鋼の山賊と誓約の子
戦の果てに残ったのは、ひとりの山賊と、ひとりの赤子。
これは、「守ること」を選んだ男の話です。
剣で奪ってきた過去を捨てきれず、それでも前を向こうとした。
名誉も地位もない者が、ひとつの命を抱いて歩く話。
静かな旅路の始まりを、どうぞ。
──火の海だった。
かつて城塞都市と呼ばれたその地は、いまや崩れた石と焼け焦げた木と、血の臭いだけが残る地獄だった。
炎に焼かれ、風に晒されてなお燻る死臭の中を、一人の男が歩いていた。
身の丈を超える大剣を背に、足元の瓦礫を踏みしめるたび、音もなく崩れ落ちる骨と灰。
「……くだらねぇ。最後の最後まで、貴族どもは夢を見てやがった」
ぼやくその声には、皮肉も憐れみも、怒りさえ含まれていない。ただ、長年擦り減った鉄のように、冷たく、鈍い。
男の名はガルド。
元・山賊。元・死刑囚。
戦乱の続く西大陸にて、戦力不足に悩む王国が“恩赦と引き換え”に徴兵した“外道枠”の一人だった。
その日、王都が陥落した。
精鋭の騎士団も、誇り高き王族も、声高に戦勝を叫んでいた将軍たちも──皆、死んだ。
そして、ガルドは生き残った。
「──ああ、クソが」
瓦礫を蹴飛ばす。だが、その向こうから微かな音がした。
泣き声だった。
誰もいないはずの死の街で、それは確かに響いた。
ガルドは眉をしかめると、背から大剣を抜いた。刃は、長く、重く、無骨で、だが手に馴染んでいた。
「まだ生き残りがいたか。──いや、赤子か?」
声のする方へと歩く。焼け落ちた塔の影、崩れかけた小礼拝堂の奥。
そこに、ひとり──
焼け焦げた絨毯の上に、金糸を織った布に包まれた、幼子がいた。
「……」
その光景を前に、ガルドは一歩、また一歩と近づいた。
泣き声は弱々しく、それでも生きる意志だけは捨てていなかった。
ガルドがしゃがみ込み、布をめくる。そこに見えたのは、血のついた赤子の額と──
その額に、確かに刻まれた、王家の紋章だった。
「おいおい……嘘だろうが」
思わず吐き捨てる。
こんな瓦礫の中に、王の血を引く子供が、まだ生きていた。
そう思ったとき──
「……おまえか……」
背後から、掠れた声が聞こえた。
反射的に振り返る。
瓦礫の山の下に、ひとりの老人が、潰れた鎧に身を包んだままうつ伏せになっていた。
それは、ガルドがかつて遠目に見たことのある姿──
かつての王、その人だった。
「貴様……山の……あれを……守ってくれ……頼む……」
老いた王は、掠れた声でそう言った。
「……この子を……生かしてくれ……この国の火は、まだ……消してはならぬ……」
握られた手が、わずかに震える。
そこに込められていたのは、王族としての矜持でも、血の誇りでもなかった。
ただの──親としての祈りだった。
ガルドは、黙って王の手を取り、その手が力を失うのを見届けた。
その後、王の亡骸を一瞥し、彼は幼子を抱き上げる。
腕の中で、ようやく泣き止んだ王子は、小さく息をついていた。
「……ああ、もう関係ねぇ。山賊も、戦争も、王も──みんな終わった」
それでも、とガルドは呟く。
「けど、このガキだけは……こいつだけは、死なせねぇ」
風が吹いた。
遠くで、敵軍の残党が野営を始める火の気配が見えた。
──そして、彼らの旅が始まった。
* * *
夜が明けることはなかった。
灰と煤で覆われた空は、朝を拒むように鈍く淀んでいた。
空のどこにも、光はなかった。
王都エルネスの外縁。
焼けた林を抜け、石畳の旧道を踏みしめる足音があった。
鋼鉄を打ち鳴らすように重く。
ガルドは、左腕に幼子を抱えたまま、右手で背負った大剣の柄を支えていた。
その歩みに迷いはなかった。
だが、歩くごとに、心のどこかがひび割れていくような感覚があった。
「……やれやれ。こうも静かだと、逆に気持ち悪ぃな」
誰に言うでもない独白。
だが、胸の中では確かに何かが芽吹いていた。
それが“誓い”という名にふさわしいものかどうかは、まだわからなかった。
ふと、腕の中の子が微かに動いた。
目を覚ましたのか、小さな瞳がこちらを見上げていた。
不思議そうに、けれどどこか怯えるように。
「……泣かねぇのか。えらいもんだな」
そう呟いたガルドは、自分でも驚いていた。
かつて奪い、壊し、命を弄んだこの手で、いま一人の命を抱えている。
それは、あまりにも異質な光景だった。
「そういえば、名前……あったか」
そう言って、懐に仕舞っていた王家の布をもう一度開く。
その端に、小さく、しかし金糸で刺繍された一文があった。
> 《アルセリオ・レヴァンティス》
「アルセリオ……。どこかの英雄の名か?」
ぼそりと呟き、また顔を見下ろす。
「長ぇな。……“セリ”でいいか」
子は何も言わない。
だがその頬に、ほんのわずか、笑みに似た緩みが浮かんだ。
ガルドは鼻を鳴らす。
「……ったく、まるで子守かよ。似合わねぇ」
しかしその声に、自嘲や嫌悪はなかった。
風が吹いた。
枯れ木の間を抜け、焦げた大地の匂いを連れてくる。
その風に乗って、わずかに騒がしい気配が届いた。
「……人の声、か」
ガルドは歩みを止める。
左手で布を直し、セリの顔が隠れるように包み込む。
そして、右手を背に回し、大剣の柄に指をかけた。
街道の先、森の切れ間。
そこに、三人ほどの人影が見えた。
──火の気配はない。物音は控えめ。
だが、見れば見るほど、ただの旅人には見えなかった。
ガルドは、低く息を吐いた。
「さて……」
声もなく、静かに構える。
セリの寝息が、そっと腕に触れていた。
「……“護る”ってのは、こういうことかよ。面倒なもんだな」
次の瞬間、人影の一人がこちらを見つけた。
剣を抜きかけたそいつの肩に、別の男が手をかけ、制止するのが見える。
遠目に交わされる言葉の内容はわからない。
だが──
視線の端で、彼らの腰にかかる印章が、うっすらと光った。
──敵軍の斥候部隊。
剣を引き抜く音が、大地に響いた。
ガルドは、大剣を構える。
赤子を抱えたまま、鋼の男は立ち塞がる。
かつては“外道”と呼ばれた男が、今や一人の子の命を守るために、剣を抜く。
──それが、彼の“誓い”の始まりだった。
* * *
森がざわめいた。
焦げた木々の隙間から、濁った灰色の空がのぞく。
風が湿っている。血と、泥と、まだ冷めぬ焔の残り香を孕んでいた。
「……そいつを手放せ」
先に口を開いたのは、三人組の中央──痩せた顔に青い刺青を刻んだ男だった。
声に威圧はなく、どこか事務的ですらある。
だがその視線は、獣のように獲物を見定めていた。
ガルドは応えなかった。
腕の中でセリが眠っている。
小さな顔に煤がついているのを、親指でそっとぬぐった。
「聞こえなかったか?」
痩せ男が再度声を張った。
背後の二人が剣を抜きかける気配が、空気を刺す。
ガルドは、ようやく口を開いた。
「……寝てんだ。起こすな」
ただ、それだけだった。
沈黙が、道を挟んで張り詰める。
「……ああ。なるほどな」
痩せ男が鼻を鳴らした。
「そいつが“残り香”か。王家の血が混ざってる匂いがする。……報酬が楽しみだ」
言いながら、一歩前へと進み出る。
だがその瞬間──
ガルドが、足元の小石を踏み砕いた。
重い音とともに、彼の背から大剣が抜かれる。
その刃は灰に濡れ、鈍色に輝く。
陽はないが、そこにあったのは確かな“殺意”の光だった。
「三人か。剣が一本。弓が一本。……あとは小手の毒針」
ガルドの声は、静かだった。
脅しでも、虚勢でもない。ただ、観察と理解。
「だったら──まず、弓だな」
次の瞬間、風が裂けた。
ガルドの足が地を蹴り、瞬く間に距離が縮まる。
驚いた弓兵が反射的に矢を構えるが、その動作が終わる前に、ガルドの肩がぶつかり、骨の軋む音が響いた。
「ぐあ──ッ!」
弓兵が吹き飛び、木の幹に激突して沈黙する。
大剣は振られていない。ただ、その“質量”だけで。
「っ、この野郎……!」
もう一人が剣を抜き、走り込んでくる。
細身の刃。急所を狙う踏み込み。
ガルドはそれを、大剣の側面で受け流した。
金属がこすれる甲高い音。小太刀が跳ね上がる。
その隙を逃さず、膝を入れた。
「──がっ!」
膝が腹にめり込み、男が膝から崩れ落ちる。
容赦も、慈悲もない。だが、それは殺しではなかった。あくまで“排除”。
残る一人、痩せ男だけが、その場から動かずにいた。
目を細め、にやりと笑う。
「なるほどな。噂は本当だったか。
“王都陥落でただ一人生き残った外道”。
ガルド。──あんた、生きてたんだな」
その名が呼ばれても、ガルドは動じない。
ただ一歩、前へ出る。
「もう一つ言っとく。今の俺にとって──」
大剣を構える姿勢。背には眠る幼子。
「お前らみたいな連中の“命”より、この子一人の寝顔の方が重ぇんだよ」
その声に、痩せ男が笑みを引っ込めた。
数瞬の静寂。空の鳥すら鳴かない。
そして、男は静かに後退りした。
「……なるほど。納得した。こりゃ、あんたにゃ勝てねぇわ」
肩をすくめ、倒れた仲間を引きずるように森の中へと姿を消していく。
ガルドは、まだ油断を解かない。
しばらくその場に立ち尽くし、風の音と足音が途絶えるのを待った。
やがて、確信する。
誰もいない。
──誰一人として、今この子の命を奪おうとする者は、ここにはいない。
彼はゆっくりと大剣を背に収めた。
腕の中のセリが、夢うつつのように、小さく身じろぎした。
「……悪ぃな。起こしちまったか」
誰にも聞かせる必要のないその言葉に、ほんのわずかな安堵が滲んでいた。
* * *
陽が沈む。
それは、かろうじて空に残っていた赤みすら、闇へと引きずり込む合図だった。
ガルドは焚き火を見つめていた。
薪のはぜる音が、沈黙の闇にぽつりぽつりと弾ける。
その光に照らされて、セリの小さな顔がわずかに赤く染まっていた。
──その村は、王都の廃墟から半日の距離にある農村だった。
戦の煙を遠くに望むだけの、名もなき土地。
だが、数軒の屋根と囲いのある納屋が残っており、子連れで身を寄せるには最適だった。
「……あの、よければ……」
控えめに声をかけてきたのは、十代半ばと思しき少女だった。
干し肉と芋を、粗末な布に包んで手渡してくる。
「少ないですが、赤ちゃんに……何か食べさせてあげてください」
ガルドはその手を見つめた。
震えていた。けれど、その目に怯えはなかった。
「……あんたのか?」
「はい。弟です。私たちも、両親を……」
言葉は続かない。
だが、それだけで十分だった。
ガルドは無言で受け取り、礼の代わりに火を少し強めた。
ほのかに温かい芋の匂いが、夜気に溶ける。
セリが小さな手を伸ばす。
布の中の食べ物を、きょとんと見つめる目が、まだ世界を知らぬ子供のそれだった。
「こいつにゃ……まだ、早いかもな」
ぼそりとつぶやき、芋を潰して、少しだけ水で伸ばす。
少しだけ、ほんの少しだけ、セリが口を動かした。
「……ああ、えらいえらい。……ったく」
不器用な手つきの子守。
だがその一挙一動には、誰にも見せたことのない“やさしさ”が宿っていた。
それを見ていた少女が、ふっと微笑んだ。
「……あなた、山賊って聞いたけど……本当ですか?」
火を挟んで、ふと洩れた問い。
ガルドは動きを止め、数瞬の沈黙ののちに言った。
「……ああ。だがもう“元”だ」
少女は首をかしげる。
その瞳に映るのは、得体の知れぬ危険ではなく、理解しきれない存在への戸惑いだった。
「人を殺したことも、あるんですよね?」
「ある」
「物を盗んだり、焼いたりも?」
「ああ。……幾度も、な」
火がぱちりと音を立てた。
「……けど、こいつはまだなにもしてねぇ」
そう言った時のガルドの目には、どこか自嘲に近い“痛み”が滲んでいた。
「それを否定する資格が、俺にあるとは思っちゃいねぇ。だが──」
そこで、ガルドはセリの小さな指を握りしめる。
「せめて、こいつの未来ぐらいは……まっとうに守ってやりたいと思ってる」
少女は目を伏せ、ぽつりとこぼした。
「……そう思える人なら、山賊なんかにならないでほしかった」
それに対して、ガルドは応えなかった。
応えられなかったのかもしれない。
ただ黙って、薪をもう一本火にくべた。
夜は深く、静かに降りてきた。
焚き火の明かりがぼうっと揺れて、あたりをわずかに照らしていた。
だが、そのわずかな明かりが、ある男の影を照らすのもまた──ほんの少し先のことだった。
「……すまねぇ。あんたの首にゃ、金が懸かってるんでな」
闇の奥から、鋭い声がした。
とっさに反応したガルドが立ち上がるより早く、何かが飛び込んできた。
──煙玉。
白煙が爆ぜ、視界が覆われる。
「クソッ、裏切りか……!」
ガルドはセリを胸に抱え込み、背を向けて身を伏せた。
火は倒され、燃えた布が空に舞う。
炎の明滅の中、複数の足音が迫る。
──刃の音。
──鎖の擦れる音。
──踏み鳴らされる土。
混乱の中、ガルドの瞳に怒りが灯る。
「……このガキを傷つけたら、誰であれ容赦しねぇ」
煙が晴れる。
その中に現れたのは──仮面をつけた黒衣の男たち。
そして、その中心に──あの少女の顔があった。
伏し目がちで、何も言わない。
だが、その足元に転がる金貨の袋が、すべてを物語っていた。
* * *
風が変わった。
村の空気が、さきほどまでとは違っていた。
湿り気を帯びていた夜気が、急速に乾き始める。
それは、火が放たれた証だった。
「──っち。火をつけたか」
ガルドは煙の中で唸る。
背中に、大剣の重みと幼子の温もり。
片手だけでは、あの剣を振るうには不自由だ。
だが両手を使えば、セリを地に置くことになる。
それは――絶対に、ありえない。
「狭い道に火を回せ! 奴はすぐには逃げられん!」
黒衣の仮面たちの声が、どこか浮足立っていた。
斥候以上の数。
焚き火の明かりが途切れた今、敵の動きは読みにくい。
だが、ガルドの足は止まらなかった。
軒を蹴る。
囲いを飛び越える。
納屋の陰に身を滑らせながら、目と耳を研ぎ澄ます。
背後で火が跳ねる。
燃えた藁が、火の粉となって宙に舞った。
それが、まるで血の花のように――夜空を染めていた。
「……そこまでやるってのかよ、ったく」
ガルドは低く唸ると、セリを布で包み込み、胸にしっかりと固定した。
「お前は寝てろ。今だけな」
小さくそう囁いた声には、戦士の殺気ではなく、父のような静けさがあった。
敵の気配が、一つ、また一つと迫ってくる。
耳元に感じるほどの距離だ。
――気配が、止まる。
隙ありと踏んだのだろう、仮面の一人が納屋の裏に飛び込んできた。
しかしその瞬間――
「甘ぇよ」
ガルドの膝が地を裂くように打ち込まれた。
仮面の男が喉を潰され、呻く声もなく地に崩れ落ちる。
「二人目が来る。足音でわかる」
即座に体を回転させ、大剣を抜かず、柄の重みで別の敵の顎を撃ち上げた。
金属と骨のぶつかる鈍い音。
歯が砕け、叫びもなく仮面が転がる。
だが――
「“三人目”が、音を立てねぇタイプか。なるほどな」
背後から迫る殺気。
反射的に身を翻し、火の粉の中に刃が光る。
弧を描くような短剣。
それをギリギリで受け止めたガルドの大剣の柄が、鈍い火花を散らした。
「へぇ……さすがってとこかよ、ガルド」
男の声がした。
仮面をつけていない。黒衣のフードを外し、そこに現れたのは、血塗れの鎧を着た長身の男。
鋭い目。切り揃えられた顎髭。そして、左目に走る深い傷痕。
「……見覚えがあるぜ。あんた、騎士団にいなかったか?」
ガルドは睨んだ。
その顔に、うっすらと記憶が残っていた。
「……ヴェルン。王の弟……だったか?」
「いや、“元”だよ。あの方が死んだあの日、俺の忠義も死んだ」
ヴェルンの声に、熱はなかった。
ただ乾いていた。あまりにも、静かに。
「……報酬か? この子を売って、またどっかで生きるってわけか?」
「違うな」
そう言って、ヴェルンは一歩、前に出た。
「俺は、この国が滅んだ日、王の意志を否定した。
……それでも、血だけが生き残ったとあっては、俺の“裏切り”が報われねぇ」
刃を構えるその手は、微かに震えていた。
忠義を棄てた男が、なお過去を背負っている証だった。
「その子が生きてる限り、俺はずっと“王の犬”だった過去に呪われる。
だから――斬らせてもらう」
夜風が吹いた。
焔に煽られ、納屋の屋根が崩れ落ちた。
赤く照らされた二人の男の影が、対峙する。
一人はかつての騎士。
一人はかつての山賊。
だが今はどちらも、己の過去に引きずられた“亡者”にすぎなかった。
ガルドは、セリの重みを胸に感じながら呟いた。
「俺はもう、誰かの命を奪う剣じゃねぇ。……こいつの命を、守るための刃だ」
──鋼の誓いが、刃の先に灯る。
* * *
炎は静かに、しかし確かに広がっていた。
納屋の屋根が崩れ、焔が舞い上がる。
火の粉が夜空へと吸い込まれ、星の見えない空に、一時の煌めきを生み出していた。
その赤い光に照らされて、二人の男が対峙する。
一人は、漆黒の外套を纏う裏切りの騎士――ヴェルン。
一人は、亡国の王子を抱く元山賊――ガルド。
風はなかった。
それゆえに、煙は地にとどまり、視界を鈍らせる。
肌に刺す熱と、鼻を突く煤の匂いが、命の際にいることを否応なく思い知らせた。
「……なぁ、ガルド」
ヴェルンが口を開いた。
「その子を“守る”と言ったな。
だが……守るってのは、どういうことだ?
未来を与えることか? 死なせないことか? 痛みを遠ざけることか?」
その声音に、怒気も高揚もない。
ただ、深く沈んだ哀しみのような響きがあった。
ガルドは答えず、胸に抱いた幼子の額をそっと手で覆った。
眠ったままのその小さな顔に、焔の色がちらちらと反射している。
「どれでもいい。どれか一つでもできりゃ十分だ」
短く、低く、吐くように言って、ガルドは歩を進める。
鉄を引きずるような足取り。
大剣を抜いた音は、焔の中でさえ異質に響いた。
「この刃は、お前を討つためにあるんじゃねぇ」
「なら、なぜ抜く」
「こいつを“失わねぇ”ためだ」
ヴェルンの目が細まる。
「……英雄面、するような男じゃなかったはずだ。お前は、もっと汚く、ずる賢かった」
「そうだったな」
「奪い、脅し、笑って殺していた」
「その通りだ」
「──なぜ、今さら変わる」
問いに、ガルドは答えない。
ただ、大剣を構えたまま、ひとつ、深く息を吐いた。
答えなど、もとよりないのかもしれない。
けれど、それでも譲れないものができたのだ。
「……こいつが、あの瓦礫の中で泣いてた」
静かな声だった。
「泣き声が……妙に響いた。
あの地獄で、まだ生きようとする声が、ただ、俺の中に残った」
「それだけで……?」
「それだけで、十分だった」
言葉が途切れる。
焔が、ぱち、と音を立てる。
風のない夜のなか、その音が妙に大きく響いた。
「……お前も、そうだったのかもしれねぇな」
ふいに、ヴェルンが呟いた。
「俺もかつて、王の背中に、何かを見た気がした。……けれど、もう思い出せない。
戦場で何を誓ったかすら、曖昧になってやがる」
かつん、と石を蹴る音。
ヴェルンの体が、静かに沈む。
鋼の細身剣が、抜かれる音すら静かだった。
「……いいだろう。ならば、“今”を見せてもらおうか。
お前の刃が、“何のため”にあるのか」
言い終えぬうちに――踏み込む。
ヴェルンの一歩は速い。
戦場を生きた者だけが持つ、無駄のない足運びだった。
ガルドは、大剣を横に払い、受け止める。
火花が散る。金属音が轟く。
セリを庇う姿勢のまま、体をひねり、重さで押し返す。
「悪ぃな、ちょっとだけ……“意地”を通させてもらうぜ」
力と技術。信念と過去。
交差する刃は、夜の中で鋼の叫びを上げた。
* * *
刃と刃が交わる音は、鐘のようだった。
甲高く、重く、空気を震わせるようにして響き、
燃えさかる納屋の火音すら一瞬かき消してしまうほどだった。
「っ……!」
ヴェルンの足がわずかに後退した。
ガルドの一撃――それは重さだけで押し切る力だった。
しかし、その“重さ”を真っ向から受け止めながら、ヴェルンは笑っていた。
「やはり、お前の剣は……鈍くない。けれど、荒いな」
「上等だろ。俺は“戦士”じゃねぇ。元はただの……喰いっぱぐれた野良だ」
ガルドの息は乱れない。
右手に握られた大剣は、重力を無視するかのようにぶれず、まっすぐに構えられている。
左腕には、布でくるまれたままのセリ。
その重さが、彼の中心を引き留めていた。
「……まだ、その子を抱えたままでやるつもりか」
ヴェルンが問う。
「当たり前だ」
ガルドの声は低く、揺るぎなかった。
「こいつを置いて、戦う“意味”なんざあるかよ」
それは、剣戟よりも強い言葉だった。
ヴェルンの目が、一瞬だけ揺れたのを、ガルドは見逃さなかった。
「お前……変わったな」
「かもな。だが変わったのは……“俺”じゃねぇよ」
「……なんだと?」
「俺は昔から、ただの強ぇやつに憧れてただけだ。
生きるために奪って、盗んで、殺して……それが強さだと信じてた。
けど今、こいつの命を抱えて思った――」
そこでガルドは、火を背に、そっと視線を落とした。
セリはまだ眠っていた。
けれど、彼の心は確かに、この子に“目覚めさせられた”のだ。
「本当に強ぇのは、“護る”やつだ。
誰かを守るってことは、過去も、信念も、時に自分自身すら折ってみせるってことだ。
それが……一番、重てぇんだ」
ヴェルンは、黙ってそれを聞いていた。
口を開かぬまま、ただ目を伏せ――
次の瞬間、まるで思考を遮るように、踏み込んだ。
「ならば、“それ”を折ってみせろ!」
斬撃。
鋭い、研ぎ澄まされた“騎士の一撃”が、ガルドの左を狙う。
子を抱える腕。弱点――と、誰もが思う場所。
だが、その刹那――
「……やっぱり、そこ狙うよな」
ガルドが低く呟いた声と共に、地を蹴る音。
重い剣を体の内側から回し、柄尻でヴェルンの肘を撃つ。
カン、と骨の音がして、刃の軌道が逸れた。
「っ……! クソッ……!」
「甘ぇよ、騎士様。そっちは、“命”が宿ってんだ。俺が一番意識してる場所を、よくもまあ狙えたな」
ヴェルンは呻きながら距離を取る。
ガルドも追わない。
ただゆっくりと、重心を整え、また剣を構え直す。
焔の音が、ふたりの間を埋めた。
崩れかけた納屋が、ぴしりと音を立てる。
「お前は……“ただの山賊”じゃ、なくなったな」
ヴェルンがぽつりと呟く。
その声に、怒気も、皮肉も、もはやなかった。
「……かもな。けど、それはこいつが……“俺を変えた”んだ」
その言葉に、ヴェルンは目を細める。
「……変われると思うか? 人は。お前みたいに」
「思ってねぇよ」
即答だった。
「思ってねぇから、こうして剣を握ってる。……変わっちまった自分を証明するためにな」
ヴェルンは笑った。
それは、諦念でも皮肉でもない、どこか懐かしい、柔らかな笑みだった。
「……なら、もう一度、賭けてみるか」
次の一撃は、互いの信念を問うものとなる。
騎士の矜持と、山賊の誓い――
守る者と、断ち切る者。
焔の只中、二つの刃が、ふたたび交わる。
* * *
風が変わった。
燃え残る納屋の骨組みが、ゆっくりと音を立てて崩れ落ちる。
火の粉が宙を舞い、赤く染まった空に吸い込まれていく。
焔の音、瓦の崩れる音、土の焦げる匂い。
すべてが戦場の鼓動となり、二人の男を中心にして収束していく。
ヴェルンが踏み込んだ。
その一歩は、かつて騎士団筆頭と謳われた者の矜持そのものだった。
鋭く、無駄のない軌道。
だが、その奥に潜むのは“怒り”ではなく、“決意”だった。
「──!」
ガルドは、正面から受けた。
大剣と細身の剣が火花を散らし、互いの腕に、骨に、反動が走る。
ヴェルンの刃は、確かに“殺す”ためのものではなかった。
“試す”ための一撃。
「お前の刃が、本物かどうか。
……この命を賭けて、見極めてやる」
静かな声が響く。
火の揺らめきが、ヴェルンの横顔にかかり、
その瞳の奥に宿るのは、どこか救いを求めるような、悲しげな光だった。
「貴様……“王の弟”だったな」
ガルドの声もまた、低く絞られていた。
「なら、あの子の伯父だ。
……なんで、殺すなんて言えるんだ。あんたにこそ、護る資格があったはずだろう」
ヴェルンの目が揺れる。
刃が、わずかに止まる。
「護れなかった。俺はあの日、……逃げた。
陛下を、王妃を、騎士団を、民を、何もかも残して──
生き延びたのは、ただの臆病者だった」
言葉の端が、震えていた。
「生き残った俺に、何を守れる?
この手はもう……ただ、王家の亡霊を引きずるだけだ」
その瞬間、刃が深く踏み込む。
呼吸と同時に放たれた突き。
──ガルドの肩に、刃先がかすった。
血が、にじむ。
だが、それでも。
その瞬間に、ガルドは見たのだ。
ヴェルンの剣に込められたのは、“怒り”ではない。
“断罪”でもない。
それは――“許しを求める祈り”だった。
「……ああ、そうかよ」
ガルドは、低く、かすれた声で言った。
「なら、あんたの祈りごと、俺が受け止めてやる」
その言葉と同時に、大剣が閃いた。
それは、力任せの一撃ではない。
流れるような踏み込み、最小の動きで最大の重みを乗せた斬撃。
「────っ!」
ヴェルンの剣が弾かれた。
斜めに、大きく軌道が崩れる。
そこへ、ガルドの膝が入る。
鳩尾に深く、鋭く。
ヴェルンの体が、よろける。
呼吸が詰まり、膝が地に落ちる。
だが、ガルドは剣を振り下ろさなかった。
刃を止めたのだ。
ぎりぎりのところで。
「殺せ……ないのか」
膝をついたまま、ヴェルンが問う。
「……いや、そうじゃねぇ」
ガルドは、大剣を引いた。
「こいつが見てる。今は寝てるが、……この子は、きっと覚えてる」
風が吹いた。
火の粉を払うように。
灰が、二人の間を舞う。
「だから、俺は“護る”ためだけに剣を振るう。
あんたを殺したら、……その言葉、嘘になる」
沈黙。
だがそれは、敗者の恥ではなかった。
ヴェルンは、ゆっくりと仰向けに倒れ、
空を見上げた。
「……夜が、明けるのか。……情けないな。死に場所くらい、自分で選びたかったが」
「……生きろよ。あんたの刃には、まだやることがある」
ヴェルンの目が、わずかに見開かれた。
それは、炎よりも熱く、
血よりも静かな、“赦し”の言葉だった。
* * *
空が白んでいた。
まるで誰にも気づかれぬように、夜が密やかに後退してゆく。
灰色の雲がゆっくりとほどけ、薄い光が地平の果てから差し始めていた。
それは、燃え残った村をゆっくりと包みこみ、
砕けた屋根や煤けた畑に、静かな輪郭を与えていく。
焔は、もうほとんど鎮まっていた。
崩れた納屋の残骸から、白い煙がゆるやかに昇っている。
熱の残滓はあれど、それはもはや“脅威”ではなく、ただの“終わり”の匂いだった。
ガルドは、瓦礫の傍に膝をついていた。
肩口の傷には布が巻かれ、血がじわりとにじんでいる。
だが、その目は静かだった。
左腕には、眠ったままのセリ。
夜を越え、戦を越えてもなお、彼はこの命を手放さなかった。
そのぬくもりは、剣でも鎧でもなく――
ガルドにとって、はじめて“守るべきもの”の重さだった。
「……なんで、こんなもんを拾っちまったんだか」
ぽつりと、誰に聞かせるでもなく呟いた声は、やけに穏やかだった。
夜の静けさが、まだその辺りに残っていた。
遠くの草むらで、小鳥が一声鳴いた。
「……火を点けたのは、俺じゃないんだ」
かすれた声が背後から返ってきた。
振り向くと、ヴェルンが、朽ちた柱に体を預けて座っていた。
剣は遠くに転がり、鎧は割れ、肩には焼けた痕。
だが彼は、まるでそれを気に留める様子もなく、空を見上げていた。
「最初に村を囲んだのは、俺の指示じゃなかった。……残党の一部が、先走ったらしい。
……すまなかったな。子供たちや、女の子も……あのまま逃げただろうか」
「さあな」
ガルドは、遠くの畦道を見る。
朝靄の向こうに、小さな足跡がいくつも残っていた。
「だが、生きてりゃ、また選べる」
ヴェルンが、視線をこちらに戻す。
その目に浮かぶのは、どこか子供のような、素朴な問いだった。
「……何を?」
「道をさ。もう一度、“どう生きるか”を選び直せる」
ヴェルンはしばらく黙っていた。
その横顔に、騎士としての威厳も、誇りも、罪の重さも、すべてが静かに溶けていく。
「……なら、お前はどうする。王子を連れて、どう生きる」
ガルドは、腕の中のセリをそっと見下ろす。
その小さな呼吸に、確かに“未来”があるのを感じながら――
「この子が大きくなるまで、生き延びる。
誰に何と言われようと、“王の血”じゃなく、“一人の人間”として育てる。
できる限り……戦のねぇところで」
「……それは、難しい道だぞ」
「知ってる。だが“もう一度選ぶ”ってのは、そういうもんだろ」
ヴェルンは肩で笑った。
それは、どこか懐かしさすら含んだ笑いだった。
「……名前は?」
「セリだ」
「……いい名だな」
朝日が、ようやく村の屋根に届いた。
柔らかな橙色が、焦げた壁に、あたらしい影を刻んでいた。
それは、終焉の影ではなく、始まりの予兆。
「行け。……お前は、まだ“行ける”」
ヴェルンが、ふらつきながらも立ち上がった。
その背に残る傷痕を、ガルドは見送った。
「……死ぬなよ」
「そっちもな」
短く交わされた言葉が、夜の名残を静かに断ち切った。
朝の風が吹いた。
煤を運び去り、夜の痕跡を洗い流すように。
その中を――
ガルドは、セリを抱いて、歩き始めた。
どこへ続くかはわからない。
だが、確かに“進む道”だった。
* * *
朝靄はすでに晴れていた。
野を渡る風が、草を撫でていく。
まだ冷たさの残る空気が、夜の焦げ跡を洗い流すように、村を静かに吹き抜けていた。
瓦礫の合間に咲いた、名もなき草花が、陽に揺れている。
そこには確かに“生”の気配があった。
ガルドは、緩やかな坂道を上っていた。
背には大剣。腕には幼子。
その姿は、戦士でも、護衛でもない。
ただ、“一人の旅の父”のようだった。
道は狭く、踏みならされた獣道のような小径。
足元には小石と枯れ枝が散らばり、朝露に濡れた土がやや滑る。
それでも、ガルドの足取りは確かだった。
「……なあ、セリ」
ぽつりと声をかける。
腕の中の小さな命は、半ば目を覚ましたようで、うっすらとまぶたを開いていた。
焦点の合わない瞳で、ただ静かに、世界を見ていた。
「お前の親父は、立派な王だった。
……だが俺は、そうじゃねぇ。国なんか、作れねぇ」
言いながら、遠くに見える丘の上を見やる。
その先に、一本だけ立つ枯れ木があった。
葉は落ち、枝も折れていたが、しっかりと根を張り、そこに立っていた。
「けど……」
足を止める。
セリの額に手を当てて、そっと言葉を紡いだ。
「俺にできるのは、“お前を生かす”ことだ。
道を選べるくらいには、強くしてやる。
自分で歩けるようになるまで、俺が支える。
泣いてもいい。転んでもいい。
だけど……絶対に、お前を“孤独”にはさせねぇ」
風が吹いた。
草が、さらさらと鳴る。
朝露の匂いが、命の匂いに変わっていた。
「……わからないか。そりゃそうだな」
ガルドは自嘲気味に笑った。
けれどその笑いは、どこか柔らかかった。
セリが、ふいに小さな指を伸ばした。
それが、ガルドの顎髭に触れた。
くすぐったそうに、彼は目を細めた。
「お……なんだ。触っていいもんじゃねぇが、まぁ、今だけだ」
ひとときの静けさがあった。
あまりにも穏やかで、まるで世界が一度だけ息を止めたかのような、そんな時間だった。
そして、歩き出す。
踏みしめる土。
かすかに残る野鳥のさえずり。
どこかの村へ続く、見知らぬ道。
この先、何があるかはわからない。
追手も、戦も、苦難も、きっと待っている。
だが――それでも。
「……お前が笑って、生きてくれりゃ、それでいい」
それが、元山賊の鋼の誓いだった。
名誉でも、勲章でもない。
ただ、“生き残った”者としての、ひとつの願い。
旅は、始まったばかりだった。
焦げた村のその先に、朝日はもう、静かに射していた。
──鋼の山賊と、誓約の子。
その名もなきふたりの物語は、まだ誰にも知られていない。
だが、確かに世界のどこかで、今日も歩いている。
守るために、信じるために、生きるために。
そして、いつか。
“誓い”が、本当に“未来”になるその日まで――
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
泥臭いファンタジー物かつ、子連れ狼的なお話が書きたかったのでできたお話。
静かな決意や、火の中に灯る祈りを、少しでも感じていただけたなら幸いです。
ではでは。