第四話 空虚な人生
夫の失踪から9年、気づけば私は40歳になっていた。
二度も夫の気持ちを踏みにじり、両親からも呆れられながら過ごした時間。
後悔は今更でしかなく、謝罪の言葉すら届けられない。
私は5年前から手紙を書き始めた。
宛先は夫の両親。
最初の1年は突き返されたが、どうしても謝罪がしたくて、何度も何度も書いた。
弁護士から止めるよう連絡が来た。
その事を知った両親からも責められたが、どうしても止められなかった。
2年が過ぎた頃、初めて義両親から返事が返って来た。
[もう謝罪は要らない。
息子は心が壊れてしまった。
それでも、ようやく立ち直りつつあるから、そっとしておいて欲しい]
そんな内容だった。
『まだ…あの人は…』
夫の心が壊れたままなのを知り、自らの愚行に泣いた。
両親は夫がどこで、どういった暮らしをしているか把握している様だったが、私には一切教えてくれない。
『お前は知る資格がないんだ』
お父さんが悲しそうに言った。
『それより自分の人生を考えなさい』
お母さんの言葉は、人生をやり直し、新しい家庭なりを築いて欲しいのだと分かった。
周りの親族に急かされ、無理矢理見合いもさせられたが、どうしても先に進む気にならなかった。
手紙は数ヶ月に一度、今も続けている。
謝罪の言葉と、最近の息子を写した写真。
義父母にとって息子は今も孫なんだと分かって欲しかった。
返事は殆ど返って来ないが、それでいい。
これだけが夫との繋がりだから。
息子は14歳になった。
今は中学から、私の住む家を離れ、両親の実家から学校に通っている。
私立の中高一貫校に通う息子は、この家より、実家のほうが近いから。
私は9年前から再び仕事を始めた。
パートから5年前、正社員に。
給料は正直余りよくないが、それなりに暮らしていけたら、それでいい。
息子の学費やお小遣いは、そこから両親に渡している。
両親に甘えてばかりでは、いけない。
息子は夫の記憶が余り残っていない。
3歳の時から息子は実家で過ごす事が増えて、その2年後に夫が失踪してしまった。
つまり再構築にかまけて、私は息子と夫との時間すらも奪っていた事になる。
そして今も1人、私はこの家に住んでいる。
もう私以外、誰も居ない我が家。
夫の物は殆ど残っていない。
ずっと愛用していた車も、自転車も釣り道具も。
何もかもが、幻のように消え失せてしまった。
私との思い出、結婚生活そのものが幻影だったかのよう。
両親には家を処分するよう何度も言われた。
ここに住んでいたところで、夫は二度とここに帰って来ないと。
そんな事は分かっている。
しかし、この家は夫と二人で力を合わせて買った物。
夢を語り合い、素晴らしい未来に胸を膨らませていた、あの頃の記憶が、どうしても私をここを離れられなくさせていた。
それなのに、私はどうして不倫をしたのだろう?
寂しかったとか、相手の手口がどうだったとか、そんな事は言い訳にもならない。
浮気をした時点で私は救いようがないクズ人間だったという事だけなのだ。
浮気をしていたあの時間は、今考えても、狂っていたとしか言いようがない。
そんな事を言っている内は、本当の反省が出来てないと分かっている。
男に踊らされ、浮気がバレても尚、私はあいつを庇う発言をした。
そして再構築中だったのに、男と連絡を取り合っていたのだ。
夫の心が壊れてしまったのは当然なのに、そんな事すら当時の私は分からなかった。
奴のその後は知りたくもなかったが、私が以前勤めていた会社の元同僚が教えてくれた。
アイツまた既婚女性に擦り寄り、浮気を持ち掛けた。
しかし、今回狙われた女性は誘いに乗らず、奴が言い寄る様子を証拠として残し、会社に報告をして徹底的な追い込みを掛けたそうだ。
『バカよね、一回上手く行ったからって』
『そうね…』
楽しそうに彼女は言った。
その言葉は、まんまと奴の誘いに乗った私に対する侮蔑だと分かっていた。
奴は会社での立場を失い、地方へ左遷と決まった。
会社も二度目は庇いきれなかったのだ。
左遷先でも向けられる白い目に堪えきれず、あいつは結局会社を辞めた。
再就職も上手く行かず、酒浸りの生活を送っていると、知りたくも無いのに、教えられた。
そして一度だけ、私の家に押しかけて来た事があった。
『史佳頼む、俺と一緒に…』
ボロボロに窶れた姿に虫唾が走った。
当然だが追い出す私に奴は叫んだ。
『ふざけるな!
お前が俺の人生を狂わせたんだぞ!』
これが男の本性。
両親の言っていた通り、狡猾な卑怯者の姿だった。
家の前で叫ぶ男の姿に、近隣の人が警察に通報して、奴は連行された。
それ以来あいつが二度と私の前に現れる事は無かった。
おそらく、両親が動いてくれたのだろう。
「ん?」
仕事が終わり、ポストを確認すると、中に一通の封筒が入っていた。
「…これは?」
私宛の封筒。
裏に差し出し人とかは書かれていない。
消印から投函されたのは自宅の近所と分かった。
「誰からだろ?」
自宅のリビングで封筒を開けた。
「これって……」
中に入っていたのは数枚の便箋。
流麗な文字に目を奪われる。
「なんだ…そうなんだ」
内容は夫の近況だった。
3年前に夫は再婚していた。
現在、夫…いや元夫の政志さんは遠い地で穏やかに暮らしていたのだ。
「…そっか」
その後も手紙は近況が続く。
仕事も数年前から始めて、地元の人達からも慕われていると。
政志さんは、ようやく昔の事について話をするようになったそうだ。
しかし、息子の事は今もよく分かっていないと…
「…嘘よね?」
あれだけ息子を溺愛していたのに?
生まれた時、我が子を抱きながら、涙を流して、私と息子に、
『史佳ありがとう…俺が父さんだよ』って何度も言ってたのに。
手紙は最後に近づく。
手が震え、喉が渇く。
でも、目を離す事は出来ない。
[夫の心は私がもう一度築き直してみせます。
いつか、そちらのお子さんに会う事があるかもしれません。]
[ですが、貴女は二度と夫に会わせません。
貴女は夫にとって、害悪だからです。]
[貴女が夫と過ごした悪夢であろう結婚生活を反面教師として、私…いいえ私達夫婦は幸せに生きていきます。]
[当然ですが、私は絶対に夫を、政志さんを裏切ったりしません。
貴女は貴女の人生を、せいぜい頑張って歩んで下さい、その家で幸せになれる事を、お祈りしております。]
最後の言葉が私の心を抉る。
私が犯した罪が政志さんを、そして息子から父親を奪ってしまった現実…なにより戻らない幸せな日々が…
「良かった…政志さん。
幸せになれたんだね…
ごめんなさい…本当にごめんなさい…」
決して消えない私の罪。
後悔は今更で、取り返しのつかない現実。
ただ1人、空っぽな我が家と空虚な人生に涙が止まらなかった。




