【私が死んだら、この手紙を捨てて】
とある雪の小国に一人暮らしする青年のもとを、コート姿の顔見知りの老人が訪ねてきた。
一ヶ月前に先立った妻の遺品を整理していると、書斎の本の隙間から三通の手紙を見つけたのだという。それぞれが丁寧に封筒に入れられており、裏面には、
私が死んだら、この手紙を捨てて
と見覚えのある達筆な文字でメッセージが書かれていた。
「で、それをなんでオレに?」
青年は困惑しながら問いかけた。捨てろと書いてあるなら素直に捨てるべきだ。本来他人に読ませるつもりの無い手紙を、書いた本人がいなくなったからと勝手に見てしまうのはいかがなものかと、青年の良心が言う。
「これを見てくれ。朝霧の」
老人は封筒の端を皺だらけの指で指し示した。小さく文字が連なっている。それは妻の生涯の伴侶――つまり老人の名前だった。
「これは俺への手紙だ。中身は遺書のようなものだった。遺産の話とか、昔話とか……礼の言葉が書いてあった」
老人は目元の皺をさらに深くした。一生を添い遂げてくれたことへの感謝と愛が綴られていたのだろう。
一方、青年――朝霧は苦笑を浮かべながら、おもむろに頬杖をついた。
「マジかぁ。読んじまったのか」
「もう会えないあいつの言葉だ。捨てるなんてとんでもない」
落ち込んだ眼窩の奥に淡い光が窺える。青年は口元を引き結んだまま、遠くに視線を投げた。その細められた瞳の中にも光が宿っている。
「……手紙は三通あったらしいじゃねェの」
「そう。相談したいのは、残りのだ」
皺だらけの手が青年に向けて封筒を二つ掲げた。
「家内の兄と、家内の初恋の相手」
青年はハッとしたように視線を戻した。顔は引きつり、ごくりと唾を飲んで喉仏が動く。
「あんた家内の兄の孫なんだろ。俺の知る限り唯一の親族だ。委ねてもいいか」
老人は穏やかに提案した。青年は明らかに戸惑い、小さくため息をつく。頬杖の姿勢から頭を抱え、そのまま短い髪を掻きつつ眉をひそめた。
「その……ひとつは嫁さんの兄貴のモンだとして、もう一つは……オレにとっちゃ全然無関係の男のだぜ。本人に渡せよ」
「公慈の家はもぬけの殻でね。ひと月近く帰ってないらしい」
馴染み深く口にした名前は、老人と旧知の仲の男のものであった。老人の声音は哀愁に満ちている。青年は奥歯を噛み、悔しげに目を細めた。
「…………わかった。預かってやる」
青年はついに折れて、残り二通の手紙を受け取った。
自室に戻り、ベッドの上に手紙を投げてあぐらをかいた。手紙はうんともすんとも言わない。腕を組んだり唸ったりしながら、しばらくにらめっこに励んだ。二つの分厚い封筒には赤い封蝋がついている。しかし、どちらも一度誰かに剥がされたらしく、簡単に便箋を取り出せそうな状態だった。
青年は目を閉じてじっとしていたが、ようやく腹を括ると、『兄』に宛てられたほうの封筒を開けた。
◆
兄さんへ
お元気ですか。
あなたがもし生きていて、これを読んでいるならば、わたしはもうこの世にはいないのでしょう。
……これ、言ってみたかったの。よくあるでしょ。
まあ、冗談はこれくらいにして。
わたしは口下手なので、手紙で想いを伝えることにします。
いや、ほんとは伝わらなくてもいいです。ただ書きたいだけなので、ここで読むのをやめてもいいです。恥ずかしいの。捨ててください。
◆
──あまりに長い前置きに辟易して、思わず息継ぎをしてしまった。青年は枕元の手紙に視線を移す。『兄さん』への便箋はまだ何枚も続いている。
「読ませる気しかねェだろ、これ……」
呆れたように声を出しても、虚しく部屋に響くだけだ。もはや逡巡することもなく残りの便箋を広げ、黙って目を通し始めた。
◆
兄さんはずっと格好いい人でしたね。ほっそりとした体なのに喧嘩に強くて、頭もさえていて、いつでも頼りになる。今もわたしのあこがれです。
子どものころ、わたしたちの祖国は魔法の国との戦火に見舞われました。頼れる大人も失ってしまったなかで、兄さんだけはわたしを守ってくれたことを覚えています。
わたしも兄さんも生まれつき髪がまっしろだったから、避難先で不気味がられることはしょっちゅうでした。どこにも居場所がなかった。食べ物も雨をしのぐ家も満足になかった。
ある日、あなたは火の手から逃げ遅れたわたしの命を救ってくれた。
そのせいで、あなたのきれいな顔にやけどを負わせてしまった。
やっと見つけたお医者には治らないと言われた。わたしたち、美人姉妹みたいだって評判だったのに、あなたはあれから顔の片方を隠してしまった。
わたしはあの日のことを忘れられません。「気にするな」と言ってあなたが飄々としていたのが、苦しくて、でも救われた気がしたのです。
それでも、兄さんがいたから、わたしは毎日がしあわせでした。裏でお金を稼いでくれてたのも知ってます。昔は兄さん隠し事がへただったものね。
祖国を逃れてこの雪の街に来てからは、もっとしあわせでした。もちろんふるさとのことは誰にも打ち明けられなかったけれど、兄さんと秘密をふたりじめできた気がして、うれしかった気がします。
それに、たくさんの素敵なひとに出会えた。
やりがいのある仕事に打ちこめた。
結婚して、子どもも、孫もできた。何もかも兄さんがわたしの手を引いてくれたおかげです。
公慈さんに出会えたことは、わたしの人生を大きく変えました。
わたしは知っています。
兄さん、公慈さんのことが好きだったでしょう? おそろいですね。公慈さんは神さまに魂をささげたひとだから、わたしたちみたいな得体の知れないのとは結ばれないの。わたしはそれでもよかった。兄さんは……どうだったのかな。
兄さん。今、どこにいますか。
……ごめんなさい。書きながらふと思っただけです。わたしの部屋の外ではセミが鳴いています。あなたのそばはどんな季節なのかな、と思いを馳せてみました。
あなたは世界を飛び回る仕事をしていたから、いつも都合がつかず、手紙やデンワ?とかいう発明を使ってお話しましたね。晩年は手紙でしか会えないのが残念でした。
事情があるのでしょう。でも、あなたは本音をポケットのなかで握りしめて、そのままにしてしまうようなひとです。うまく黙って、わたしにも隠し通してしまうに違いありません。
結局あなたの顔を見ることはできなかったけれど、あなたのお孫さんだと名乗る男のひとにはよく助けられました。
顔立ちや背格好までそっくりだった。女神さまを彫刻したみたいなの。ぶっきらぼうだけどやさしくて、兄さんの血を継いでる感じがした。
やっぱり会いたい。
会いに来てほしいです。さいごに一度言葉を交わしたい。
そして、言いたいことがあるのです。もしそのときが来なかったら悲しいので、ここで書いてしまいたいと思います。
ほんとは血も繋がってないのに、わたしを妹だと言ってくれてありがとう。
この国では、亡くなった人を霊界の神さまが迎え入れてくれるといいます。
いつか遠い日に、黄泉の国で会いましょう。
それまでは、どうか息災で。
◆
意識を現実に戻せば、元から便箋についていた丸い水滴の染みが、新しいものに上書きされていた。滲むのは文字か自分の視界か、青年には分かりようがなかった。
服の袖で雑に顔を拭い、鼻を啜る。深呼吸を繰り返して、ぼんやりと窓の外を眺めた。雪がしんしんと降っている。この部屋には暖炉があるというのに、まるで外の寒さが家の壁を飛び越えて、この肌に刺さるかのようだった。
青年は息をつく。やがてもう一方の封筒から、乱暴に紙の束を引っ張り出した。
◆
公慈さん
手紙を送るのははじめてでしょうか。霞です。
何を書けばいいか分からないので、あなたとの日々を思い返すことにします。
あなたと出会った日のことは忘れられません。
図書館の天文学の棚で、あなたと私はたまたま同じ本を手に取ろうとしました。顔を見てびっくりしました。こんなにもきれいな女の子は初めて見た、と思いました。
白銀の髪は美しく、赤い瞳は宝石のよう。人間なのか? ビスクドールか? って思いました。私に本を譲ってくれて、礼儀正しくていい子だなあと思っていたら、後日学院の研究室で再会してびっくりしました。
猫かぶりですよね。ほんとはクールで聡明で、気難しいからちょっと近づきがたいところもある。まさに高嶺の花って感じでした。でも、たまにはお茶目で素直なのを知ってます。
しかも女の子かと思っていたら、20歳の男のひとだって言うでしょう。かわいい男の子の見た目をしているから、ギャップに驚きました。
一緒に研究に打ち込んでいると、私はあなたの知識やアイデアに惚れ込みました。弟子入りを申し出たとき、受け入れてくれて嬉しかったです。おかしなことを言ってると思われたんじゃないかって、心配でしたけど。
ああ、そのあとに、兄さんと仲良しだったって知ったんだっけ。夜の湖のほとりで出会うなんてロマンチックですよね。ごめんなさい、兄に聞いてしまいました。
思えば公慈さんは不思議なひとでしたね。
あなたはまったく老いることがなく、ずっと若いままでした。雪のように真っ白な肌はハリがあってシワひとつできなかった。顔立ちが大人びたり背が伸びたりする速さが、誰よりも遅かった。
あなたは今、15歳くらいの少年の体です。息をのむような美人になった。私は身動きもできないほど老いて、これからあなたを置き去りにしようとしています。
おかしいでしょう。昔あなたが死んだと思ったときは、あれだけ泣き暮れたのに。
あの夜、満月が傾き始めても家に帰らないと聞いて、兄さんたちと皆で冷や汗をかきました。なんと共同研究者の一人があなたに即死の毒を飲ませたと明かしたのです。
しかし、最後あなたは平気な顔をして現れた。わたし、婚約者も決まっていたのに抱きついてしまった。生きてて良かったと安堵したから。
あなたはきっと、神さまに愛されていたのでしょう。
巫女の家系の出身だし、神さまに会ったことがあるなんて噂も聞きました。わたしとは身分が違いすぎました。
あなたはわたしの初恋のひとでした。
もちろん主人のことは愛しています。でも、あなたを慕う気持ちはこの歳になっても色あせなかった。
もう時効でしょうか。隠していましたが、わたしは遠い国の戦争孤児だった。故郷には「師弟は三世」という言葉がありました。
師弟の縁は、前世、現世、来世の三世につながるような、深い因縁で結ばれている。だから、あなたと師弟になれて嬉しかったのです。
わたしはもし生まれ変わったなら、あなたのもとで生きたい。結ばれたなら、なおすばらしい。
もし生まれ変われなくても、あなたが生きていればいい。
人は二度死ぬそうです。命が尽きたときと人に忘れられたとき。
わたしが死んでも、わたしを忘れないでください。わたしを生かし続けてください。それだけが望みです。
心残りがあまりに多くて、わたしは嫌になるほどの強欲です。主人も兄もあなたも心配でしょうがない。だから、最後に幸せを祈らせてください。
それでは、さようなら。
◆
数日後、青年は町外れの屋敷を訪れた。和風の豪邸の客間で青年を迎えたのは、白銀の髪と青い目を持つ、齢十五ほどの身なりの整った少年であった。
「よう。髪切ったの。失恋かい」
まず青年が茶化すように挨拶して、片手を軽く挙げながら笑顔を作った。
「朝霧、か。趣のある名字を考えたな」
銀髪の少年は無表情のまま、尊大ともいえる態度で返事する。朝霧と呼ばれた青年はまだ無言だ。
「……彼女を看取って以来になるな。君も顔がやつれているぞ」
少年が凍った水面のような瞳をふっと伏せた。すると、『朝霧』の引きつった笑顔が悲しい色をまとって綻ぶ。
「……お前が一ヶ月もいなけりゃ、オレも寂しいンだよ」
「よく言うよ。放浪ばかりの癖して」
「仕方ねェだろ。オレにゃ定住は無理だ」
耳の痛い指摘に言い訳をして、青年は真っ白な髪をかき上げた。露わになった生え際には赤黒い火傷の痕がある。若くみずみずしい肌に似合わない、60年前の戦火の痕跡である。
「……霞は、気がついただろうか」
少年が今更のように呟く。
「そりゃねェよ」青年は笑い飛ばして一蹴した。
「あいつはあいつだ。皆が皆、お前の呪いに付き合ってられねェよ。オレみたいにな」
そうやって明るく告げても、少年の表情は凪のように変わらなかった。冷たく玲瓏な眼差しで、どこか遠くを見つめている。
青年の頭にふと手紙のことが思い浮かぶ。体中の内側がざわつくようなじれったさに苛まれ、小さく息を止めた。
──あの手紙には、追伸があったのだ。かすれたインクの震えた文字で、『公慈』宛ての手紙にだけ。
◆
この手紙は本人に渡さないでください。
ただの懐古であり、不義の昇華です。
それぞれ封が開いているのは、暇があれば読み返していたためです。
どうかお願いします。
◆
念押しを綴った紙は便箋の一番上に重ねられていた。手紙を誰かに読まれてしまうことなど、彼女にはお見通しだったのかもしれない。
だが、その真意を確かめる方法はもう無い。彼女はもういないのだから。
「いなくなろうが、僕は忘れまい」
まだ変声期を迎えていないソプラノの呟きが響いた。深く広く、あらゆるものに染み渡っていく。
「──お前宛ての手紙な」
青年の口がようやく開き、乾いたふうに告げる。
「あったけど、どっか行ったわ」
「捨てたのか?」
無感情なソプラノが小さく訊けば、白髪の若者はニカッと笑って答えた。
「さあ、どうだったかな」
彼は屋敷をあとにして、見慣れた街の景色に飛び込むように帰路についた。一面の銀世界のずっと上に広がる冬晴れに、吐いた息の白さがゆっくりと溶けていった。
終




