第3章 夜市 3
目元に穴のあいた黒いヴェールをかぶり、ヴェールが飛ばないようきらきら光る飾りバンドでとめると、ヘイゼルは砂漠慣れした近隣の部族の娘みたいに見えた。おかげで、どこを歩いてももうヘイゼルのことをもの珍しげに見る人はいない。
「ねえ、あれ飲んでみたい。色がきれい」
「あれはダメ。きれいでもお酒だよ」
「そうなの? じゃあ、あれ」
「あれは飲み物じゃなくてピクルス」
「ふうん」
説明されてもヘイゼルがピクルス売りの屋台から目を離さないので、わかったわかった、味見してみたいのね、とアスランがひとすくい買い求めてくれた。
甘酸っぱい漬け汁にさまざまな野菜をかたちよく切って漬け込んだピクルスはまるで爽やかなデザートのようだったが、食べていると舌がピリピリするのでヘイゼルは首をかしげた。その様子にアスランは隣で目を細めている。
食べながらあたりに目をやると、同じ年頃の女の子たちが数人連れだって露店をひやかしているのが見えた。全員馬に乗るのか、スカートではなくて幅広の風をはらむパンツを履いている。なにかお祝い事でもあるのだろう、染料で手や額に模様を描いている。
(──いいな)
楽しそうな声と、互いの体に遠慮なく寄り添い商品を選んでいる彼女たちを見ていたら、ふとそう思った。
(そうか、私って、同年代の女の子の友達がいないんだわ)
わかってはいたことだが、実際にそれを目の前で見てしまうと、強い羨望を感じずにはいられなかった。
後方から、生きたアヒルを満載した荷車が、よくもこんな細い道に入ってこようと思ったものだという勢いで走ってきて、女の子たちに目を奪われていたヘイゼルはぼんやりしていて避けそびれた。
「おいで」
ガラガラガラ、という荒っぽい音がして、はっと振り向いた時にはアスランが素早く肩を抱いて道の端に誘導してくれているところだった。しっかりと、自分の体を盾に使って。
「きゃっ……!」
うすい砂ぼこりが舞う。
道の端とはいっても、もとより人が二人すれ違えばいっぱいになるような脇道だ。荷車を避けようとした人たちに押される格好で、ヘイゼルはバランスを崩して倒れそうになった。
だが、アスランの腕がヘイゼルを支えてくれていたので事なきを得る。
ぐわ、ぐわ、とアヒルの声が遠くなっていく。
頬のラインは中性的でも、ヘイゼルを抱き寄せた腕は固くて異質なものだった。いとも軽々とヘイゼルを支える腕の力も強い。そうされていると、男らしい筋肉質な腕とそのあたたかさが布越しにも伝わってきて、ヘイゼルはつかの間、なにも考えられなくなった。
「大丈夫?」
気遣う声に、慌てて体を離した。弾けるように、ぴょんと。
勢いをつけて無理やりにでももぎはなさなければ、ずっとそこにいたいと思うほど、そこは居心地がよかったのだった。
そう思ったことに自分でびっくりする。
「大丈夫……」
ヘイゼルはうつむいたままでそう返した。
(よかった……顔が見えてなくて)
きっと今自分はおかしな顔をしているに違いない。
黒のヴェールをかぶっていてよかったと思った。
◇◇◇
帰り道、アスランは慣れた様子で小さな泉のそばに馬を止めた。
まっすぐ帰るのかと思ったらそこでひと休みするつもりのようで、近くの灌木に馬をつないだ。もう時刻は夕暮れで、日は沈みかけている。
「よく迷わないのね」
馬から降ろしてもらったヘイゼルはあたりを見回して言う。
「道らしい道もないのに」
「そう見える?」
感心する表情のヘイゼルにアスランは教えてくれた。彼らにとって砂漠とは庭のようなものであり、生活の拠点でもあって、また遊び場所でもあること。この付近の子供たちは四、五歳にもなればもう一人で砂漠に出て行くこと。彼らはちょっとした岩や砂丘の形をよく覚えていて、距離や方向を見誤ることはないこと。夜はもっと簡単で、星を頼りにどこまでも歩いていけることなどを。
「そうなの……」
ヘイゼルはぐるりと周囲を見渡す。
砂ばかりかと思っていた砂漠は、想像とは違う顔を見せていた。岩と砂が混ざり合って、さながら荒れ地のような様相である。数は少ないが灌木もあって、オアシスの小さな泉の周囲にはナツメヤシの木も群生していた。
陽が沈むと、砂漠はぐっと寒くなる。だが泉のまわりはナツメヤシが昼間の気温をためこんでおり、まだほのかに温かかった。
「砂漠って、もっと違う感じだとばかり思ってたわ」
「砂ばかりかと思ってた?」
アスランが灌木の枯れ枝を拾いながら返す。
「それもあるけど、岩ばかりの乾燥した土地も砂漠だし、岩と砂が混ざった岩石砂漠もある。この辺は岩石砂漠だね」
「砂地って言うより、荒れ地ね」
「もちろん砂ばかりの砂漠もあるよ。今日は通ってないけど、もっと中央の区域に行くと、そうなる」
見たいなら連れてってあげようか、と言われてヘイゼルは慌てて首を横に振った。
「でもここから見る景色もきれいだよ」
見てごらん、という彼の指先には、砂丘の向こうに沈む夕日と、夕日に照らされた空があった。空は見惚れるようなピンクと紫のグラデーションを作っており、反対側の空には白い細い月があがろうとしている。
息をするのも忘れてそれに見入っているヘイゼルの横で、アスランは手早くお茶を沸かしていた。整った横顔は焚き火の炎に照らされて陰影が深くなり、彼をいくらか男っぽく見せている。気付いたヘイゼルは手伝いを申し出たが、いいから座っててと制止された。黙って見ていると、彼はお茶を入れてヘイゼルに渡してくれるまでいくらもかけなかった。
「手早いのね」
「そりゃ、俺らにとっては日常ですからね。寒くない? 抱っこしようか?」
「けっこうです」
男の人にお茶を入れてもらうのは生まれてはじめてかもしれない、とふと思った。毎晩のお茶はジャジャが部屋まで持って来てくれるが、あれは持って来てくれるだけで、もともと入れているのはガーヤだ。