2‐1
涼しい風が穏やかに吹く夜。ラウンジの手すりに肘をかけ、外を眺めるガルデニアの手には箱が握られていた。飾り気のない箱の蓋には紋章のようなものが刻まれている。それがガルデニアの過去に関わるなにかなのかは、本人さえも分からない。だが、それを指で撫ぜることで懐かしさを感じるような気がした。
箱はオルゴールで、開くと、繊細な旋律を奏でる。三十秒ほどのこの曲を、ガルデニアはほとんど毎日聞いていた。それでもガルデニアは過去の事を思い出すことはできないが、一日を終える習慣となっていた。
「ただいま。今日もそれを聞いてるんだな。何か思い出せたか?」
仕事を終えたアルフが帰って来たところだ。彼は、街の掲示板に張り出される依頼をこなす仕事をしている。雑用のようなものから用心棒のようなものなど、仕事は多岐にわたった。そのために報酬額もまちまちで、稼げる日は新しい剣が買えるほどの金を手にしたが、あまり良い依頼のない日は食事をとることが精いっぱいというだけしか稼げない。
それを補うように、ガルデニアも働いた。彼女は街の酒場で働いている。最初こそ、ものを知らないがために失敗も多かったが、覚えが良いのか一週間もする頃にはある程度仕事を任されるようにもなっていた。
「おかえりなさい、アルフ。何も思い出せないですよ。でもこれが習慣になってしまっているから。アルフの方はどうだった?」
「今日か?今日はなあ……。」
言いながら、ラウンジにある木製の椅子に腰かける。立ち仕事だったようで、自然と声が漏れた。
アルフは今日あったことをガルデニアに話す。ほとんどは依頼の事、もちろん守秘義務などがあればそれを話すことはないが、仕事の事をできるだけ楽しく話した。これもほとんど日課になっているようで、ガルデニアもアルフの話をまるで冒険譚を聞く子供のように楽しんだ。
ガルデニアと暮らし始めてから、アルフは前よりも人と接する機会が多くなった気がする。それも友好的に。本人は気がついていないかもしれないが、いい変化かもしれない。
「ガルデニア、聞いているのか?」
視線は外を。バルコニーの下を向いていた。もう一度アルフが名前を呼ぶと、その声に反応する。
「あっ、あ、ごめんアルフ。聞いてるよ。何だっけ。」
「聞いてないじゃないか。そっちに何かあるのか?」
ガルデニアの見ている方に何かあるのかと、アルフも立ち上がって手すりへと肘をかけて体重を預ける。すると、宿の下に人が一人立っていて、こっちを見ているような気がした。というのも、ランタンでかすかな光があるものの、あとは遠い街灯りが見える程度で、近くを照らすようなものは何もないからだ。
「ガルデニア、知り合いか?」
という問いに首を横に振る。ランタンを手に持ち、その人物の方へと向けてみたが、遠すぎてこの程度の明かりじゃうっすらとした輪郭しか見えなかった。
「なあ、あんた、何の用だ。不審者だとしたら警邏を呼ぶぞ!」
警邏という言葉に反応したのか、一瞬肩を震わせる。しかし、その人影はその場を動かない。
「なんとか言ったらどうなんだ!」
アルフが少しだけ声を荒げて言うと、その人物は弱弱しくしゃがれた言葉を発した。声からして老年の男性だろうか。
「すまない。悪気はないんだ。わしはただ、ここを通りかかっただけで、その時に聞き覚えのある音が聞こえたから立ち止まっていたんだ。オルゴールの音だと思うんだが。」
思わずガルデニアは箱の蓋を閉じる。音が止まると、男は残念そうに声を漏らす。
「おっさん、このオルゴールの事を何か知ってるのか!」
また、歩き出そうとした老人に、アルフは手すりから身を乗り出して問う。
「昔、どこかで聞いたことがある気がしただけだよ。」
老人は言った。
もしかしたら、この人ならばガルデニアの過去について何かわかるかもしれない。アルフは、ガルデニアの顔を見た。不安ながら、彼女も同じ事を思っていたようで、聞くと無言で頷く。
アルフはその男性をラウンジまで呼び寄せ、椅子に座らせる。彼はギシリと音を立て、深く腰を掛けた。白髪と顔に深く刻まれた皺が彼が長く生きてきたことを象徴させる。
老人は口を開く、もう一度、オルゴールの音を聞かせてくれないかと。
言われるがままに蓋を開け、音を流すと、老人は目を瞑り繊細なオルゴールの音を聞き入った。安らかな表情で、もうこのまま逝ってしまうのではないかと心配するほどに。
曲が一周すると、老人は目を開けた。目を開けたことで生きていたとアルフとガルデニアは安心する。
「じいさんは、この曲がなんの曲か知ってるのか?」
「わしの名前は……。いや、昔の名前なんぞ今となってはどうでもいいか。これでもわしは昔、世界中を旅していてな。その時の話を少ししてやるとしよう。」
そう言って、ランタンの照らす灯りの中、老人は昔話をし始めた。アルフは手すりに身を預け、ガルデニアは同じような椅子へと座り、彼の話を聞いた。