第3章 夜市 2
はじめはおそるおそる、アスランに手を引かれるままに歩いていたヘイゼルだが、市場の中を半周ほど歩くうちに、だんだんと好奇心が勝ってきた。
顔をあげてきょろきょろとあたりを見渡していたヘイゼルは、食べ物売りの屋台が集まっている一角にくるとひときわ目を輝かせた。
東西の旅人たちが訪れて文化の混在する場所であるサランの市場は、確かに一見の価値があるものだった。
新鮮ないちじくや石榴は籠に山盛りになっており、十字路の角では焼き栗売りが口上を述べながら手回しの器具を使って栗を焼いている。半月型のミートパイを専門に売っている店もあった。穀物とヨーグルトの冷たい飲み物に、食べやすく切った果物や甘いジュレをトッピングしてくれる店も。パリパリのカラメルでコーティングされた濃厚なチーズケーキはあらかじめ四角くカットされて売られており、店主の女はカットしたはしっこをヘイゼルに差し出して、気安く味見を促してくれた。
「……これ、もらってもいいの?」
アスランがうなずいたのでおそるおそる口に入れると、頬の内側がきゅっとなるくらい美味しい。そのヘイゼルの表情がかわいいと言って売り子の女たちは破顔した。
店に置かれている品物もそうなら、行き交う人々が着ているものも様々だった。オーランガワード風の、繊細で抑えた色合いの外套を身に纏う人もいれば、明らかに異国の色彩の、鮮やかで見慣れない装飾品を身につけて目だけを出している人もいる。
これを見せてくれようとしたんだな、と思った。
アスランが強引だった理由はこれだったのだと。
ファゴットの森からここまでは距離もあるし、前もって尋ねればガーヤは絶対に許可を出すまい。当然だ、砂漠の中で盗賊に襲われる危険性だってあるのだから。ヘイゼルの身になにかあったら、ガーヤたちの責任問題になってしまう。
おそらくはそれをわかった上で、敢えてなにも言わずに連れ出してくれた。
(私が……あそこから出たことがないと知って)
大きな蒸し器で蒸し上げている肉餡と野菜入りの饅頭の店がある。あたたかい湯気が流れてきて鼻をくすぐる。分厚い鉄板の上で焼き上げている香辛料をきかせた焼きパイの店では、夫婦らしい中年の男女が息のあった動きで焼いたり包んだりを繰り返している。上向きにずらりと陳列された豚足の煮込みには、そうやって並べちゃうわけねとヘイゼルはぎょっとしたが売っている男性は満面の笑みで客を呼び込んでいた。
「ねえ」
隣を歩くアスランに、自然とやさしい声が出た。
「ありがとう」
彼の顔を見上げて微笑んだら、アスランはちょっと驚いたように言葉を失っていた。
自分の笑顔が今どんなに素直な感じで愛らしいか、屋台の明かりに照らされてまばゆく輝いているか、知らないのは本人だけだったので、私が素直にお礼を言うのってそんなに意味がわからないかしら、などと考えてヘイゼルは続ける。
「帰ったらきっと私たち怒られるわね。でも嬉しかった。連れてきてくれてありがとう」
「……ヘイゼル」
「どこからきた」
その時だ。野太い大きな声が聞こえた。
ヘイゼルはびくっと肩を震わせる。右斜め後ろのほうからだった。
「ん、おまえ、どこからきた」
反射的にヘイゼルが振り向くと、そこにはぬっと顔を突き出すようにして男が立っていた。
見知らぬ顔だ。日焼けした顔は鼻の下から顎まわりまでが黒いひげで覆われており、頭には日よけの白いターバンをぐるぐる巻いている。男はヘイゼルの顔をじろじろ見て言った。
「見ない娘だ。美人だ。どこからきた」
訛りの残る発音で、上手な共通語ではないが声は大きい。
「俺のテント、くるか。仲間も、いる。食事、いっしょに」
──いや、こわい。
そうヘイゼルが思うよりも、アスランがすっと体を割りこませて男の視界を遮る方が先だった。
「俺が一緒にいるの見えてるでしょ。絡むなよ」
言葉は柔らかい。だが男は酔っているのか、なにやら早口でヘイゼルの知らない言葉をまくしたてた。口汚く罵っているらしいことは言葉が通じなくたってわかる。
これに、アスランもなにやら相手と同じ言語で言い返した。言い返したとはいっても彼のほうはあくまで低く穏やかな口調だったが。
男がさらに勢いを増してなにか言おうとした時。アスランは片手を首元にやってそこからなにかを引っ張りだすような手つきをした。
ヘイゼルのいるところからは、ちょうど陰になって彼の表情も手元も見えない。だがターバンの男はそれを見るなりぎょっとして表情を変えた。若い男だと侮って上からものを言っていた気配も瞬時に消え失せる。
アスランは重ねてふたことみこと、なにか言う。男が小さく頷く。
「うん、それじゃそういうことでね。さよならー」
最後は共通語で言ってアスランが手を振ると、男は彼の方を振り返り振り返り、去っていった。
ひげ男の顔には、信じられないというような色が浮かんでいる。それは悔しさと言うより、むしろ畏怖に近い表情だった。
「大丈夫だった? 怖くない?」
「平気……」
「さわられたりしてない? 俺ですらたいしてさわってないのになあ」
「たいしてってなによ!」
ヘイゼルがむっとして言うと、アスランは、元気だね、なら大丈夫、というようにぽんぽんとヘイゼルの背中を軽く叩いた。
そうした軽口は、怖がっていたかもしれないヘイゼルの気を紛らわせるためだとわかったので、ヘイゼルは笑っている彼の横顔に向かって言う。
「あの、私をかばって喧嘩してくれたの?」
「んん? 喧嘩じゃないよ。ただちょっと話しただけー」
うそつき、とヘイゼルは思った。
あれは喧嘩だ。
ただ、男が喧嘩を売ってきたのを、アスランがうまくなだめて未然に防いだから、大ごとにならなかっただけだ。
それって、まともに喧嘩して相手に勝つよりずっと難しいことだわ、とヘイゼルは思った。
エスコートってこういうことなんだわ、とも。
歩くときに腕を貸すことがじゃない、座る時に椅子を引く行為がじゃない。一緒にいる相手が不安にならないよう、少しも怖いと思わないよう、相手の気持ちを守ってあげる、その行為がエスコートなんだわ、と。
「ここはオアシスだからね、誰であっても争い事は厳禁なんだよ」
うん、とヘイゼルは相槌をうつ。
「ただのナンパだよ、ヘイゼルがきれいだから注目されたんだ」
相槌をうちながらヘイゼルは思った。もしあそこで男が引かなくても、彼はきっと私のことを守ってくれたに違いないと。
なにがあっても、その腰に下げた剣を使うことになっても。
「みんなやさしいよ。なにかあったらほら、その辺のお姐さんがいつでも助けてくれるから」
何事もなくおさまったことを喜ぶように、満面の笑みで手をふっている恰幅のいい中年女たちをアスランは指し示した。目が合うと、よしよしというように太くてぱんぱんの手が伸びてきて、蜜がけのドライフルーツやら、小さな揚げ菓子やらを手渡してくれる。
私、幼い子供ではないんだけどと思いつつも、そんなふうにされることがくすぐったくて嬉しい。
手渡されたそれを口にして、言葉が通じないなりに笑顔と身振りでおいしかったと礼を言うヘイゼルをじっと見て、アスランは言った。
「あ、でも服を買った方がいいかな。その格好だとちょっと目立つし」
うんそうしよう。彼はひとり決めすると、ヘイゼルの手を引いて少し戻ったところの脇道に入った。
テントの中には所狭しと色とりどりの衣服が吊り下げられており、ヘイゼルはきらびやかな布の洪水に呆然としたが、アスランは慣れた様子で民族風の衣装を選んでヘイゼルに渡した。
衝立で仕切られた試着室で着替えたのは、黒スカートの上に鮮やかな赤いチュールレースがあしらわれたもので、裾の部分には金と銀の幅広リボンが縫い付けられていた。頼りないほど軽やかな生地の裾には、真鍮製の飾りコインがつけられて、それはヘイゼルが動くたびにしゃらしゃらと涼しげな音を立てた。