第1章 まさかお客が来るなんて 1
物語のお姫様は、お年頃になると王子様と出会うというのが決まりごとだ。
いきなり見つけられる、というパターンもある。
その点私は生まれながらに王女であり、いわゆるお姫様なわけだけれど、彼女たちとは相違がある。
物語の姫たちは気立てがよく、誠実で、まっすぐだし。
──私はというと、不誠実とは思わないが少々ひねくれている自覚があるし、そもそも物語の定説に乗っかるには気も強すぎると思うし。
──いつか誰かが来てくれる。
イケメンで背が高く人柄もよく、いざという時私を守れるくらいには強くて頭が良く、そして誰よりもやさしい人が。
彼がここから連れ出してくれる。君はなにも悪くないとか、なにかそんなことを言ってくれて、ここから出て行くことで発生する不具合は彼が全て解決してくれる。
そんな夢は見ないことにしている。
だってそんな日は、どう考えてもこないから。
◇◇◇
陽が暮れるのが早くなってきたけれど、まだ夜というほどでもない。そんな時間帯だった。
唐突に扉がノックされてヘイゼルは顔をあげる。
風の音かと最初は思った。
この家を訪れるものなど滅多にいないのだ。
そう思っているともう一度、今度は確かに扉を叩く音が、二回。
彼女の返事を待たずに、扉は勝手にひらいた。
顔を覗かせたのはひとりの若者だ。
中性的な卵型の輪郭と鋭角的なあごの線。くっきりと際立った二重幅の広いアーモンドアイと高すぎない鼻、それに形のよい上品な唇のせいでその若者は十七歳のヘイゼルとそう変わらない年に見える。
「こんばんは。突然で申し訳ないんですが、薬はある?」
いきなりそう切り出された。
「えっ……」
客人、という言葉がとっさに浮かばず、ヘイゼルは戸口を挟んで目をぱちくりさせる。
(薬って……)
彼女が暮らすファゴットの森はオーランガワード国の西のはずれにある。
少し足を伸ばすと、もう砂漠だ。
ヘイゼルと乳母のガーヤ、それにジャジャが三人で暮らす家は、そんな森の端にぽつんと建っている。家は街道からも近隣の村からも離れているため、誰かが来るということはよほどのことがない限り起こらない。
「お、く、す、り」
その若者は繰り返す。
それでヘイゼルははっと気を取り直した。
「……あの、そう特殊でないものならあるかと」
「よかった、分けてくれないかな。それと手当てもさせてもらえるとありがたいな」
彼はしっかりとした口調で言った。おどおどしてもおらず、ごり押しするふうでもない。余裕のあるはっきりとした口調だ。
そしてその若者からは砂漠の風の匂いがした。やけに生々しい血の匂いも。
「どなたか、ケガを?」
「うん、ケガ人がひとりいる。いきなり来て不躾な頼みだが、謝礼はするから」
初対面の彼の印象は、なんだか毛並みのいい犬みたい、というものだった。
それは艶のある黒髪と、物おじせずにこちらをまっすぐ見つめる瞳のせいだった。日焼けした肌に、バランスのよい整った顔立ち。ヘイゼルよりも頭ひとつ分ほど高い背丈。彼は黒に近い茶色の袖なし胴着を着ており、その下には生成り色のシャツ。どちらも飾り気のないしっかりとした作りのものだ。黒の革パンツの裾はブーツの内側にすっきりとしまいこんであるため、形のよい足のラインがはっきり見える。
初対面の人間を、はいそうですかと気軽に家に入れるわけにもいかず、ヘイゼルは戸口を挟んで彼の身なりを検分したが、特にこれといってあやしいところも、危ういほど荒んだ様子も見えない。
なによりも印象的なのは瞳だった。彼の右目はきらきら光る琥珀色をしており、もうひとつのほうは青みがかったグレー。左右で色が違うのもさることながら、どきっとするほど目に力があった。威圧感があるわけではないのに、そこから目が離せない。
ヘイゼルが観察していると、彼はちょっと声を出して笑った。
「この目が珍しいの?」
「──ごめんなさい、じろじろ見て」
やさしく言われたせいで、自分の態度が不躾だったことに気づけた。
ヘイゼルは恥じ入る思いで視線を泳がせる。
彼の後ろには簡単につながれた馬が二頭おり、そのうちの一頭にはぐったりとした若い男性が乗っていた。血の匂いはそこから漂ってきているらしい。
「お薬はお渡しできますが、ケガ人の手当てについては私の──」
一存では決められない、そう言おうとしたのと、ガーヤの声が後ろから割って入ってきたのが同時だった。
「入れて差し上げな」
「ガ」
「どきな、ヘイゼル」
乳母のぴんと張った声でヘイゼルはあっと思った。
自分が間違えそうになったことに遅ればせながら気づく。
ガーヤではなく、母さん。来客がある時はそう呼ぶことになっていた。
いけない、とヘイゼルは心の中で肩をすくめた。
お客様なんてめったに来ないから、間違えちゃった。
「竈の火を大きくしな。それから追加で水を汲んでおいで。必要になるからね」
「はい」
明確な言葉で指示してもらったおかげで、ヘイゼルの背中が自然と伸びる。
幼い頃は乳母として、長じてからは世話役として一緒に暮らしているガーヤは、見た目も性格もまことに頼もしい人で、日々の暮らしにまつわることはなんでもその大きな手を動かしてすぐに片づけてしまう。掃除、洗濯、縫い物、編み物、畑の世話。およそできないことはなかった。大工仕事は男のジャジャにまかせているが、その体格と身のこなしから察するに、彼女自身も並の男と同程度かそれ以上には力持ちであることは疑いの余地がない。
なかでも得意なのは料理で、調理の腕以上に、ものを見る目が確かだった。野菜でも果物でも、彼女が傷んでいるとか美味しくないと言ったものはたいていどれも当たりで、すごーい、とヘイゼルが手を叩くと、ふん、とひとつ鼻を鳴らして、
「だてにでかい目がついてるわけじゃないんですとも、姫様」
と言う。
それとこれとが関係あるかはともかく、彼女の眼力が確かなことは間違いなかった。箒を手にしたガーヤにじろりと睨まれて、野犬が尾を足の間に巻き込んで逃げていくのを何度も目撃したものだ。
ガーヤは今もそのぎょろりとした目で、彼の後ろのケガ人をじっと見た。そして言う。
「急がないといけないね。奥の、あたしの部屋をあけな」
目線を送られたジャジャは心得たように立ち上がり、素早く奥へ消えていった。
「水を汲んできたらすぐ大鍋に湯を沸かして」
「はい、母さん」
既にヘイゼルは長い髪を後ろでひとつにまとめ、ブラウスの袖を肘の上までまくり上げ、水汲み桶を手にして外へ出ようとしているところだった。
家の外にある井戸は年中通して冷たい水が湧いている。くるぶしまであるスカートをたくし上げ、足台に片足を置き、水を引き上げようとしたところでエプロンをしてくるのを忘れたことに気がついたが、まあいいか、と思い直す。
ヘイゼルが着ているのは、一見、そこらの街娘が着ているのと変わらない代物だ。短めの胴着には同系色で刺繍がくまなく入っているが華美なものではないし、丈の長いスカートもそうだ。生地は上等だが汚れが目立たぬように濃い色で仕立ててある。ただ中に着ているブラウスだけは別で、上等のシフォンを二枚重ねにして、袖口のボタンは庶民では手の届かない金飾り。こんな田舎の娘が身につけるような代物ではなく、明らかに不審だ。
だがまあ、めくりあげてしまえば客人の目にはつかないだろうと思いながらヘイゼルが水を汲み終えて家に戻ると、ケガ人は奥の部屋に運び込まれていた。ガーヤの指示でジャジャが薬の支度をしている。
「水汲み終わったわ、あとなにかすることは……」
言いながら奥の部屋に足を踏み入れて、ヘイゼルは息を呑んだ。
ケガ人は上着を脱がされ、上半身裸でうつ伏せに寝かされている。意識はあるのか、それともないのか。かたわらにはガーヤと、先程の若者とが左右から挟み込むようにしてケガ人を覗き込んでいる。
ケガ人の背中には、斜めに一本、深く切り込まれたような傷跡があった。いくらか時間が経って傷口周辺は赤黒くなりかけているものの、深手なのか、血はまだ止まっていない。真新しいシーツの上には、ヘイゼルがぎょっとするほどの出血が筋をつくって流れていた。
「この子は、アスラン」
ヘイゼルが水を汲んでいる間に、彼らは簡単に自己紹介を済ませたものらしい。ガーヤはケガ人の背中から目を離さないままで言った。
「こっちのケガ人はサディーク」
アスランがわずかに顔をあげてヘイゼルと視線を交わす。
その瞳がまっすぐ自分を見ているのを感じて、まるでなにかを見透かしているようで、ヘイゼルの胸がどきんと跳ねる。
いやだ、こんな時に。とっさにヘイゼルはそう思う。
ケガ人がいるのに。人見知りしている場合じゃないのに。
そう、彼にじっと見つめられるとやけに胸が騒ぐのは、人見知りだと思ったのだった。
それが間違っていたとわかるのは、それから何年もたってからのことだ。
(はじめまして? こんばんは? どうぞよろしく?)
どれもこの場の挨拶にはふさわしくなく思われて、ヘイゼルはその場で少し膝を曲げる挨拶をするにとどめた。アスランはそれに応えるように無言で頷く。
「アスランもサディークも二十三歳だそうだ。ケガ人の容体がよくなるまで、しばらくここに置くからね」
ヘイゼルはええと返事をする。
まさか、この夜の出会いがすべてを変えるとは夢にも思わないままで。