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俺はそのまま麗奈の横を素通りし、マリアさんが朝にジューサーで絞ったジュースをコップに注ぐと、テレビを見つめる。ちょうどこの辺りのニュースが放送されていて、少し唇が右につり上がった男性がニュースを読み上げていた。
『イジメの発生件数は増加傾向ーー』
ぷつりと、テレビが消される。不意にレナがこちらを向いたので、俺はすぐに視線をそらした。
レナはこのワキガで本当に悩んでいるようだった。小学から半ば登校拒否の引きこもり状態であったが、中学は輪をかけて酷かった。買い物ですらヨドバシやらアマゾンを有効活用……と言うより悪用して、ほぼ家で済ませている。なんとか私立の学校に合格し今年の4月に高校生となるのだが、このままでは中学の二の舞である。
義母さんはそんなレナに危機感を持っているらしく、何かにつけてレナを外に出そうとした。しかしレナは出ることはなかった。
レナは頭が良いわけでは無いが、悪いわけでもない。だから自分がこのままではまずいことを自覚しているし、実際にレナは出たがっていた。
でもレナの奥底にいる心が拒否しているのだ。それが顔と体に表れている。
レナとはあまり仲が良くないから、マリアさんに聞くところになるが、レナはこの辺りの人と会うのがどうしてもイヤらしい。
何もかもをリセットしたいのだろう。知らない場所で新たに始めたいのだろう。その気持ちはよく分かる。俺だって小学校でやらかした事件をリセットしたいと思っていたし、実際友達を何人か無くした。
そう、気持ちは分かるのだ。だからこそ亡き父親と亡き実母が残したこのマンションから、引っ越すことも了承している。転勤族だった両親だから、住居なんてさしてどうでも良かった。
マリアさんは涙ながらに感謝してくれたが、本当に住む場所なんてどうでも良かった。学校も電車で行ける距離だし、バイト先は学校に近いから関係ない。口には出してないが、書店が近くにあるから早く引っ越してほしいとさえ思っていた。
レナの視線から逃れるように、顔をそらした先には、リビングのテーブルに一枚のチラシが置いてある。それは有名な整形外科医の名前と、最新医療による治療の値段目安が書かれていた。
よくよく読まなくても、それはワキガの手術代で有ることが分かった。レナはいつもこういったワキガに関するチラシを集めては、マリアさんに話して喧嘩をしていた。お金のことで。
二人の話を聞くに、レナは大きく腋を切ることがとても恐いらしい。しかし最新医療の手術では、ほとんど腋を切開することなく、再発率は驚異のゼロで、手術後の痛みもカッターで手を軽く切ったほどしかないという。
しかし、それは薬やらが非常に高価で、また普及していないことも相まって、馬鹿高いのだ。このチラシにはでかでかと三桁万円の数字が書かれているが、見る人が見れば安いのだろう。
実のところその最新医療の手術代金なんざ、ニコニコ現金一括払い出来るのだ。それは父の死亡保険が降りたからだ。父は保険を嫌っていたから、実母に無理矢理加入させられた非常に安価な保険にしか入って居なかったため、そこまで大きい金額ではない。しかし、払えるのだ。
だけどマリアさんは亡き父の遺産に手をつけず、俺に使いたがった。
父は直感型の人間だった。しかもそれは大抵良い意味で当たる直感だった。旅行に行ったときは「なんだか嫌な予感がするから、ここに行くのはやめよう」なんて言い出したときは、ガン泣きしたが、その日地震が起きてその行こうとした場所が火事になったときは、父が巫で神と交信出来るのではないかと疑ったりもした。
さて、当時他人であり、未亡人だったマリアさんが、色々困っているのを助けてあげたのも、ある意味大正解で、ある意味大失敗だった。マリアという名の通り、聖母のような女性が俺の母になってくれたのだ。しかし結婚後、間もなくして父はこの世を去った。悪い見方をすればマリアさんに俺を押しつけて、二度と会えない世界へ旅立って行きやがったのだ。
父が亡くなったことで悲しみもしたけれど、破天荒でどこかねじが外れていた父だったせいもあって、そこまで大きな悲しみは感じなかった。むしろだ。ある程度社会を知り始めていたから、マリアさんに同情した。
自分とは一切血のつながっていない外人の子供が、自分の戸籍に入っているのだ。自分の娘と合わせて二人を育てなければならない。その心中は察するに余りある。
だから俺はなるべくマリアさんの助けになるように動いた。スマホ代も自分で払うし、ご飯は作るし、掃除はするし、洗濯はプライバシーの侵害にならないくらいまで手伝った。まあ同情どころか少し欲情してしまったのは、マリアさんが年齢を感じさせない程美人で優しいから仕方ないと思う。あまり体を密着させるスキンシップは取らないで欲しい。ただ実の息子のように扱ってくれるのは感謝している。恥ずかしいけれど。
ともかくマリアさんは優しい。だからこそ俺に父のお金を使いたいのだろう。大学には費用がかかる。マリアさんがレナに「今有るお金は大学の学費に充てるのっ!」と俺を見ながら言ったときは、レナはハッとした表情をして、すぐ泣き出してしまった。レナもそのお金に手を出したくはないのだろう。そしてどうしようもなくなって、泣いてしまったのだ。
本音を言えば父の遺産は使ってくれて構わなかった。むしろ脳みそを掴まれるような悪臭から解放されるなら、是非使って欲しかった。ただ俺はレナと余り仲が良くない。未だにどう接して良いか分からないし、何よりレナは俺と距離を取っている。物理的にも、心情的にも。まあレナが距離を取るのは、マリアさん以外ほぼ全員だから、ショックどころかこれから先を心配してしまうのだが。
レナが他者から距離をとる理由のひとつは、間違いなく自身の悪臭だろう。正直に言えば俺もレナがいる部屋に一緒にいたくない。おいしさが半減するから、一緒に食事も取りたくない。同じ部屋にいると体調不良になるくらいだ。このストレスから解消されるなら、返済が辛いのだとしても、奨学金を借り、バイト掛け持ちしながら大学へ行く。複雑な母子家庭だから、奨学金は無利息のが下りるだろうし、俺のできが良ければ一部免除されるかも知れない。
もちろん「臭くてストレスが半端ないから手術して」なんて、そんな直接的なことは彼女達に言えなかった。そもそもレナとはほとんど話さない。だから話すのは必然的にマリアさんにだった。
「自分はどうとでもなるから、レナにお金を使って欲しい」
しかしマリアさんはその言葉を聞いて、目を見開くと、泣きそうな顔で首を振るのだ。震える腕で俺を抱きしめ、涙声でありがとうやら、thank youなんて繰り返し言うものの、しかし決して使おうとはしなかった。
俺が部屋に戻ってすぐにマリアさんは帰宅したようだった。二十分もせずにご飯だと呼ばれ、短時間で用意したにしては豪華な食事を、三人で囲んだ。
三人でご飯を食べている間、俺はやっぱりこの苦痛(悪臭)に耐えていた。それも何度目か分からない母娘のケンカを聞きながら。
さっさと食事を済ませ、皆の食器を洗ってから部屋に戻ると、視界に通帳を見つける。いやな物を思い出したと、ポケットに手を入れる。するとなにかの紙がつぶれる音がした。
その紙を取り出して広げてみると、通帳残高より少し少ないぐらいの金額が、それはもうデカデカと書かれたチラシが入っていた。
俺はすぐさまそのチラシを部屋に落ちていたコンビニ袋に入れると、その中に通帳とカードと印鑑を入れる。そして机の上にあるメモ帳に、アイドルリーダーの誕生日及び、俺のカードの暗証番号を書くと、それも袋に入れた。
それからすぐに部屋を出ると、レナの部屋をノックする。
マリアさんとのケンカがまだ尾を引いているのだろう。ウザったそうな顔で俺を見ると、
「何?」
とぶっきらぼうに話す。
俺はあまりの臭いで、中学生とは思えない程大きな胸の横、臭いの元である腋を見つめた。そして小さく息を吐くと、これ以上吸い込まないようにしようと思った。
俺は先ほどのビニール袋をレナの前に出す。しかしレナは困惑しているようだ。俺は呼吸を止めているせいで、だんだん苦しくなり、俺はレナの手を掴み無理矢理持たせると、部屋を出て自室に戻った。
そしてすぐさまアロマを使って、レナのくっさい臭いを上書きし、リラックスしながら今日何をするかを考える。俺は壁や棚一面がすっきりしているのを見て、なんとなくだが、遊ぶ気にはならなかった。
「勉強でもしようかな」
辛いことがあると仕事に逃げる大人がいるらしいが、その理由が少しだけ分かった気がした。