第3章 夜市 5
「まさか。鱗病は皮膚感染しないわ」
本の記述を思いだしながらヘイゼルは言う。
「あれはキノコよ。一種のキノコにのみ寄生する菌を体内に取りこんだ時、はじめて発症するんだわ。たちが悪いのは、乾燥させても加熱しても菌は死なないことで、人や家畜の体内に入るのをじっと待っているの。だから鱗病を予防するのはある意味簡単で、森の中で見つけても、そのキノコに手を出さなければいい。……今より少し前までは、その近接種のキノコは新年の食卓によく乗せられていたから、間違う人も多かったのでしょう」
「その通りだよ」
「だけど、あなたが子供の頃にだって、その知識はあったはずよ。だって私が読んだの、そのくらい古い本だもの」
アスランは軽く肩をすくめた。
「人の心だから。そう理屈通りにはいかないんだろうね」
アスランを引き取った隣村の司教もそれらのことは知っていたようだった。だが、知っているからと言って、感情は別物だ。
まわりの村人たちが彼のことを、「気味が悪い」「悪魔と取引した子」と思っているのはわかった。直接言われなくても、目つきや態度が雄弁だったから。そんな取引なんてしてない、好きで一人だけ生き残ったわけじゃないと怒鳴ったところで無駄なんだろうなということも。
彼らは単に自分が信じたいものを信じているにすぎない。それに気づいた時、教会で朝晩祈ることがひどくばかばかしく思えた。
いいです俺行きます、それでいいです、と、半年もしないうちに孤児院行きをあっさりと承知したのもそのせいだ。
彼を引き取りもしなかった遠縁の叔母は、驚きと安堵の入り混じった顔を見せた。
孤児院では、御多分に漏れずグレた。
毎日喧嘩をし、喧嘩以外の悪いこともそれなりにやった。そうしなければ生きていけなかったのだ。
だがまわりの少年たちを見ていれば、この暮らしの先になにが待っているのかはわかる。同じ生き物になるのはいやだったが、具体的にどうすれば抜け出せるのかがわからなくて、その苛立ちをぶつけるように、喧嘩だの盗みだの勢力争いだのに明け暮れていた。
「そんな時、彼に出会ったんだよね」
「彼?」
「バルカザール」
冬の冷気、灰色の肌。動かない家族。怨嗟、夜、鉤型に曲がったままの手の指。あの静かな夜のことを何度も繰り返し夢に見た。
なにをしていても怖かった。進む先にあるものが希望とは決まっていない。
そんな時、バルカザールは言ったのだった。なら俺とくれば、と。
「バルカザールって誰」
「俺の養い親になってくれた人」
ふうん、とヘイゼルは言い、アスランは話を先に進めた。
はじめて会ったその人は見上げるほどに背が高く、分厚い肩からも胸板からも圧迫感にも似た迫力をみなぎらせており、手の平は大きくて傷だらけだったこと。
年かさの少年たちからは彼にまつわる怖い噂を聞いていた。その人は子供を売り買いするだとか、気に入らなければ手当たり次第に殺してまわるとかいった噂だ。──もっとも、そうした話のほとんどはのちにでまかせだとわかったが。
だが噂に反してアスランの目の前のその人は、きわめて礼儀正しくむしろ紳士的な印象で、なによりもやさしい瞳と明るい声の持ち主だった。
彼と会わなければと思うと今でもぞっとする、とアスランは語った。
彼はその存在で、これまでの不安も恐怖もひっくり返してくれたのだと。
「お前のせいじゃないよ」
これまでの話を聞いてバルカザールは言った。
わかってるとは思うけど、お前のせいじゃない。そう言ってもらって、救われた。
「そいつらを恨むなよ。よくわからないものを怖がったり見下したりすることしかできない弱い奴らはおいていけ」
なんで? とまだ幼かった彼は詰め寄った。なぜ自分だけがそんなに寛大にならなくてはならないのか、納得がいかなかったから。
「なぜって、お前はこれから来る日も来る日も、広くてまぶしい世界を見るからさ」
そう言って彼は笑った。
「邪魔だし、荷物になるだろう。そんなやつらを引きずってるとさ」
「一緒に行く」
その瞬間、頭で考えるよりも先に口が動いていた。
「俺、あんたと一緒に行く」
バルカザールはひときわやさしく目を細めると、そのぶ厚い胸に手をあててみせ、軽く少年に向けて大きな体をかがめた。
「では、今この時より俺がお前の保護者になる。俺がこの街を出る時はお前も一緒。お前を置いては俺も行かない」
その言葉がすとんと胸に落ちて、幼かったアスランに安心感をもたらした。
小さな肩から力が抜けたのは、あの静かな冬の夜からこっち、初めてのことだった。
「俺はバルカザール。お前は?」
「アスラン」
その人の前で名乗りを上げた時、目の前が冴え冴えと光って見えた。
これまでしていた我慢や屈辱が一気にひっくり返ったようだった。
彼はどこにでもアスランを連れて歩き、すべてを彼に見せてくれた。仲間たちにも紹介してくれた。危ない目に合ったことも一度や二度ではなかったが、有事の際には誰にもまして素早くそして勇敢に動く男だった。そんな時、バルカザールの目には猛禽類の鋭さが宿ったが、そんな命のやり取りをしている時でもどこか、天性の明るさがあり、それが彼を大きなやんちゃ坊主みたいに見せるのだった。
「──とまあ、俺の話はこんなところ」
焚き火が夜気をゆらめかせながら燃えている。
「で、あなたは?」
「私?」
「俺のことは話したよ、次はあなたの番。──いったいどこの『姫様』なの」
静かな口調だった。
興味本位ではなくて、ただ彼女のことをよく知りたいと思ってくれている聞き方。
ヘイゼルは空を見上げ、炎に照らされた彼の顔を見、再び群青色の空を見上げた。頭上には満天の星があって、聞いている人は彼の他に誰もいない。姫の身分であることは既に知られているのだし、これ以上黙している理由もないように思えて、ヘイゼルは自然と口をひらいていた。生まれてすぐに、予言をされたことを。
「予言? どんな」
「この子は破滅の王女だって」
この王女は忌まわしき赤子であると予言者は言った。
長ずれば必ずや、オーランガワードに破滅の風を吹かせ国を亡ぼすであろうと。
その予言を受け、父王は第五王女のヘイゼルを追放した。王都からも王宮からも遠く離れた国境近くの森の端に、一生そこで暮らすよう監視をつけて。
「──だから、あの二人は本当は私の監視役なの」