第三話 壊れたなら私が…
友人の名は紗央里さん。
1日の仕事を終え、家路を急ぐ。
車の開けた窓から吹き込む瀬戸内の潮風が心地良い。
カーステレオから流れる音楽に耳を傾ける。
懐かしい洋楽ポップス、私の趣味じゃないし、政志さんも違う。
「…これって誰の…あ!」
カーステレオの電源を落とす。
まさかカーステレオの中にまだメモリーされた曲が残っていたなんて、政志さんが聞いたら危ないところだった。
「後で消去しとかなくっちゃ」
まだ痕跡がのこっていたとは不覚だ。
この車は政志さんの乗っていた愛車で、私が彼から引き取った。
政志さんが15年愛用してる思い出の車、そして私との思い出も詰まっている。
まあ、私の一方的な片想いだったけど。
「おっと」
考え事をしていたら、あやうく家の前を通り過ぎるどころだった。
この街に住み始めて、もう2年になるのにね。
「ただいま帰りました」
車を駐車場に止める。
道端で井戸端会議をしていた近所の奥様達にご挨拶。
他所から引っ越して来た私達、地元の人間から疎まれては大変だ。
「石井さんおかえり」
「おかえりなさい」
おばさま達は笑顔で私を迎える。
上手く地元に解け込めたみたい。
「また旦那さんに出荷の荷物を運んで貰ったの、助かったわ」
「私もよ。ごめんね、旦那さん病み上がりなのに」
「いいえ、皆さんのお役に立てて、主人も嬉しいみたいです」
思わず主人なんて言ってしまった。
彼は優しい、人が困っているのを黙って見過ごせない性格だから。
人当たりも良い、自然と周りの人間を笑顔にする。
「ここに引っ越して1年だっけ、最近ご主人の体調はどう?」
「良いみたいです、皆さんのお陰ですよ」
「あら!嬉しいわ」
「そうね。治っても、ずっと此処に居て欲しいわ」
「若い人が居たら本当に私達も嬉しいわ、これって癒しよね!」
どっと笑い声が上がる。
政志さんはこの街に、仕事で心を壊して転地療養する為、引っ越しして来た事になっている。
私はそれについて来た恋人だと、しっかり説明した。
政志さんは否定してたけど。
みんな政志さんと私が結婚するんだと思っているけど、それは残念ながら、まだまだ叶わない。
「ただいま」
「おかえり」
2LDKの賃貸マンションに入ると、政志さんが笑顔で迎えてくれる。
部屋から漂うソースのいい匂い、今日はお好み焼きかな?
「ちょうど焼き上がったよ」
「美味しそう!」
ホットプレートには出来たばかりのお好み焼きが二枚、ソースの焦げる匂いが堪らない。
「牡蠣入りだよ、近所の奥さんから貰ったんだ」
「へえ、凄いね」
それって、さっき話してた奥さん達から貰った牡蠣だろう。
あの人達って、牡蠣養殖のパートをしてるから。
「ビールもあるよ」
「やった!」
冷蔵庫から缶ビールを出してくれる。
なんだか申し訳ないよ。
「俺は、烏龍茶」
政志さんは、お酒を殆ど飲まない。
体質ではなくて、昔大学の新歓パーティで先輩達から無理矢理飲まされ、急性アルコール中毒になった経験からだ。
「美味しい?」
「ええ」
にっこり笑う政志さん。
こんな些細な事で幸せを感じる日々が愛おしい。
「早く俺も仕事見つけないとな。
いつまでも君に生活費を払って貰う訳にはいかないよ」
「焦らないで大丈夫」
食べ終えた食器を洗いながら政志さんが呟く。
まだ政志さんが働くのは無理。
離婚で壊れた心はまだ治ってない。
「でも君の稼ぎだけじゃ生活が大変だ。
負担は君の方が大きいだろ、俺も少しなら蓄えがあるんだし」
「だから一緒に暮らしてるんじゃない、私も家の事をして貰って本当に助かってるの」
「それだけじゃ君に悪いよ」
「気にしないで、私が好きでしてる事だから」
『君』か、本当は名前で呼んで欲しいんだけど、今の政志さんに、それは出来ない。
彼は人の顔と名前が上手く認識出来なくなってしまった。
名前だけじゃない。
自分と他人の関係性、そして好きとか嫌いといった感情も。
「どうしたの?」
「なんでもない」
私は政志さんを支えると決めたのに、落ち込んではダメだ。
「お風呂沸いてるよ」
「ありがとう、先に頂きます」
異変を察知したのか、政志さんはお風呂をすすめてくれた。
着替えを用意して先にお風呂へ入る。
浴槽に身体を沈めると、大きなため息が出た。
「…こんなんじゃダメよね」
こんな関係は歪過ぎる。
政志さんは私に恋愛感情を全く抱いてないのは分かっている。
私は彼にとって、ただの同居人。
友人の妹としてしか、私を見てない。
その証拠に、身体の関係はおろか、キスすら無い。
寝室も当然別々。
「…兄さんに電話しよう」
東京に住む兄へ連絡をしよう。
8歳年上の兄は政志さんと同じ大学の同級生で、17年の付き合いがある。
私達の実家にもよく遊びに来てたから、私も同じだけの付き合いだ。
「ん?」
お風呂から上がると政志さんはテーブルに身体を預け、寝息をついていた。
「どうしたの?」
少し顔が赤いけど、風邪でもひいたのか。
病気はまずい、彼は保険に入ってないから、病院はお金が…
「え?」
彼の手にはビールの空き缶が。
まさか飲んだの?
ここの生活で、少しだけお酒を飲むようになった政志さんだけど、一本全部飲んだのは初めてだ。
「ちょっと…」
身体を揺するが起きない。
呼吸は安定して、泥酔じゃないみたい。
「仕方ないね」
起こすのも悪いので、政志さんの寝室からシーツを持って来て、彼の身体に掛ける。
これでいいかな。
電気を消して、自分の寝室に入る。
携帯から兄さんにラインを入れた。
[どうした紗央里、政志に何かあったか?]
兄さんからの返信は直ぐに来た。
[ううん、変化ないよ。
ただ気になったの]
[向こうの家か?]
[うん]
向こうとは、政志さんの別れた妻の事。
政志さんが失踪して、探偵を雇った向こうの家は、直ぐ兄さんに辿り着いた。
必死で政志さんに謝罪をしたいから連絡先をと言われたが、兄さんが断った。
『お前らは今度こそ、あいつを殺したいのか?』
その言葉に、向こうは黙ったそうだ。
[心配するな、あっちから連絡はない。
ようやく諦めたみたいだ]
[そっか]
諦めたか、そんな単純なものなんだろうか?
[金は大丈夫か?
足りないなら送るぞ]
[大丈夫だよ、兄さんだって家庭があるんだし]
兄さんは3年前に、三棚詩織さんと言う女性と結婚して、子供も生まれ、幸せな家庭を築いている。
自営しているレストランも上手く行ってるみたいだけど、そんなに負担は掛けられない。
[気にするな、妻はちゃんと分かってくれてるから]
[相変わらず仲良いんだね]
[まあな、ラブラブだぞ]
直ぐ兄さんは惚気る。
でも夫婦仲が良いのはなにより。
[政志は子供の事とか言ってないか?]
[全く、全然言わないよ]
[そっか]
兄さんの沈む姿が目に映るよう。
私達の記憶にある政志さんは、1人息子を溺愛していた。
いつも『子供子供』ばかり言っていたのに。
[もう治らないのかな]
[以前のようには行かないだろう]
[うん、だけど]
病院のカウンセリングは受けた。
結構な金額は掛かったが、結局心の病気と片付けられてしまった。
[それより紗央里、そっちの生活は?]
[快適だよ]
[みたいだな]
私の勤める会社は瀬戸内にある海産物を扱う商社の支店。
兄さんの紹介で2年前に転職した。
政志さんを、あの家から遠ざける為だった。
[全く、俺の親友を…あいつらは]
怒りが文面から伝わる。
兄さんは、過去に失恋のトラウマに悩んでいた時、政志さんに凄く助けて貰った過去があった。
[あいつは政志の心を2回も殺しやがった。
絶対に赦せん]
[うん…]
あいつとは、史佳の事だろう。
あの女がした浮気や、その後の顛末は全部知っている。
吐き気がする程の最低最悪人間、まさに諸悪の根源。
[政志さんの実家は?]
[変わらずだ、俺からたまに連絡してるが、向こうも高齢の祖父母が大変みたいでな。
宜しく頼む。そればかりだ]
[そっか…]
二人も介護があるなら、構ってられないんだ。
[で紗央里、政志とどうだ?]
[どうって?]
何がどうなんだ?
[その、関係に進展とか]
ああ、それか。
[無いわ]
[そっか…分かった]
そっけない言葉だけど、不器用ながら私に対する気遣いを感じる。
[今度の休みに、そっちに遊びに行くよ]
[分かった、また連絡して]
[ああそれじゃ]
兄さんと会話を終わらせる。
目立った進展はないけど、確実に時間は過ぎて行く。
焦りは禁物、最初は私と住む事すら政志さんは断ったんだ。
1年を掛けて、同居まで持って来た。
家でのご飯も一緒に食べるようになれたし、最近は釣りや、ドライブもするようになれたんだから。
「私が、絶対に…」
静かに誓う。
初恋を実らせてみせるんだ。
向こうの実家が何を考えてるか知らないけど、静観しているのは有り難い。
どうせ、女は反省なんかしているもんか。
浮気も一時の気の迷いからじゃない、マトモな神経なら半年も不倫なんか出来ない。
良心の呵責を期待する方が無理。
それは不倫相手と隠れて電話をしていた事で明らかになった。
ひょっとしたら、また不倫相手と交際を再開しているか、違う相手を見つけてるかもしれない。
小さい子供が居るのに不倫をする程のクズだ、きっとそうに違いない。
女の実家も。
厄介な男が出て行って清々したと思ってるに決まっている…
「紗央里…」
「え?」
リビングから聞こえる声は、なんて言ったの?
「な…何?」
リビングの扉を開け、そっと政志さんに近づく。
「いや、寝てたみたいだ。
シーツありがとう」
「う…うん、風邪ひくよ。
寝るなら、ちゃんと寝室に行かないと」
「そうだな。
うん…紗央里、ありがとう」
寝ぼけて言った言葉かもしれない。
でも大きな進展を期待出来そうな気がした。
最後は再び史佳!




