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ヤマト視点
レナの手術が上手くいったことは、マリアさんから聞いた。義が付くとはいえ、兄妹間なのに直接メッセージが来ないことは、俺とレナの関係を物語っていると思う。
確かにレナは、地べたにおでこをこすりつけてしまいそうな程カワイイが、ワキガのせいで俺は余り興味がわかなかった。むしろ殴りたくなる事さえあった。
テスト前で必死に勉強しているときに、居間でテレビを見ながら悪臭を放っていれば、そりゃぁ文句も言いたくなる。
しかしそれはレナがわざとそうしているわけではないし、むしろ解消の努力をしている事を理解していたから、レナには全く何も言わなかったし、言えなかった。
レナに悪印象を持つのは何もワキガだけでは無い。性格もまたそうだ。イジメ、引きこもりのせいもあって少し卑屈なところもまた、俺がレナに悪印象を持つ理由の一つだ。
これもレナが引き起こしたことでは無い。レナの美貌が原因っちゃ原因なのだが。
俺もレナにもう少し前向きになってはどうかと一度話したこともある。前向きなヤツは話してて楽しいし、何より友人が多く出来る。友人が多く出来れば多少の悪口にも対抗できるし、何よりいじめっ子の存在自体がどうでも良くなるはずだ。
しかし彼女のイジメの根底となったワキガのことも有って、レナに反発されて終わった。
今回の手術で俺がレナに対して持っているマイナス面の二つの内一つは確実に解消される。そしてそのイジメの根底となったワキガの解消により、自分に自信を持つようになり、性格も変わってくるのでは無いかと淡い期待もしている。
とはいえだ。ワキガが解消され、性格が前向きになったところで、今まで最低に近いぐらいしか交流していない俺らだ。今更レナにどう接して良いかは分からないし、逆もまたしかりだろう。
多分このまま最低限の接触だけで、俺達兄妹はすごしていくのだろう。
俺がジュースを飲んでいると不意にスマホが振動する。それはマリアさんからのメッセージだった。曰く『前に言ってたけど、帰るのが遅くなるから。ご飯食べててね』との事だ。
今日は一番好きな物を食べよう、そう思った。悪臭から解放される記念すべき日。祝うべき日に適当な料理なんて、そんな味気ない事はしたくない。
冷蔵庫でつけ込んでいた鳥のもも肉を取り出すと、壁につるしていたフライパンをコンロの上にのせ火をつける。
照り焼きを作っているときの匂いは本当に好きだ。焼き鳥などもそうだが、醤油やたれがフライパンや網の上で熱せられる時に放つ、あの食欲を刺激する香ばしい香りがたまらなく好きだ。レナはそんな匂いを打ち消すような臭いを放つから、レナのいるところでは余り食べたくなくなってしまった料理でもある。
俺は軽く炒めて肉に火を通すと、一緒に温めていたタレとからめ、皿に盛り付ける。その横に千切りキャベツとスライサーで千切りにしたキュウリを混ぜたものを乗せると、プチトマトをのせて彩りをよくして完成。
ああ。この匂い、たまらない。
昼から残っていたお味噌汁を温め、ご飯を盛り付けると、すぐに食べ始めた。
しっかりつけ込んだのが良かったのだろう。肉全体に味が行き渡っていて、どこを噛んでも舌から同じ味が伝わってくる。またほんの少し唐辛子を入れたのも良かった。小さな辛みは肉の味を壊すことなく、上手く引き立てていて、一緒に食べていたご飯もどんどん減っていく。
もう一杯食べようか、そう思いながらお肉を口に入れたときだった。
レナが帰宅したのは。
玄関が開く音がして、俺は思わず体を震わせる。大好物を食べているときに来るレナは、泣きながら邪気を放つ悪魔のようなものだ。抑えたくても抑えきれず、消臭剤をも打ち消し、広がっていく悪臭。
手術は上手くいった、とは聞いた。果たして、現在どうなっているのだろうか。
パタパタとスリッパで歩く音がだんだんと近づいてくる。そして俺は口に残っていた肉と唾をゴクリと飲み込む。
普段なら建物に配慮せず、勢いよくドアを開けるはずだった。しかし今日はなぜかゆっくりとノブが動き、そっとドアが開かれた。
「お、お兄ちゃん……」
お兄ちゃん、その言葉を聞いたのはいつぶりだろう? 父さんが存命だった頃か。体を小さくして、か細い声で俺を呼ぶと、ゆっくりリビングに入ってきた。
俺はすぐにその違いに気が付いた。
日本人には見られない美しいプラチナブロンドの頭を少し下げ、垂れ目の青い瞳が俺をうつしている。その表情はとても不安そうで、今にも泣き出しそうにも見えた。
「うそだろ……」
俺は思わず立ち上がっていた。
足が椅子にぶつかり、ようやく立ち上がっていることに気が付いた。床が傷つくことを気にせず乱暴に椅子をしまうと、ゆっくり一歩一歩、レナに近づいていく。
「臭わない! 臭わないよ、レナっ!」
「お兄ちゃんっっ!!」
飛び付いてくるレナをぎゅっと抱きしめその場でグルグルと回る。レナの白く美しいうなじからは、悪臭は一切感じない。むしろ。
「ああ、レナ、良い香りがする。シャンプーだ、シャンプーの香りがする! 良いにおいだよ、レナ!」
髪からは家ではかいだことの無い、フローラルな香りがしていた。
「おにぃぢゃぁぁん!」
「レナぁ、よかったぁぁぁぁああああ!」
レナとの思い出が走馬燈に過ぎていく。初めて出会ったときの衝撃。美しさに悪臭を足してマイナスになったあの日から、大好きな照り焼きが味わえなくなったあの日、俺の試験が近いって言うのに居間でテレビを見ながら悪臭を蔓延させたあの日。
もうその苦しみを味わうことは無いのだ!!!!!!
いつの間にか俺は泣いているようだった。レナの肩に俺の涙がこぼれていた。
「お……お兄ちゃん、泣いてるの? 泣いてくれているの?!」
気が付けばレナは俺の顔を凝視して驚いていた。
「ば、ばかっ、恥ずかしいからこっち見んな」
俺はレナの小さな頭を自分の胸に押しつける。瞳からは溢れんばかりの涙が出ていて、俺はレナを抱き寄せながら、片腕で涙をぬぐった。
それからどれくらい時間が経っただろうか。俺もレナも落ち着くのに結構な時間が必要だったようだ。ふと視線を移せば、ドアのところでマリアさんが笑顔で涙を流していた。
俺はあまりの出来事に周りが見えていなかったのだろう。幸せそうにこちらを見るマリアさんに俺の泣き顔を見られたかと思うと、俺はなんだか恥ずかしくなって顔をそらした。そしてレナの頭、と言うより髪を見てあることに気が付いた。そして色々合点がいった。
嗅いだことの無い、この匂いの理由がようやく分かった。
「レナ、髪切ってきたんだな」
レナの薄いピンク色の唇がぴくりと動く。化粧なんてほぼしていないのに、その肌は白くて綺麗でみずみずしい。ただ今は泣きまくったせいで、少しみずみずしすぎるかも知れない。
切ったばかりであろうオデコの前髪を優しくなで、
「似合ってるよ、すごく可愛い」
本心からそう言った。泣きまくったせいで目は赤くなっているし、ずっと頭を俺に押しつけていたから髪は少し乱れていたし、顔が涙とほんの少しの鼻水でグチャグチャで……だけどなぜかとても可愛らしかった。
レナは耳まで真っ赤になると俺の胸に頭を押し当てた。