それは肉食獣の牙のような形をしており、コインと同じように純金製であるらしく、深みのある艶と輝きを放っている。
「だってこれ、見るからに大切なものなのでは」
「いいんだ。ヘイゼルにあげる」
ヴェールの下につけると、首飾りは少しだけひんやりして、すぐに肌になじんだ。
密度の濃い純金の重みもすぐに気にならなくなり、まるで昔からつけていたかのようにヘイゼルの首元にしっくりと落ち着いた。
「お茶をもう一杯どう?」
「いいえ……もう十分」
「そう? じゃ、ガーヤが捜索しに来ないうちに戻ろうか」
帰り道は、来た時の駆け足とは違って並み足だった。
帰宅する間、ヘイゼルはほとんど口をきかなかった。
色々なことがあって心地よくくたびれていたし、馬に揺られながら考えたいこともいくつもあったし、それに、なにも言わなくても構わないような気がしたから。
帰宅すると、玄関の外で腰に手を当てて待ち構えていたガーヤに二人ともしこたま怒られたことは言うまでもない。
◇◇◇
それと同じ夜。
ジャジャはオーランガワードのほぼ中央部に位置する王宮を訪れていた。
夜更けだというのに、王の私室にはたっぷりと灯りがともされ、昼のように明るい。
義務である報告を済ませると、頭上から低く満足げな王の声が投げられた。
「よく知らせた。褒めてやる」
黒ローズウッドの寄せ木細工の床に膝をついたまま、ジャジャがひときわ頭を下げていると、今度は女の声がした。
「本当に忠実な子ですこと……」
甘く優しいのになぜか怖い、というものがある。その女性の声がそうだった。
「顔をお見せ」
ジャジャは言われたとおりにする。
その女性は一部の隙もなく丹念に飾り立てられていた。
高く結い上げた黒髪には星のような金粉がちりばめられている。艶やかに香油で梳かした髪は、蝋燭の明かりが編み目にうつりこむほどだ。顔はというと陶器のように真っ白に塗られ、唇はぽってりと赤い。
美しい女性だと文句なしに思う。それなのに、ジャジャはかつて一度もこの人の前で、緊張せずにいられたためしがない。
(陛下は……よくこんなおそろしい女性を傍に置いておけるもんだな)
余計なことを言わないように表情をじっと動かさずにいると、その人は王の肘掛け椅子に寄り添っていたのからゆるゆると動いて彼の前に立った。
半分ほど広げた扇で口元を隠し、その陰でにっと笑う気配。
「こうして見ると美しい子でもあるのね。お役目が終わったらわたくしのところへ来る? 美しくて役に立つ若者はいつでも歓迎してよ」
貴婦人が扇で口元を隠してものを言う時は、貴族社会の慣習上、決して本気ではないことを知っていたのでジャジャは慎重に答えた。
「大変光栄なお言葉です」
彼女は白い喉をのけぞらせて笑った。
なにがおかしいのかジャジャにはわからなかった。ただ、彼女がかかとの音を響かせて王の隣へ戻っていったので、なんとかご機嫌を損ねずに済ませられたことをとにかくありがたく思った。
「下がってよい」
肘掛けに置いた手の指先だけを動かして王が言う。
ジャジャはもう一度深々と礼をしてからその場をあとにしたけれど、その部屋を出た時、背中には冷たい汗をかいていた。