第2章 やられたらやり返してもいい 5
「やられたらやり返すことの、どこがいけないのかしら。私にはわからないわ。いつもどちらか片方だけが我慢してなくてはいけないと、外の世界ではそう決まってるの? ──そんなの、我慢でもなんでもなくて、ただの不公平だって思うのだけど」
アスランは目をぱちくりさせたままヘイゼルをじっと見つめている。
「まさか、やられたらやり返せっていう意見が返ってくるとは思わなかったよね……」
「だってそうじゃない? 自国防衛は古来から当然の権利で、黙ってやられるままでいたら侵略されて、ひいては人々は奴隷になるわけでしょ。同じことは個人にも当てはまるのじゃないかしら?」
どこかで鳥が甲高い声で鳴いている。太陽に照らされて土の匂いが立ちのぼってくる。それはからりとよく晴れた、秋から冬に差し掛かる時期にほんの数日だけある、焚き火の匂いが空気に甘くにじむ日だった。
「相手の敵意に等しく返礼することのどこが悪いのか私にはわからないわ。──もしかして、私っておかしなことを言っている? もしそうなら訂正してほしいわ、本ばかり読んでいるから、頭でっかちの自覚はあるから……」
「いや」
口をひらいた時、アスランはどこか愉快そうだった。
それからゆっくり、舌の上で発音を確かめるようにしながら言った。
「ヘイゼル」
「はい」
「なんかいろいろギャップすごくて、見た目を裏切るよね、いい意味で」
「ギャップって」
本気でよくわからなくて、ヘイゼルは聞き返した。
「あの、それ、どこ」
「ものすごい美人だって言われたことは?」
「……ガーヤもジャジャもよくそれ言うけど……でもそれは、あの人たちは、もとから『姫様至上主義』だから……」
だから言っていることはあまり鵜呑みにしないようにしているのだと、恥ずかしさを堪えて言ったら、まさかの大爆笑が返ってきて、聞かれたから正直に答えたのに! 口にするの恥ずかしかったのに! とむくれていると、ごめんねと笑いもおさまらぬ涙目でなだめられた。
「ごめんね、続けて」
「もういや。笑うんだもの」
「茶化して笑ったのとは違うよ。でもごめんね」
つんと横を向いていたら、すっと手が伸びてきて、指先がヘイゼルのあごをとらえて自分の方を向かせた。
そんなことをされたのは生まれてはじめてで、ヘイゼルはどきどきしたけれど、目を合わせたアスランの表情はいたって真剣で、からかうような色もなかった。
「もっと聞きたいから。続けて」
「だって」
その左右で色が違う瞳が真剣そのものだったから、いつまでもむくれているのも、まして、彼の指先の感触になぜだかひどくまごついているのも違うと思ってヘイゼルは静かに口をひらいた。
「……だって、不当に攻撃したものが誰からも罰されずに終わるなら、そしてやり返すことも許されていないなら、それこそ不公平でしょう。先に相手を傷つけたもの勝ちってことになってしまうから。復讐も報復も、吟味すべきなのはその内容であって、それ自体は少しも悪いと思わない。正当に怒る権利は誰にだってあるわよ」
「そうか……」
アスランはしばらく黙っていたが、やがて立ち上がり、自分の手の汚れを叩いて落としてからおもむろにヘイゼルに手を差し出してきた。そこに手を乗せるヘイゼルをそっと立たせてやってから言う。
「抱きしめてもいい?」
「……なにを言っているのかわからないわ」
「えっなんでわかんないのか俺もわかんない」
そう言う顔には満面の笑みが浮かんでおり、ヘイゼルはそっと手を滑らせるように離して眉をひそめた。
「そういうこと言ってると、来るわよ。ムチを持った人が」
「ムチは避けたら当たらないよ」
「感心するほど大雑把な返しね」
彼は黙って両手を広げている。おいで、というように。
ヘイゼルは両手を胸の前で交差させて、行くわけないでしょう、と一歩後ろに下がった。広げたままの指先が小さくおいでおいでをする。ご冗談でしょう、とヘイゼルがもう一歩後ろに下がる。
アスランは決して強引なことをしてこようとはしない。だがそろそろ、ジャジャが大騒ぎしながら割って入ってくるころなんじゃないかなと思っていた。手にしているのが剣ならいいけれど、弓だったら少し厄介だな、とも。ジャジャの弓の腕は控えめに言ってもあまりうまくない。
なので、一歩後ろに下がった時に視界の隅っこに入りこんできた、日焼けした丸い輪郭のものを、ヘイゼルは思わず二度見してから、甲高い悲鳴を上げてしまった。
「いやあ、ガーヤ、なんでそこにいるのっ!」
畑の畔にしゃがみ込み、植え込みの間から顔だけ出しているガーヤがぎょろりと目を動かす。
「なんでとはまたごあいさつですねえ」
むすっとした顔で植え込みの間から手を伸ばし、ヘイゼルが収穫した野菜入りの籠をずるずると引っ張っていく。
「待っても待っても帰ってきやしないからお迎えに来たんですよ。込み入ったお話をされてるようだったので、しずかーにお待ちしてたんですが」
「いつから!」
ガーヤは答えた。ずっと。ここで。
(ずっとっていつから……)
気が遠くなりそうなほど恥ずかしい思いでヘイゼルは額に手をあてがい、目をつむった。
ガーヤは片手に野菜籠をぶら下げて、左右に体をゆすりながら先に立って家へと歩いていく。あいた片手が腰の裏側をさすっていた。
「抱擁までは見逃そうと思って黙ってたんですけどねえ、まあ、そこにいくまで長いわ長いわ。あたしゃ腰にきましたよ」
「ガーヤ! 考えてること口から出ているわ!」
今度こそヘイゼルは真っ赤になって、乳母を追いかけていってその広い背中をぽかぽか叩いた。
◇◇◇
「あなたは、なんか、いらんことしてないんでしょうね」
「いらんことってなんだよ」
ジャジャは奥の部屋の扉の前にじっと立って、中での会話に耳を済ませていた。
アスランとサディークの声が小さいながらも聞こえてくる。
沈黙が落ちる。衣擦れの音がして、くぐもったサディークの声。
「油断しました、すみません」
「そんなことするなって。傷口ひらくぞ」
「もうひらきませんよ、なんなら馬にだって乗れます」
「いいから。そういう頑張りを発揮しなくて」
「頑張ってるわけでは」
「ああ言えばこう言うねえ」
アスランが笑う気配。サディークは下げていた頭を上げたらしい。くぐもった声が明瞭になる。
「なによりも、あなたに面倒をかけてしまって」
「面倒とは思ってないよ、知ってるだろ」
「ここの家の人たちにもご迷惑を」
「いいよ、俺をかばって動けなかったことは知ってる」
ジャジャは息をひそめて聞いている。
「あんにゃろう、帰ったら仕置きだぜ」
「やめてください」
「なんで」
声は途切れ途切れにしか聞こえない部分もあり、もどかしかった。だが彼らはことさら声をひそめて話しているというふうでもない。ジャジャはいっそう扉の向こうに神経を集中させた。
「私のことなら平気です」
「どしたの? そんな弱気でお前らしくもない」
「別段……私は好き好んで血を見たいとか、人と争いたいわけじゃないですから」
「今回のことはそれとは別件でしょ。違うの?」
「今は、あまり罰しない方がいいかと思うんです。まとまるものもまとまらなくなる」
また少し沈黙があった。
中の声を聞き逃すまいとしてジャジャは息を詰める。いまや自分の呼吸音すら邪魔に思うほどだった。
「あのさ」
やや小さい声でアスランが言う。
「たとえどんな時であろうと、やっちゃだめなことはやっちゃだめ。そうだろ」
「ですが」
「素手以外の私闘を禁ずる。これは数少ない俺たちのルールだ」
「でも、それを言うなら、私はまだ正式にあなたたちの仲間ではないし……」
「なに、まだそういうこと言うの? そんなん帰ったらすぐコイン渡すって!」
コイン、という言葉にジャジャの表情が動く。そっと扉から体を離した。
(──わかった)
足音を極力消して、自分がいたことを気取られないようにそこから離れる。
(わかった。彼らが何者なのか)
ほんっとーに弱気だな、もう峠は越したと思ってたけど違うの? 死期が近いの? あんたのことを心配してるんでしょうが!
部屋の中からはまだ二人が言いあう声が聞こえていたが、ジャジャの姿はもうそこにはなかった。