第五話 天使…いや、死んでないよ?
「はぁ、はぁ………」
後ろから『それ』が迫ってくる。
俺は必死に『それ』から逃げ回っていた。
しかし、その距離は縮む一方だった。
『それ』がおもむろに右手を振り上げ、横に薙ぐ。
悪寒を感じた俺は、右に咄嗟に避ける。
それでも避けきれず、鋭利な爪が俺の左腕をかする。
たったそれだけで左腕から大量の血が吹き出し、地面を赤く染める。
「ッぐ!?」
左腕を右手で押さえ、激痛で叫びそうになるのをなんとか堪える。
右手に感じる生暖かい感触を極力無視し、『それ』から少しでも離れようと全力で走る。
それでも距離が開くことはなく、さらには縮んでいく。
「……あああああぁぁぁああ!!」
叫びながら、全力疾走する。
何なんだよ、あれ!?
ふざけんなよ、俺が何したって言うんだよ!!
何で何もしてない俺が、こんなとこであんなのに追いかけられなきゃならないんだよ⁉️
まず、俺が駅で押されたことからおかしかったんだ!!
何で俺が……俺だけが、こんな目にあわなきゃならないんだよッ!!
今まで笑って誤魔化してきた不満が、ここに来て爆発した。
ネガティブな妄想をしないようにふざけたりして、疑問や不安を押し潰していた。
が、死の危機を目前にし、それらが一気に溢れ出てしまった。
『ヴヴゥォォォオオオオオオ!!』
真後ろで咆哮が鳴り響く。
全身が震え、恐怖しか感じられなくなる。
だが、それでも俺は、生き残るために走った。
走って走って走って。
目眩に、頭痛に、全身を駆け抜ける痛みに。
それらを必死に耐えつつ、ただ、ただ、走り続ける。
闇雲に、走り続ける。
だが………
(振り、切れ、ないッ!?)
当たり前だ。
平凡な高校生な俺と体長三メートル弱の熊では、スピードが違いすぎる。
俺は、相手の様子を見ようと後ろを振り返る。
と、ちょうどその時、激痛という言葉だけでは表せないほどの痛みが右肩を襲った。
「うッ、ガアアアアアアア!?」
今までで、一度も受けたことのないような痛みだった。
痛みから地面へと倒れこむ。
周りの地面が、自分の血によって紅く染まっていくのが分かった。
倒れた状態のまま顔を上げ、熊を見る。
熊の口には血まみれになった、人の腕があった。
自分の右半身を見る。
右肩から先がなくなっていた。
熊がくわえているモノをもう一度凝視する。
そこで初めて、あれは自分の右腕だということを悟った。
バキバキバキバキッ!!
骨が砕ける音が聞こえる。
熊が咀嚼し、熊の立つ地面が真紅に染まっていく。
「あああ、ああああああああああああ!!」
叫んで、叫んで、叫ぶ。
激痛を誤魔化すかのように、喉が潰れるのも厭わず、叫ぶ。
その声を鬱陶しいと感じたのか、熊が俺を足で蹴飛ばす。
ゴロゴロと俺の体が転がる。
熊の足音が近付いてくる。
意識が薄れていく中、その音だけが耳から伝わってくる。
と、その時だった。
ぼやける視界の中にいる熊の動きが止まり、あの声が頭に響いたのは。
『天使……それは、世界を創造した神々の眷属』
その声は、とてもよく澄んだ、女性の声だった。
転生して初めて聞いた、他の人の声だった。
『天使と契約を結べば、あなたの命は助かる』
天使? 契約?
この頭に響く声は何を言っているんだ?
……いや、そういやここは異世界だったな。
なら天使とかいてもおかしくはない……のか?
『契約を結ぶか結ばないか。それを選択するのは、あなた』
結べば助かる、拒否すれば死ぬ、か………
だったら選択肢は一つしかない。
答えを口にした俺は、そのまま意識を手放した。
◇ ◇ ◇
寝心地の悪さから、俺は目を覚ました。
固い地面に寝そべる俺は、少しの間その態勢のまま物思いに耽っていた。
えーっと、結局俺は助かったと見ていいのか?
熊はどこだ、熊は。
『熊は死んだわ』
うわ!!
びっくりさせんなよ。
てか、契約したらいつでも喋れるようになんのか。
いや、そもそも契約ってなに?
『契約って言うのは、私みたいな圧倒的上位の存在から恩恵をもらうことね』
自分で圧倒的上位の存在とか言うな。
いやまあ、天使らしいから間違ってはいないんだろうけど。
あとものすごく今更だけど喋り方変わりすぎじゃね?
『仕方ないじゃない。契約を結ぶ時は決まったセリフを言わなきゃいけないんだから』
へー、そうなんだ。
で、結局俺たちは契約を結んだってことで良いんだな?
『ええ、そうよ』
うーむ、どうも実感が湧かないなぁ。
契約……契約ねぇ。
契約って普通、双方にメリットがあって初めてできるんじゃないのか?
まぁ、ファンタジーに理屈を求めるほうが間違ってるか。
………ん?
熊って逃げたんじゃなくて死んだんだよな?
『そうだけど、どうしたの?』
じゃあ、その死体は?
『ん? 無いけど?』
は?
ちょっと意味わからんのだが。
『熊はさっき消し飛んだわ』
あーなるほどね。
そりゃあ消し飛んじゃったら死体がないのも当然だよな。
………………
いやいやいやいやいや、待て、ちょっと待て。
消し飛んだ?
なんだそれは。
あの熊が、消し飛びましたってか?
一滴の血も残らず?
HAHAHAHA、そんなわけないよな。
きっと、消し飛ぶというのはこの世界では違う意味で使われてるんだ、うん。
『だから、きれいさっぱり消えてなくなったの。何回言えばいいのよ………』
その言葉に、俺は絶句した。
圧倒的上位の存在という言葉は間違ってなかったことを、この時初めて知った。