第3章 夜市 1
「では行って参ります」
「気をつけてね」
「なにか欲しいものはありますか」
「いつも通りよ、ジャジャに任せる」
ジャジャはひらりと、一頭だけ飼っている馬にまたがった。
「姫様のランプ用の油が足りないね。あとは冬用に毛皮を少し」
「わかりました」
「それとダンス用の新しいハイヒールを」
「いらないわよ!」
「いいえいります」
ガーヤは言い張り、ヘイゼルはうんざりした顔を見せた。
「踊る機会なんてないじゃないの……」
「なくても練習はするんです」
とある昼過ぎ、ジャジャは王都へ向かうべく家をあとにした。
「なんか、意外だな」
ジャジャの姿が見えなくなってしまってからアスランが言う。
「あいつがここを留守にするなんて」
「でも、これは毎月の決まり事だから」
そうなの? そうよ。なんで。なんでも。
言い交わしながらヘイゼルは身を翻す。
だが分厚い木の扉に手をかけようとしたその目の前で、アスランの片手が後ろから伸びてきてそのドアをそっと押し戻した。
「チャンス」
「……なにが」
肩越しに振り返ると、彼の瞳は悪戯っぽく光っている。
「おいで」
「だから、なにがっ!」
アスランはそれには答えなかった。黙ってヘイゼルの背中に手をまわして馬小屋へ誘導する。
「待って、なに……なによ」
不思議だった。力ずくで引きずられているわけではないのに、ただそっと背中に手をあてられて、促されているだけなのに、抗えない。
その気になればいくらでも逃れられるはずなのに、気がつけばヘイゼルはアスランに両手で持ち上げられて、彼の馬の上に横座りにさせられていた。
「ちょっと待ってよ。なにするのよ」
「馬には乗れる? 乗れるよね」
彼らが連れてきた馬は二人乗りにも慣れているのか、いきなりヘイゼルが乗っても暴れたりしなかった。ただ少しだけ頭を上下させ、控えめに前足で地面をひっかく。アスランは黒毛の馬の顔を両手で挟んで、ごしごしと撫でるようにしながらなにやら話しかけている。よろしくね、ちょっと走ってもらうよ。久しぶりのお散歩、嬉しい? そんな声が聞こえてヘイゼルは慌てた。
「ねえ、私ここから出ちゃいけないのよ」
「怖い?」
ヘイゼルを両腕におさめる格好で、彼はひらりと後ろにまたがる。
「怖くはないけど、そうじゃなくて」
「じゃ、行くよ。つかまっててね」
「私の言うことぜんっぜん聞いてくれてないでしょう!」
ヘイゼルは抗議の声を上げたけれど、無駄だった。
あっという間のことだった。気がつくともう見慣れた景色は過ぎ、砂漠の中を走っていた。
驚きよりも、馬の駆け足に舌を噛みそうでなにも聞けなかった。アスランがしっかりとその両腕で囲んでくれていたため振り落とされる心配はなかったが、それでも馬の上で上下に揺さぶられて、なんとかうまくバランスを取ろうと懸命になっているうちに、二人を乗せた馬は砂漠の中の街についた。
アスランは馬を手ごろな場所に繋いで、そばにいた少年に小銭をやり、馬の番を頼むと、両手でヘイゼルを抱き下ろした。かなりの距離を馬に揺られていたせいで、砂地に降りた足がふらふらする。
「どこ……ここ」
「サランだよ。来たことない?」
「ないわ」
そっか、ないんだ。とアスランは呟いた。
サランは砂漠のオアシスを利用して作られた隊商都市で、砂漠を横断するさまざまな民族が訪れる、いわば中継地点のようなものだった。
ヘイゼルにも知識はある。本で読んでいたから、知識だけは。だが実際に来たことはない。
「あなたねえ……」
ヘイゼルは大きく息を吸って、吐いて、おもむろにアスランに文句を言おうとした。馬に乗っている時はそれどころではなくて言えなかったのだ。
どういうつもりなの、いきなりこんなところに連れてきたりして。私はあそこから出ちゃいけなかったのに。今すぐ連れて帰ってよ、今頃ガーヤがどんなに心配していると思うの?
だが顔をあげた途端、唇のきわまで出かかっていた文句は消え失せた。
いくつものランプが灯り、テントのはしからずらりと吊り下げられている。細い路地の左右には無数のテントがあり、あまりの人だかりでどこまで続いているのかもわからなかった。赤や青のテントにランプの光が反射して、あたりの空気までその色に染まって見える。
(なんて……きれいなの)
息を止めて見入っていたことに気づいて、ヘイゼルはゆっくりため息をもらした。
はじめて見る景色、はじめて見る大勢の人。
日よけの白いターバンをかぶった男がおり、浅黒い肌の中年の女もおり、旅人らしき若い男もいた。ゆっくりと横切るひげの老人、またひげの老人、水がめを頭の上に乗せた女もいて、あとに続くのは年端もいかない子供。
こんなに大勢の人の中にいるのは生まれてはじめてだった。
どきどきするような、少し気後れするような、気恥ずかしくもあるような。そんな気持ちでヘイゼルがあたりを見回していると、その左手をアスランがつないでくれて、ゆっくりと促すように引っ張ってくれた。
隊商都市サランはさほど大きな街ではなかったが、テントが道の両端を埋め尽くしているせいで実際より規模が大きく見える。よく見るとそこここに細い脇道や秘密めいた小さな井戸付きの中庭、ちょっとした抜け道などがあって、街の住民は慣れた様子でひょいといきなり店の隙間に飛び込むようにして姿を消していく。
(すごい……)
少したって、思ったことはそれだった。
オアシスに隊商都市があり、様々な人たちが暮らしているのは知っていたが、こんなふうだったとは。 あたりの店には陶器、布、絨毯、銀や銅製品をはじめとして、幅広くさまざまな商品が売られている。道の隅には安定作用のある水タバコの常用者がうずくまって座り込んでいたりもする。緑色の色ガラスのランプの光が、やせた男の頬に緑色の影を落としていた。野菜、香辛料、豆類、なににつかうのかわからないが色とりどりの粉末を山にして売っている店。大粒のブドウは軒先からぶら下げるようにしてディスプレイされている。
(なにもかも、きれい)