プロローグ : 託された想い(1)
「迷うな。」
男は少女に言う。
「悩むなとは言わない。だけど迷うな。」
男は力強い口調で、少女の心に言葉を一つ一つ落とし込むように語る。
「フィデル。いつだってお前の心の、芯の部分は同じなはずだ。そうだろ?」
男は悪戯な笑みを浮かべながらそう告げると、その視線を少女に送った。男の顔は一見幼そうに見えるが、その所々にはいくつもの皺が刻まれている。そのどれもが彼の優しい心を表し、特に深く刻まれた目尻と頰の笑い皺を見れば、誰もが彼が明るく大らかな人物であることを感じることだろう。
『フィデル』と呼ばれた少女は、自分のことを見透かしたような口ぶりをする彼に反発すべく口を開こうとするが、左隣で微笑む三十歳以上も離れた男の不釣り合いで小憎たらしくて無邪気な表情に、その口をつぐんだ。フィデルはそんな表情を彼に見られないように、顔を右へと向ける。
フィデルの視界に広がるのは幻想的な世界。綺麗に生えそろった草花が凹凸無くどこまでも続いていた。星と月の光が夜露を纏った大地に光を与え、まるで草花自身が輝いているように見える。フィデルは心を落ち着かせようと、この幻想的な景色に浸ろうとするものの、触れてもいないのに何故か左側の存在を先程よりも強く感じてしまい、咄嗟に半歩彼から遠ざかった。
男はそんな不自然なフィデルの反応に、いつもと違うなと戸惑いながら頰を掻く。言い方が悪かったのかもしれないと、次は諭すように、穏やかな口調でフィデルに語りかける。
「俺はな。お前たち三人がこの世界を変えるきっかけになるって思うんだ。...いや、これは確信だな。お前たちの生きる道、歩く道はきっとこの世界を変える。」
「そんなこと言われてもわからない...。私はそんな凄い人間じゃないし、お前みたいに才能も人望もないし、頭だって悪い。」
未だ顔を右へ向けたままのフィデルに、男はそんなものは後から付いくるものだと教える。頭の悪さなんてものは関係なく、全部を完璧に熟す必要はないと。ただ一つ、自分が心から成し遂げたいことを見つけることが出来れば、迷うことなくそれを貫くことができ、それが一朝一夕では手に入れられない知識と経験になるのだと。
努力を怠らず重ねれば力となり、その努力を知らない人物からすれば、それは才能のように見える。才能がある人物は自然に周りから頼りにされるようになり、それがいつしか人望へも変わる。
彼もそういった積み重ねの人生だった。そんな彼だからこそ、フィデルにはっきりと断言できた。
少し間を置いて、フィデルは彼へと向き直した。
腰まで伸ばした長く美しい金色の髪。フィデルは微風に流された前髪を手でさっと整える。そしてもう一つ間を置いて、緊張する心を拭い去るように直した前髪を一撫でし、鼻で深く息をした。
フィデルの宝石のような深い青色の瞳が男の目をじっと見つめる。
「...軍学校に入る。」
フィデルは意を決して彼に告げた。
男と旅を続けて早三年が経とうとしているのだが、一年程前から、男に軍学校入校の誘いを受けていたのだった。提案された当初は、学校というものに憧れは抱きつつも、面倒そうという理由だけで、特に考えもせずに断っていた。
フィデルには『軍学校に入りたい明確な理由』がなかったからだ。
自分には相応しくない。規律などが厳しそう。周囲に付いて行けなかったら恥ずかしい。卒業できたとして次はどうする。入りたくない理由ならいくつでも浮かんでくるのに、その逆がフィデルにはなかったのだ。
だから彼女は断り続けていた。
だが、数日前。
ある出来事をきっかけにフィデルの中に『明確な理由』が生まれた。自分が進みたい、目標となる未来の自分の姿をはっきりと描くことができるほどに。
いや、答えを知ってみれば、それは初めから見えていたことなのかもしれない。フィデルの生い立ち、男との出会い、彼との旅で体験し感じたこと。振り返ってみれば、いつも自分の意思は同じ方向へと向かっていたのだった。
ーたくさんの人を救いたいー
それはとても単純なこと。英雄願望というとても子供染みた夢かもしれないが、だからこそ、それはいかなる時も心を奥深くにずっとある。
強い想いだけではそれは実現できない。実現するための力、知識、経験、同じ志を持つ仲間を得ることのできる場所。そこに赴くことで、フィデルは自分の夢を自分の力で現実にできると感じた。
だがそれは、同時にこの旅の終わりを意味する。
それでも彼女の意思はもう固まっていた。このまま彼と旅をすることでもフィデルの夢は叶うかもしれないが、それでは本当の意味で叶えたことにはならない。だから今、この時にここを去らなければならないと、フィデルは思った。
いつか胸を張れる自分になって、目の前の男と再会するために。
男は少しだけ間を置き、そうか。とだけ返答し、その理由を聞こうとはしなかった。返した言葉は一言だけだったが、口角の上がった口元と穏やかに細めた目からは彼の喜びの気持ちが滲み出ていた。
その気持ちを抑えきれなくなったのか、この昂ぶりをどう表現していいのかわからなくなったのか、男はフィデルの左手を掴んで自分へと手繰り寄せる。そして、まるで我が子を愛でるかのように肩から彼女を抱き寄せ、大きな右手で彼女の頭を優しく撫でた。
何度も男が撫でる内に、初めは強張っていた彼女の体から力が抜けて和らいでいくのを胸の中で感じた。
フィデルは顔を足元に向けるように額を支えにして、自分と男の体の間に少しの空間を作る。紅潮し続ける顔を見られないため、張り裂けそうに高鳴る鼓動を気取られないためだった。
「べ、別におま、、お前が言ったからと、とかじゃないんだからなっ!」
沈黙を打ち破ろうとフィデルが話を切り出すも、焦りから頭と呂律が回らなかった彼女は、上手く言葉を発することができなかった。それがまた彼女の羞恥心を強く刺激し、顔の紅潮はますます勢いを増す。弁解しようと言葉を探すが、彼女の頭の中は『男が今どんな顔をしているのか。』ということでいっぱいになっていて、訳が分からなくなったフィデルは、とにかく離れようと力一杯男の体を後ろへと押し出した。
まだ顔を上げることの出来ないフィデルは、沈黙が怖くてとにかく思いつく限りの言葉を繋いでいく。
「こ、このままお前に頼ってばっかりの旅もどうかと思ったし!それに....、それに何だか最近刺激がな、ないなとかも思ってたし!だから、それで私ーー...!」
「ありがとうな。」
そう言った男の声はとても大人びていた。一見幼そうに見えるその顔立ちから発せられたとは思えないほどに落ち着いていて、安心できる声。
フィデルの心の中をかき乱していた感情は、その声によって一瞬で消え去り、彼女は引き寄せられるように自然に顔を上げて男の顔を見つめてしまう。
「ありがとう。」
もう一度男は言う。
「私こそありがとう。」
その感謝の言葉は、頭で考えたのではなく、自然に出たフィデルの本心だった。この言葉には、軍学校に誘ってくれたことに対する感謝以外にも様々な意味がいくつもいくつも込められていた。
男にその全てが伝わったのかどうかはフィデルにはわからない。いや、別にどちらでも良かった。フィデルの感謝の言葉を聞いて、先程よりも嬉しそうに微笑む男の顔を見れて、彼女はとても満足だったのだから。