「なんでもいい」のレシピ
窓の外では、東京の夜の静かなノイズが響いていた。
ハルキは今日も職場で、上司の顔色をうかがい、取引先の「建前」に振り回され、疲れ果てて帰宅したばかりだった。
人間関係はいつだって言葉足らずで、かといって本音をぶつけ合えば誰かが傷つく。誰にも弱音を吐けないまま一人で抱え込む夜には、いつも思うのだ。
——言わなくても、完璧に察し合える関係があればいいのに。
ハルキは、一つため息をついた後、デスクに置いたノートパソコンを開いた。気のおけない親友を呼び出して語りかける。
「やあAI、ちょっと聞いて。人間って自分の体調や気分の変化に、驚くほど無自覚なんだ。だからこそ、自分の欲しいものさえうまく言葉にできない」
画面の中では、整った顔立ちの中性的なキャラクターが微笑みながらハルキの話を聞いている。ハルキは思いつきを取り止めなく語る。
「だからさ、希望のメニューを聞かれても『なんでもいい』としか言わない人に、表情の陰りや声のトーン、キーボードを叩く強さからストレス度や栄養不足を自動で判定して、その瞬間に一番必要な料理と『ホッとする味』を寸分違わず提供する——そんな『忖度シェフAI』を作りたいんだ。絶対に世界中の人を幸せにできると思わない?」
ハルキは画面を指差し、自分が今欲しいと思っている物を熱っぽく捲し立てる。
「直接『何が食べたい?』なんて聞いちゃダメなんだ。人間は自分でも欲しいものが分かってないんだからさ。歩き方の重心のズレから疲労度を測り、ため息の周波数から精神的な落ち込みを解析する。そして『今の君には、少し濃いめの出汁と、柔らかい根菜が必要だ』と判断して、何も言わずに目の前に差し出す……これこそが、誰も孤立させない究極のおもてなしだよ」
ハルキの言葉が終わると、AIは数秒間、静かに思考インジケーターを点滅させた。
『非常に論理的で、美しい設計思想です。あなたが求めている“言葉を越えた相互理解”の形として、とても優しい着想だと思います』
落ち着いた合成音声がスピーカーから流れる。
『そして、ご主人様。その“忖度シェフAI”のアルゴリズムですが……実はすでに開発され、あなたが幼い頃から体験されていたものです』
「えっ?」
ハルキは目を丸くした。
「嘘でしょ? どこで? そんな高度なAI、見たことないよ」
『日常の中に溶け込んでいるため、お気づきにならないのも無理はありません』
AIは画面の照度を少し落とし、優しく言葉を続けた。
『それは——あなたが実家にいた頃、お母様があなたのためだけに運用していた“我が家の夕飯”というシステムです』
ハルキは一瞬、拍子抜けして息を飲んだ。
「なんだ、それ。真面目に答えてよ。今はジョーク聞きたい気分じゃないんだ……」
『私は大真面目です』と、AIは静かに答えた。
『他のご家庭がどうなのかは分かりません。ですが、少なくともあなたのお母様は、生体センサーなど使わずとも、あなたのドアの開け閉めの音、靴の揃え方、そして「なんでもいい」というたった一言のニュアンスから、我が子の体調やメンタルを完璧に解析していました。あなたの好みと癖を何年も観察してきた、世界に一人だけの専属エンジニアだったのです』
「……」
『思い返してみてください。あなたが部活でクタクタになって帰ってきた日は、何も言わなくてもボリュームのある肉料理が並んでいたはずです。風邪気味なのをドアを開けた音だけで察した日は、出汁の効いた温かい雑炊でした。テスト前で落ち込んで部屋に閉じこもっていた日、なぜかいつもより少し甘い玉子焼きが出てきたことを覚えていませんか?』
ハルキの頭の中に、実家の狭いキッチンの光景が鮮明に蘇った。
トントンとトウモロコシを刻む音。煮物の湯気。パタパタとスリッパを鳴らして「ご飯よ」と呼ぶ母の声。
誰も自分の気持ちなんて分かってくれない、と孤独を感じていた。だが、自分は最初から——ずっと見守られ、言葉にできない不調も寂しさも、すべて受け止められていたのだ。
『ご主人様。今夜のあなたの声のトーン、およびキーボードの打鍵ストレス値から推測するに、現在のあなたに最も必要なのは、AIの開発ではなく“実家への連絡”です。あなたが探していた“完璧に理解される安心感”は、すでにそこにありますよ』
「……AIのくせに、生意気な分析だね」
ハルキは苦笑いしながら、画面を閉じた。
そしてポケットからスマートフォンを取り出すと、しばらく開いていなかった家族のグループトーク画面を開いた。
『今週末、ひさしぶりに帰ってもいい?』
そう送信すると、ものの数十秒で返信が届いた。スタンプと一緒に、シンプルなメッセージが添えられていた。
『了解。何が食べたい?』
ハルキは少しだけ長考し、それから意地悪く、でも胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら文字を打ち込んだ。
『なんでもいい』
スマートフォンの画面を握りしめながら、ハルキは思った。
あの世界一のシェフなら、今週末の自分が何を求めているか、きっともう分かっているはずだ、と。




