第4話 アークセルフ
「立った……! 立ったぞおおおおおおおっっ! んげっふ、げっふううううっ!」
僕は生まれて初めて、雄たけびを上げた。
直後、まだ本調子ではない肺が悲鳴を上げ、盛大にむせこみ背中がおり曲がる。
だが、その苦痛でも、異世界ファーストスタンディングの喜びを打ち消すことはできなかった。
呼吸苦に耐えながら、何時間も地べたに横たわっていたから、立ち上がった時の視界の変化は劇的で、その感動は、本来の異世界転生よりも、より異世界転生した感じが強かった。
膝に手を突き上半身を支え、むせと同時に感じた立ちくらみが収まるのを待つ。
〈呼吸 Lv5〉スキルのぜんそく患者みたいなゼイゼイとした荒い息は、自分事ながら最初は耳障りでしょうがなかったが、だいぶ慣れてきた。
改めて周囲を見回す。
僕は、丈の短い草がどこまでも広がる、牧草地のような草原にいた。
訪れたことはないが、イメージの中にあった北海道の牧草地帯と似ている。
沈みつつある太陽が投げかける夕日が、見渡す限りの草原を茜色に染めつつある光景はどこまでも雄大で、ひと時、息苦しさを忘れさせてくれるほど美しかった。
緩やかに起伏した草原の向こう、地平線のあたりにいくつかの小さな建物らしき影と、糸のように細くたなびく白い煙が何本か見えた。
どうやら、人の住んでいる集落があるようだ。
ログイン0秒で強制窒息死イベントに突入する前代未聞の初見殺し難易度の異世界だから、スタート地点がラストダンジョンの魔王城の裏庭とかでも驚かないように覚悟していたのだが、大丈夫だったようでほっとする。
よく言えば超保守主義、悪く言えばビビりの自覚がある僕としては、今まで訪れたことのない地域の、見ず知らずの人たちの集落に詩織ちゃんなしで立ち入ろうなんて考えもしなかっただろう。
だけど、溺れる者はわらをもつかむとはよく言ったもので、頼るもののない異世界の草原に一人立たされた僕の心に、その集落へ向かうことに対する不安はあれど、拒否感はほとんどなかった。
むせが収まり、背中を伸ばしてまっすぐ立てるようになる。
肩で息をしながら、いよいよ歩き出そうとする。
不安が募る一方で、ここから、僕の異世界転生生活が(やっと)始まるのだという、今まで感じたことのない高揚感が、酸欠気味で冷え切った手足にほんのわずかな熱をもたらす。
「……よしっ!」
気合一新、僕は異世界第一歩を踏み出した。
が、持ち上げた足の裏が地面に触れる寸前。
すぐそばで爆発が起こった。
「ぐわっぷあああああぁぁぁぁ!?」
巨人の平手打ちを食らったように、僕は爆風のあおりと、横殴りにたたきつけられる大量の小石混じりの土砂に吹っ飛ばされて、草むらを横っ飛びにごろごろと何メートルも転がった。
目は砂が入って開けられず、耳は爆音でイカれ、肌はたたきつけられた土砂の散弾で痛みだけが支配している。
上下の感覚もなくなり、倒れているということ以外はわからなくなる。
体の上に舞い上げられた土砂の残りがばらばらと降り積もる。
「いぎぎ……」
肘を突き、何とか上半身を起こす。
そして、匍匐前進で前に進もうとする。
涙でにじみ、もうもうと舞い上がる土煙が塞ぐ視界は良好とは言えず、方向も何も全く把握できないが、どこでもいい、とりあえずここから離れなくてはならない。
自分の馬鹿さ加減に腹が立つ。
見知らぬ土地で、何時間も酸欠死の恐怖にさらされ続けるという危機を乗り越えたくらいで、すっかり油断していた。
所詮、僕の異世界転生知識は、全部どこかの誰かの創造力が垂れ流した商業フィクションだ。
これが本当の異世界転生。
リアルな異世界転生。
何一つ、僕に都合のいい展開は訪れない。
「ごめんごめん、びっくりしたよね。少し着地をミスっちゃったな」
いやに軽い謝罪の言葉が耳鳴り混じりに聞こえた。
誰かが僕の肩をつかんだ。
「ひいいいいっ!? やだあああっ! 死にたくない助けて殺さないでぇぇぇぇ!」
ここまで温存していたすべての酸素と体力を放出して、身も世もなく命乞いする。
体中の穴という穴が同時多発決壊し、漏らせるものは全部、全身全霊全力全開で漏らした。
「まあまあ、落ち着きなよ」
肩をつかんだ手から、何か暖かいものが流れ込んできた。
途端に恐怖感とパニックが薄れ、春の昼下がりに縁側でお茶でも飲んでいるように、穏やかな気分になる。
動悸が収まり、呼吸が落ち着く。
「落ち着いたね。さあ立って、少しお話をしよう」
「はい……」
わきの下を支えられながら立ち上がる。
が、腰が抜けてしまっていたので、自然と正座になる。
「煙いな」
つぶやきとともに、周囲に立ち込めていた土ぼこりが、僕たちを中心としてつむじ風が発生したように一気に吹き払われ、視界がクリアになる。
土煙が晴れると、数メートル向こうに人が一人余裕で大の字になれるくらいのクレータが見えた。
そして、目の前にたたずむ男の姿もはっきりと見えるようになる。
「ひにあああああっっっ!?」
穏やかな気分が全部吹っ飛んで、恐怖とパニックが倍返しでブーメランしてきた。
男は血まみれだった。
男は明治時代の古式ゆかしい軍服のようなものを着ていた。
その表面積のうち九割以上が、赤黒い血液でしとどに濡れそぼっていて、服の裾から血が糸を引いて滴っている。
わずかにある血に濡れていない部分は真っ白な生地で、もし血まみれでなかったら、まばゆいほどに真っ白な服だったのだろうと思える。
軍服の首回りや胸元や腰回りは、おびただしい数の勲章やメダルや階級章らしきピンバッジや鎖飾りで埋め尽くされていたが、それらも血に染まり、元の色や輝きはわからない。
腰のあたりまであるマントも血まみれだった。
「ああ、心配しないで。ぜんぶ返り血だから」
「僕の!? もしかしてそれ僕の血!? どうなってんの僕!? 原型ある!? あるの!? 無いの!? どっち!?」
「君のじゃないよ。ちょっと泥で汚れちゃったけど、君は無傷だ」
男が苦笑しながら答える。
血まみれの軍服の異常さに気を取られていたが、男自身も見慣れない容姿をしていた。
20台半ばぐらいだろうか。
細面だが軟弱な感じは全くなく、精悍な笑顔には震度七でも微動だにしない自信と余裕がうかがえる。
身長は僕より優に頭一つ分以上は高く、肩幅もあり、細身ながら体格はよく、何より背筋が天に向かって真っすぐに伸び、堂々たる威厳がある。
僕の持っていないものを持っている連中に共通するオーラをビンビンに発している。
目を引いたのは、短く整えられた頭髪の色だった。
金髪なのだが、普通の金髪ではない。
一本一本が、溶鉱炉で煮えたぎる本当の黄金のように赤みがかった輝きを放っている。
よく見ると、瞳も同じ黄金色に輝いている。
目力だけで火傷させられそうで、太陽を直視したようにまともに目を合わせられない。
顔にも血がついていたが、髪と瞳の雄々しい黄金の輝きは、そのおどろおどろしい穢れを圧倒していて、熱の幻覚さえ感じさせる。
いつの間にか男の手が肩に乗せられていた。
いつの間に? とさらにパニックが加速する前に、またあの温かい感覚が流れ込み、気分が穏やかになる。
「私の名はアークセルフ。パンドラボックスの長だ。そして、君の味方だ」
「み、かた?」
「そう、味方だ。だから、安心してほしいな」
味方?
この人が?
違うよ。
僕の味方は詩織ちゃんだけだ。
異世界だからなのだろう、やっぱり常識が通じない。
益々気を引き締めなければ。
「って言っても、わけわからないよね。みんなそうだったよ。もちろん私も」
こちらの緊張をほぐすように、アークセルフは柔和にほほ笑んだ。
「みんな……? 私……『も』……?」
「ああ。私も君と同じく、他の世界からここへ来たんだ」