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第3章 夜市 4

「どうぞ」


 小さな錫製のグラスに注いでもらったのに口をつけると、家で飲むいつものとは違う、砂糖がたっぷり入った甘いお茶だった。馬に乗って疲れた体にはことさら美味しく感じる。


「……おいしい」

「そりゃよかった」


 いつの間に買い込んだのか、アスランは香辛料のきいた肉パイをヘイゼルにすすめてくれて、それを食べている間二人はしばらく口をきかなかった。


 火が燃える音だけがぱちぱちと響く。


 視界を遮るものはなにもなく、遠くに大きな砂丘が見えていた。どこかで虫が鳴く声がする。ピンクと紫の空は次第に暗さを増していき、さっきまできらびやかだった空はヘイゼルが見ている間に夜闇の群青色に染め上げられていく。


(誰も、私を見ていない……)


 そう思ったら、唐突に涙がこぼれた。

 片方の目から一粒、内側から押し出されるようになんの抵抗もなく、ぽろっと。


(──えっ、うそ)


 まさか自分が泣くなんて思っていなかったので、なによりもヘイゼル自身がびっくりする。


 特別感傷的な気分になったわけではなかった。世界は広くて、誰も私を見ていないから、咎められることもなくただこうして座っていてもいいのねと、素直な気持ちでそう思っただけだった。

 誰もヘイゼルを傷つけておらず、誰の悪意も存在しないのに、涙は一粒、また一粒と黒いヴェールの内側を濡らしていく。


(外の世界は大きいのね。──それがこんなに近くにあったのに、私は十七年間それを見ることもなかったんだ)


 それはただそれだけの事実であり、善でも悪でもどちらでもなかった。


 だいたいヘイゼルには、あの家を勝手に離れられない事情があったのだから、世間知らずなことは自分でもわかっていたのだから。

 なのに腕には、寒くもないのに鳥肌が立っていた。


 ヴェールをかぶっているとはいえ、目の前にいるアスランにはヘイゼルが泣いているのはばれていたに違いないが、彼はなにも聞かずにいてくれた。


 ただ一度、ちらりとヘイゼルのことを伺い、また焚き火に視線を戻して、それっきりだった。

 だんだん暗くなってきたし、焚き火の炎は小さいし、だから詳しいことはよく見えてません、みたいな顔で。


 それでよかったのだった。聞かれてもきっとうまく説明できなかっただろう。


 目の前の彼に聞こえないように、小さく鼻をぐすんとすすると、ヘイゼルの足の爪先のそばに、小さなスナトカゲがいるのが目に止まる。トカゲはヘイゼルと目が合うとびっくりしたように一瞬体の動きを止め、黒い瞳をぱちくりさせたかと思うと、砂をかきわけかきわけ消えていった。


(私が思っていたより、世界は広くて美しいものだった……)


 ヘイゼルは手の平でそっと砂にふれてみる。


 砂漠の砂は元々長い年月をかけて岩が細かくなったもので、だから主成分は石英だと書物には書いてあった。手に乗せてみると、さらさらした砂の粒が焚き火の炎を受けて光っている。きらきら光る砂の粒を手の平で傾けたりこぼしたりしながら見ていると、さっきの涙はいつしか止まっていた。


「アスラン」

「なに?」

「私、あなたのことが知りたい」


 本には書いていないことが知りたかった。


 隊商都市はあんなにも胸をうつほど美しいとか、そこで働く人たちはあたたかく笑いかけてくれることだとか、砂漠の砂は夜になってもほんのり熱を持っているとか、思っていたほど外の世界は怖くはないとか。


 それらのことを教えてくれたのは目の前にいる男性で、目まぐるしい興奮が一息ついた今、彼のことを知りたいという気持ちがわいてくるのは自然な流れだった。


 ヘイゼルがまっすぐ顔をあげてそう言うと、アスランは驚いたような顔になった。


「俺?」

「さっきからずっと、不思議で仕方なかったの。どうしてこんなふうにしてくれるのかわからなくて。単に、外に出たことない私に広い世界を見せてあげたかったにしては、時間も手間も……その、大変すぎると思って」


「大変だからって、行動しない理由にはならないでしょ」

「だって、家族でもない相手に、そんなこと」

「俺も同じだったから」


 するっと言われて、思わずヘイゼルは聞き返した。

 アスランは、ひどくやさしい目でヘイゼルを見つめて繰り返す。


「俺もかつて同じようにしてもらったからだよ」


 この右目ね、とアスランは青みがかった灰色のほうの瞳を指で示した。


「こっちの目は、実はほとんど見えてない」

「そう……なの?」

「今ではもう慣れて、生活するのに差し支えはないけどね。視力を失ったのは……五歳の時だったかな」


 そんなふうに、彼は話し始めた。静かな声でゆっくりと。


 それは生まれた村で起きた疫病の名残だということ、彼一人を残してその村は全滅したということを、まるで他人事のように淡々と。


「五歳の冬だった。病名は、鱗病」


 鱗病……鱗病。

 ヘイゼルはその印象的な名前をどの本で読んだのか思いだそうとして指を一本額に押しあてた。


「近代地方史だわ、思いだした。……とすると、あなたの故郷はラトガラ村ね」


 アスランはちょっと息を呑んだ。


「……当たり」


 本で見て知っているだけだが、確か、罹患すると菌が血管を収縮させて、各部位への血行を妨げ、ついには壊疽を引き起こすのだと読んだ。壊疽した部分の皮膚は灰色になる。鱗病と呼ばれるのは、その部分の皮膚が縮まり、蝋のような光沢を持つ様子が鱗に見えるからだ。ヘイゼルがそう言うと、アスランは深くうなずいた。


「そうだよ。中でも残酷なのは、最後まで患者は正気だということだ。普通の伝染病のように、苦痛の果ての錯乱も幻覚を伴う意識障害も、鱗病の患者には許されていない」


 鱗病の最初の症状はいきなり現れるうえ、高熱と吐き気、それに筋肉痛というありふれた症状のためにひどい風邪と思いこみがちなのが、ラトガラ村の患者には命取りになった。ごく初期のうちに助けを呼んで薬を投与しないと、やがて全身が蝋化して動けなくなるため、近隣の村へ助けを呼びに走ることもできなかったのだ。


 異変に気づいた近隣の村人が様子を見に来た時には、ラトガラ村の人間はほとんどが死亡、もしくは瀕死の状態だった。


 雪の降る、暗い夜のことだ。


 生き残ったのはただ一人、おそらく助けを呼びに行こうとしたらしい少年だけだった。その少年は雪の中に半分顔を埋もれさせるようにして意識を失っていたという。


「鱗病はその見た目のおぞましさと死亡率の高さから、通常の伝染病以上に忌み嫌われる。村人たちの遺体は家屋ごと焼き清められて、その死を悼むために戻ることすらできなかった」


 だからラトガラ村は、今はもう地図にも載っていない幻の村なのだった。


「だから、俺以外でその名前を覚えててくれる人がいて、とても嬉しいよ」

「あなたが助かったのは、雪の中で気を失ってたからね」


 書物に書かれていたことを思いだしながらヘイゼルは言う。


「体温が低下したせいで、病の進行が遅れたのでしょう」

「理知的だなあ」


 そういう彼のまなざしは、なにかまばゆいものを見ているようで、ヘイゼルは首をかしげた。それは彼女にとっては至極当然の知識だったから。


「そうかしら」

「ヘイゼル。俺の手にさわれる?」


 ヘイゼルはけげんな表情のまま、差し出された手に自分の手を重ねた。さっきもずっと手を引いてもらっていたし、なんらためらうところはない。


「これがなにか?」

「俺のことが怖くない?」

「怖いことなにかする気なの?」


 眉をひそめてヘイゼルが返すと、彼は天を仰いで笑った。


「あの当時、俺にさわれる人間はいなかったよ。それどころか、目を合わせたり、俺に話しかけられただけでも汚れると思っているようだった」

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