からは木ごとにとどむれど
行くならば、夢から覚めている今しかない。
そう思って家を出てきた。
庭で刈り取った残菊の束を、左の手に提げている。赤や黄色だった花々は茶色に枯れる寸前で、雨に打たれて萎れていた。右手で差した蝙蝠傘に、雨がぼつぼつ落ちてくる。曇った音が気味悪く、とても嫌な気分だった。
風は灰色で薄寒い。おろしたての真新しい駒下駄を見ると、雨と泥とで濡れていた。おっ母さんが知ったら、きっと「せっかく兄様が買ってくれたものをこんな雨の日に履いて」と叱られるだろう。
――雪子、病気が治ったらこれで一緒に散歩へ行こうな。
兄様はそう言ってくれた。
でも、だからこそ、一度くらい履かなければ、それこそ申し訳ないから仕方が無い。
そう思って、またとぼとぼと歩きだした。何だか身体が痛いなと何気なく見れば、腕や足は生傷だらけだった。色が抜けたように白い手も、骨と皮ばかりになっている。
みっともないことになったものだ。
何故こんなことになっているのだろう?
私は女学校に通っていたはずなのに。
これでは恥ずかしくて病院にも行けない。
誰かと喧嘩でもしたかしらと、虚空を見つめて考えるうちに、父母や兄の疲れ果てた顔が急に思い出された。
――そうだった。あんなに皆を疲れさせてしまったから、私は行かなくてはならないのだった。
そこだけ思い出してまた歩き出す。
庭の菊を手折り、着物を変え友禅の帯を締め、支度を整え家を出たのだ。手束ねの黒髪は少しゆるんで、前髪が額に垂れて重かった。
そうして再び進んでいくのだが、道は行けども行けども滅茶苦茶な迷路のように続いていく。終わりの無さにくたびれてきた。でも諦めてはいけない、行かなければと、一生懸命歩いていた。「がんばらなきゃ、がんばらなきゃ」と小さな声で己を励ます。びしゃびしゃ雨が地面を打つ音に包まれて歩いていた。
冷たく濁った藍色に染まる道は、薄暗くて遠くまで見えない。
でも、たぶん上野公園に近い場所で新坂の辺りまで来たのだなと思った。ここはあまり良くない道だった。
気をつけなくちゃと、怖いながらも黒い水たまりの並ぶ道を進んでいく。
すると通りかかった辻の角から、人影がパッと出てきて傘の中へ入ってきた。
突然のことに吃驚して、「あら!」と思わず声を上げた。
身を慎むべき女学生たる者。どれほどくたびれて弱っていようとも、侮られてなるものかと気を強く持って相手をぐいと見上げた。
そこには鼻筋の通った顔立ちに、肌も浅黒い二十三、四の書生がいた。兄の友達で、校内一流と言われた『あの人』の顔をしていた。
「……どうも」
挨拶にしては無愛想に言ったきり、現れた人は無表情で黙っていた。
この人がこんな所にいるのはおかしい。これはいよいよ怪しいと急いで考え込んだ。
「あなた、『雨男』ね?」
さては、と思い切って怖々尋ねてみたが、相手は口を結んで動かない。
『雨男』という古い化物譚があった。雨の道を一人で歩いていると、懐かしい父母兄弟や、友人など亡くなった親しい人が次々に思い出されてくることがある。思い出して歩くうち、道の角に影が現れる。こちらが近付いた途端、『それ』は物も言わず傘の下へ飛び込んでくる。
飛び込んでくるその顔は、きっと今思い出していた懐かしい人の顔であるという。
つまり目の前に出てきたこれは、妖怪変化に違いないと思った。
『あの人』に会えるはずはないのだから。
自分はとても急いでいる。
それなのに雨の化物と鉢合わせてしまった。
真面目な書生さんだった人が、雨がこんなに降るせいで『雨男』に変わってしまっている。
何て困った事だろうと思った。
「あの……立ち話も何ですから、参りましょうか」
下を向き、佇んでいるものの顔を見ないようにして話しかけた自分の声は、掠れて震えていた。
書生姿の『雨男』も、「ええ」と短く返事をした。
お互い無言で歩き出す。うつむいたままでも、蝙蝠傘の右側を大股で歩く袴と下駄が見えた。どこかで不如帰が鳴いている。見上げればきっとすぐそこに、相手の顔があった。でも見てはいけない。見たら大変な事になる。遮二無二こわくて、道端の枯れ草や、水溜まりに沈んだ石ころを見るようにしていた。
「学校の庭の花は綺麗でしたね」
間断なく続く雨音にまじり、出し抜けに書生姿の『それ』が切り出した。
「あのお花見のときね?」
地面の黒いぬかるみへ向けて答えると、隣にいる者も無愛想ながら頷いたようだった。
「でも、花はもう萎れてしまったでしょう」
「ええ、みんな散ってしまいました」
とうに季節は秋だから、春の花は散っている。
お花見は大層楽しゅうございましたけれど、前世の夕焼けほど遠い思い出になってしまいましたねと言ったら、相手はそれに答えなかった。急に胸が絞られたように苦しくなり、無性に泣きたくなってきた。
「勉強は、どうですか?」
無骨な口調と低い声で、相も変らぬ真面目一辺倒の質問があった。
「近頃は……ずっと家で休んでいるものですから」
喋りたくないのに自分の口が勝手に喋るので、無意識に少し笑ってしまう。
「また金平糖ばかり食べているんでしょう」
隣の『それ』が、変なことを言い出した。
「私が毎日、金平糖を食べると思っていらっしゃったの?」
金平糖が好きだといつか話したけれど、そう食いしん坊ではない。失礼な、と少々憤慨した。
「金平糖なんて食べていません。でも外へ出るのが久しぶりで、どうも少し道に迷ってしまったようで……」
そこまで言ったら、書生姿の『それ』の足がぴたりと止まった。
「ここを右に曲がれば、大きな榎があります。その先でしょう」
日に焼けた手を伸ばし、トンネル状になっている黒い木立ちと雨の向こうをゆっくり指差した。
こちらの行き先を知っている口調だった。
辻の角を曲がると、榎の巨木がある。そういえばその通りだったと、駒下駄が竦んで膝が震えた。しかし自分が行こうと思っていた場所はそこだったという確信もあった。
間もなく自分が、あの角を曲がって行くのもわかっている。
残菊の花束を、持っていかなければならなかった。
「兄に渡されて……お手紙は拝見しました。お返事を書こうとしていたんですのよ」
伝えなければならないという思いに突き動かされ、話しかける。濡れて冷え切った己の爪先が、染みるように痛かった。
「ああ、読みにくかったでしょう? あんな血塗れになるはずじゃなかった。運が悪かったんです」
傘の陰の右隣に佇む『それ』は前を見つめ、不気味な冷静さで喋っていた。
怖いことを言うこの『雨男』から離れなければと、心が焦る。
でも着物の袖は水を吸い込み、じとじとやたらに重くて動けなかった。頭も重くて仕方ない。邪魔だから、こんな頭は取れてしまえば楽になって走れるのにと思った。
「手紙を置く場所が線路の近くなんていうのが、まず良くありませんわ」
「ええ、そうでした。郵便で出せば良かったな」
彼の言葉の最後が、自嘲するように笑う。人一倍真面目で優しいこの人は、どうしていつも自分ばかりを責めるのだろうと、かなしくなった。
――でも少しだって深入りすれば、嫌そうな顔をするじゃないの。
傍にいても離れても、いつだって悔いばかりが募る人だった。
「そうじゃないんです……何より、私が。私が物知らずだったのが、一番悪かったのですわ」
夢中でそう言い放つと、隣に佇む書生は更に沈黙した。
その沈黙で、思い出してはいけない言葉と声と光景とが、雨と一緒に否応なく降ってきた。
「あなたにもらったお花は……今も本に挟んでありましてよ」
渇いて貼りついた喉を無理やり開き、声を喋りだす。色鮮やかだった眩しい思い出も、湿気た本の隙間で紙魚に食われているだろうと思うと、微かに溜息が出た。
「私……たしかにあの時、『その事はもう仰らないで』とお返事をしました。でも、それは……そうしないことには兄様の、兄の立つ瀬が無くなってしまいますし、婿養子を迎えた父母を困らせもしますから」
思い出されるのは、白い木洩れ日の輝く春の日。花を添えて渡された短い告白。家を継ぐ立場の娘に、間違いがあってはならない。無知の残酷で斬って捨てた。
判断に間違いはなかった。
けれど、その後に人が一人死んだ。
「わかっています。僕は世間から自分を守っただけです」
雨に打たれる案山子のように、佇む影は感情の無い返事をした。
「いいえ、私の名誉も守ろうとしてくださったでしょう? そうでないなら……あんな」
暗い雨に閉じ込められた会話は先が続かない。
黒ずんだ血に塗れた遺書が、瞼の裏に蘇った。
お前は悪くないと誰が何度言ってくれようと、己自身が到底違うと否定して許さない。
「その花は、僕に手向けてくれるのでしょうね?」
石像みたいに動かない青年姿の『それ』が、重々しい声音で尋ねる。
「ええ。この先は、うぐいす渓ですもの」
彼が見ているであろう方角を、隣で眺めた。
「僕が自殺したところですよ」
隣の人が呟いた。
死んだと本人が、きっぱり言う。それならやはり亡くなったのねと、ようやく腑に落ちて頷いた。
自分が人を殺した。
水底に沈めてきたその記憶の輪を辿る。この角を曲がった先にある新坂の線路は、轢死の名所と言われていた。
黒い傘の下でゆっくり振り仰ぐと、もう会いに来てくれない、二度と会えないはずの人がいた。
幻となって庭や縁側に現れ、「さようなら」と消えてしまう。
そのたびに必死で駆け出した。待って、連れて行ってと叫び、私は何も知らない、どうすれば良かったの、もう誰も触らないでと、周囲の手を振り解き泣き喚いてきた。途方に暮れた両親と兄の顔が、雨の中に浮かんだ。
殺した彼が、自分に会いに来てくれるなど虫が良過ぎる。
だからこれは、やっぱり『雨男』に騙されているに違いない。雨の化物にからかわれるほど駄目になってしまった己が、不甲斐なくて情けなくなってくる。
「あのね……『雨男』というお化けに出会ったら、傘を渡して元来た道を戻れば、無事だと聞いたことあるの」
微笑んで、左手に提げていた残菊を抱いた胸は、自分でも呆れるくらいげっそり痩せていた。
怪談というものには大体、怪異の避け方が準備してあった。「親切ね」と、おどけた小声で言って、また笑った。
「もし『雨男』に傘を渡さず、そのまま道行きを共にしたら、どうなるか……。植村さん、あなたご存知?」
知らず、嗚咽のまじり始めた声で尋ねる。
泣けば泣くだけまた湧く涙が落ち窪んだ目から溢れ、青白くやつれた頬と鼻筋を伝い落ちた。生前と変わらない姿の死者は、春の花を手折ってくれた日と同じ瞳で、困ったように黙している。
行くならば、夢から覚めている今しかないと思って家を出た。
けれど覚めたと思ったことさえ、夢だったのだろう。元来た道には戻れない。もうすぐこの首は落ちるのだと思った。
黒い蝙蝠傘と枯れかけた残菊を携えて、雨の中を再び歩き出した。
やがて雨が上がった後。
長い夢の後には真新しい駒下駄と、赤と黄色の千切れた花が濡れた線路に落ちていた。
※樋口一葉の短編『うつせみ』からインスパイアしています。
※『空蝉の殻は木ごとに留むれど魂の行くへを見ぬぞ悲しき』古今和歌集・読人知らず。




