第3話 最初の試練
「……う、ぐうぅぅ、うんぐぅう……!」
いったい何が起こっているのか。
にわかには理解できない。
ただ、死にかけていることだけは確かだ。
あの真っ白な光に飲み込まれて、僕は異世界、ヴィルンボルグとやらに転生したようだった。
正直、異世界転生を甘く見ていた。
マンガや小説、アニメやゲームなどは好きだったので、最低限の教養は有しているつもりだった。
最低限のテンプレを心得ているつもりだった。
だから、いくら異世界でも、いや、異世界だからこそ、大抵の状況には冷静に対応できるつもりでいた。
だが、現実は僕の想像を超えていた。
なぜだかわからないが、息ができない。
窒息死しかけている。
のどに何かが詰まっているわけではなさそうだった。
強いて言えば、のどと肺がコンクリートのように固まって動かせないため、空気の出し入れ自体ができないという感じだ。
「んんんんん、ぐぐぐぐぐぐ、うううううう!」
あらんかぎりに口を開いてのどと胸のあたりをかきむしる。
ひっかいたところから出血しているかもしれないが、そんなことにかまっていられない。
のどがやぶけて空気が通るようになるのなら、むしろ儲けものぐらいだ。
苦しさのあまり、地べたを転がってのたうち回る。
ゴロゴロと転がっていると、空の青色と、地面の緑色が交互に僕の視界を通り過ぎていく。
時々、仰向けで腰を突き上げ、つぶれかけのブリッジ姿勢をアクセントに挟む。
どうやら、僕は草原のようなところにいて、今日はよく晴れた青空らしいが、それ以上の情報収集に割く余裕はなかった。
丈の短い草地の中でもんどりうっていると、驚いたバッタやテントウムシみたいな小さな虫が飛び出すのが視界の端に映った。
どれぐらい時間がたったのだろうか。
体感時間的には何時間も悶絶しているようだが、実際には何分もたっていないのだろう。
特に鍛えていない僕が、そんなに長い時間の窒息に耐えられるはずがない。
指先や足先のしびれや、こめかみを巨人にストンピングされるような頭痛が強まり、体も震えてきた。
一方で思考は重だるく鈍り、意識は遠のいていく。
眠気のような気分のいいものではない。
頭痛とともに頭の中で風船が膨れ上がっていくような、圧迫感を伴った朦朧状態。
本格的にまずい。
何がまずいって、詩織ちゃんのあの虹の七色に輝く笑顔が脳裏に浮かび始めたからだ。
最初はぼんやりと、レトロゲーのドット絵みたいだったのが、どんどんその解像度を上げていき、今は4Kぐらいになっている。
なんとなくだが、これが8Kになったらもうおしまいだと直観する。
「うくぅうーーーーーーーんんんんっ!」
もうだめだ。
声帯が通行止めになっているので行き場をなくした断末魔が、全身を音叉のように震わせて無音の訣別を世界に告げる。
いよいよ、詩織ちゃんの笑顔が8Kの鮮やかさで僕の脳裏を占拠した。
しかも若干3D。
ますます駄目だった。
だけど、悪くない。
ろくな人生ではなかったけれど、最期が詩織ちゃんの笑顔で締めくくれるのなら、お釣りだけでノイシュバンシュタイン城が建てられる。
……あれ、このくだり、ちょっと前にもやった気がする……
……まあ、いいか……
……脳内モノローグのマンネリ化なんて、誰に文句を言われる筋合いもない……
光が、音が、肌をチクチクと刺す草の肌触りが、少しずつ遠のいていく。
やがて窒息の苦しみが消え去り、すべてが死の安息へと……
……………………
『ぴんぽおーーーーーん!!!!!』
うるせえぇぇぇぇぇぇぇっっっ!!!
鼓膜を和太鼓のぶっといばちでぶん殴られたような爆音が、暗黒に飲み込まれかけていた意識を一気に成層圏の向こうまでかっ飛ばした。
「ちゅううううううっっっっぱ! しゅうっっ! ちゅうううううっっぱ! しゅうっっ! ちゅぅ!? ちゅぱ!?」
息が、できる。
いや、息ができるというのは言い過ぎかもしれない。
のどと肺が開通し動き出したが、その開通は完全でも十分でもない。
出入りする空気の量はごくわずかで、まるで注射針を通して呼吸をしているようなまだるっこしい息苦しさだ。
呼吸音も、空っぽの哺乳瓶を必死に吸っている食い意地の張った赤ん坊のような情けない音になっている。
「んずずずずびっ、びずぅ、ずずずずずずびっ、びずぅ」
鼻呼吸も試してみたが、ひどい鼻づまりのようで、口呼吸と効率は大差ない。
だが、状況は劇的に改善した。
酸欠で死にかけていた体に、ほんの少しずつだが、確かに空気が染みわたっていく。
一体、何が起こった?
疑問を思いつける程度には、脳に酸素が供給されてきた。
『スキル習得条件を満たしましたっっっっっっ!!!!!』
「んぎいいいいいいっっ!?」
さっきの通知音みたいな爆音と同じくらいの暴力的音量で、ナレーションのような声が聞こえた。
鼓膜の痛みに思わず耳を抑えるが、塞いだ耳の奥でぎいぃぃぃんんという耳鳴りがこだまする。
『固有スキル〈呼吸 Lv1〉を習得しましたっっっっ!!!!!』
間を置かず、爆音ナレーションが追い打ちをかけてくる。
耳を塞いでいたおかげで今度はなんとか我慢できたが、それでもあまりの音量に頭蓋骨がびりびりと震えるのがはっきりとわかる。
……固有スキル?
……呼吸?
……Lv1?
物理的に脳に刻み込まれたかのようにも思える単語を反芻する。
「ちゅうううぅぅ……ぴゅすぅ……ちゅうううぅぅぅ……ぴゅすぅ」
相変わらず蚊の鳴き声に毛が生えたような呼吸を整える。
草地に埋もれるように大の字に寝転び、空を見上げる。
空は青い。
自分が住んでいた世界より、青が深く、空が高いような気がする。
ぼんやりと空を眺めているうちに、息苦しさは相変わらずだが、今の現象を振り返られる程度には落ち着いてきた。
聞こえてきたナレーションらしき音声の内容に、難しいところはなかった。
異世界転生ジャンルではお約束のスキルシステムがこのヴィルンボルグでも採用されているらしい。
変にオリジナリティ溢れる凝った固有名詞だらけのシステムとかだったら大変だったが、少なくとも今の時点でその可能性は薄そうだった。
だが。
固有スキル〈呼吸 Lv1〉。
……。
…………。
……………………。
え、そこから?
そこからなの?
呼吸とか、むちゃくちゃ最低限のライフラインも、スキルを習得しなくちゃ確保できないシステムなの?
しかも、Lv1って、このちゅうちゅう状態はLvが低いせい?
普通に苦しくない呼吸はLvいくつからなの?
「ぴゅすっ! ぴゅすっ! ぴゅすっ! ぴゅすっ!」
あ、ダメだ。
ちょっと頭を使うと、酸素が足りなくなってすぐ過呼吸になる。
無心だ。
無心を貫け、僕。
酸素ボンベなしで、水深百メートル以上の深さまで素潜りできる一流のフリーダイバーは、深い精神統一によって余計な思考を捨てることで、脳が消費する酸素を節約するという。
僕もそれを見習い、今はあらゆる疑問と感情をわきに置いて、生きのびるためにただただ無心を貫くことを決意する。
そして、余計な酸素消費を抑えるため、仰向けに寝転がった安楽姿勢で空をゆっくりと流れていく雲を三つほど数えたころ。
『ぴんぽおーーーーーんっっっっ!!!!!』
またあの爆音通知音声が草原に響き渡った。
周囲の草むらから、一斉に虫が逃げていった。
今度はあらかじめ耳を塞いでいたから軽い脳震盪くらいで済んだ。
続くであろうナレーションに、身を固くして備える。
『熟練度が一定に達しましたっっっっ!!!!! 固有スキル〈呼吸 Lv1〉は、〈呼吸 Lv2〉にレベルアップしましたっっっっ!!!!!』
結局、死にかけの老人くらいの速度で歩ける程度(〈呼吸Lv5〉)になるころには、空は赤く染まり始めていた。
異世界ヴィルンボルグ。
開始後ノータイムでの命の危機。
だがこれは、まだ序章に過ぎなかった。
ヴィルンボルグは、まだその恐ろしさの片鱗すら見せていない。