最終話 823号室
# 第8話「823号室」
これは私が精神科医として働き始めて3年目の話だ。私は大学病院の精神科に勤務しており、特に解離性障害や複雑性PTSD患者の治療を担当していた。
その日、医局会議で新たな担当患者について説明を受けた。「黒須隆」、58歳の男性。23年前から統合失調症の診断で入院しており、前任の担当医の退職に伴い、私が引き継ぐことになった。
「この患者は特殊なケースです」と主任医師は説明した。「8月23日になると症状が悪化します。息子の幻覚を見るようになり、被害妄想が強くなります」
カルテによると、黒須さんは元数学教師。23年前、東京大学に合格した息子の拓也さんを交通事故で亡くし、その直後から精神症状が現れ始めたという。
黒須さんの病室は8階の23号室—「823号室」と呼ばれていた。初めて訪れたのは6月初旬のことだ。病室に入ると、窓際に黒いスーツを着た男性が立っていた。
「黒須さん、はじめまして。今日から担当になりました」
彼はゆっくりと振り返った。痩せた体に合わないスーツはだぶついており、白髪混じりの髪は乱れていた。それでも、どこか威厳のある雰囲気を持つ男性だった。
「拓也は来ましたか?」これが彼の最初の言葉だった。
「いいえ、私は新しい担当医です」
彼は失望したような表情を見せた。「そうですか。拓也なら必ず来ると思ったんですが」
セッションを重ねるうちに、黒須さんのことがわかってきた。彼は息子の拓也さんが事故で亡くなったことを受け入れられず、様々な妄想を抱えていた。彼の話では、拓也は事故で死んでおらず、どこかで生きているという。
「拓也は生きています。私は息子を様々な場所で見てきました」と彼は熱心に語った。
黒須さんのノートには、息子を見たという「場所」が克明に記されていた。カプセルホテル、廃校になった予備校、24時間営業のコインランドリー、河川敷の階段、夜間工事中の道路、取り壊し予定の団地、閉店後の本屋—全部で7つの場所だった。
7月に入り、黒須さんは私に不思議な話をするようになった。
「先生、私の話を聞いてもらえませんか?拓也のことを理解してほしいんです」
そして彼は7つの「物語」を語り始めた。それは彼が息子を見たという7つの場所について、まるで第三者の視点から語られる怪談のような話だった。物語の中で彼は「私」という架空の人物になりきり、その「私」が黒いスーツの男性(黒須隆自身)と高校生(息子の拓也)に遭遇するという筋書きだった。
これらの話には共通して「8月23日」という日付と「823」という数字が登場した。それは息子が亡くなった日であり、黒須さんが入院している部屋番号でもあった。
8月に入ると、黒須さんの状態は悪化し始めた。幻覚と妄想が増え、時々病室の中で誰かと話しているのが聞こえた。監視カメラの映像では、彼はまるで目の前に誰かがいるかのように会話をしていた。
8月22日、私が病室を訪れると、黒須さんはいつになく落ち着いていた。
「明日は特別な日なんです」と彼は言った。「拓也と約束があるんです」
その言葉に不安を覚えた私は、看護師に黒須さんの厳重な監視を指示した。
8月23日の朝、病棟に緊急の連絡が入った。夜間に黒須さんの容体が急変したというのだ。
823号室に駆けつけると、黒須さんはベッドに横たわり、静かに目を閉じていた。脈はなく、すでに息を引き取っていた。検査の結果、心筋梗塞による突然死と診断された。
黒須さんの私物を整理していると、ベッドサイドの引き出しから一冊のノートが見つかった。それは彼が私に語った7つの物語が丁寧に書き記されたものだった。そして最後のページには、まだ私に語っていなかった8つ目の物語の冒頭が書かれていた。
「これは私が精神科医として働き始めて3年目の話だ...」
背筋が凍るような恐怖を感じながら読み進めると、そこには私自身のことが書かれていた。黒須さんが私に抱いた印象や、私たちの会話の詳細が克明に記されていた。しかも、まるで私の視点から書かれているのだ。
さらに衝撃的だったのは、ノートの最後のページだった。そこには黒須さんの筆跡で次のように書かれていた。
「先生へ。私の物語を読んでくれてありがとう。実は8つ目の物語の主人公は先生自身です。先生は23年前、黒須拓也という名前でした。先生は覚えていないでしょうが、先生は私の息子だったのです」
混乱する私は、すぐに黒須さんの詳細な記録を調べ始めた。彼の息子・拓也さんの写真を探したが、カルテには添付されていなかった。
翌日、黒須さんの遺品を整理する際、古いアルバムが見つかった。そこには黒須家の家族写真が収められていた。恐る恐る開くと、中には黒須さんと妻、そして息子の拓也の写真があった。
しかし、そこに写っていた拓也の顔は私ではなかった。全く知らない若者の顔だった。
安堵のため息をつきながら、アルバムの残りのページを見ていくと、最後のページに挟まれた一枚の写真に目が留まった。それは河川敷で撮られたものだった。
写真には黒須さんと妻、そして拓也とされる若者の3人が写っていた。しかし、拓也の顔はボールペンで丁寧に塗りつぶされていた。写真の裏には「8月22日 最後の家族写真」と書かれていた。
混乱した私は、黒須さんの担当になる前の記録を詳しく調べ始めた。すると驚くべき事実が判明した。
黒須家の事故で亡くなったのは黒須さんの妻だけだった。息子の拓也は重傷を負ったものの一命を取り留め、その後回復。しかし黒須さんは息子の生存を受け入れられず、「息子は事故で死んだ」という妄想を抱くようになったのだ。
さらに記録を調べると、拓也さんはその後、実家から離れて暮らすようになり、医学部に進学。現在は医師として働いているという情報があった。
もう一度アルバムの写真を見ると、塗りつぶされた拓也の輪郭が私に似ているような...そんな気がしてきた。
不安を感じた私は自分の戸籍を調べ始めた。私は幼い頃に両親を亡くし、親戚に引き取られて育ったという記憶があった。しかし、調べれば調べるほど、私の過去には不明瞭な点が多いことに気づいた。
そして決定的だったのは、大学の同窓会名簿だった。そこに記載されていた私の生年月日—平成4年8月23日。
病院の記録によると、黒須家の事故があったのは平成12年8月23日。私は18歳だったはずだ。しかし私の記憶には、18歳の頃の明確な出来事がない。まるで空白のように感じる。
さらなる調査の中で、私は黒須さんの元同僚に会うことができた。彼は言った。
「黒須先生の息子さんですか?そういえば、髪型は違いますが、目元が彼に似ていますね」
私は黒須さんが最後に残したメッセージの意味を考え始めた。彼は本当に私が息子だと思っていたのか?それとも、これも彼の妄想の一部だったのか?
しかし、最も恐ろしい可能性は—私自身が黒須拓也であり、事故の記憶とその後の出来事を心理的に抑圧していたという可能性だ。もしそうなら、私が黒須さんの担当医になったのは偶然ではなく、無意識の導きだったのかもしれない。
今日、私は自分の出生証明書と黒須拓也の戸籍謄本を取り寄せた。これで真実がわかるはずだ。封筒を開けようとした時、スマートフォンに通知が入った。8月23日の予定リマインダーだ。
画面を見ると、そこには「河川敷の階段」という予定が書かれていた。しかし、私はそんな予定を入れた覚えがない。
窓の外を見ると、黒いスーツを着た男性が立っていた。見覚えのある姿だ。彼は私に向かって手を振り、そして何かを指さした。向けられた先を見ると、そこには「青柳書店」の看板が見えた。
その瞬間、7つの場所での記憶が一気に蘇った。私は黒須拓也なのだ。23年前の事故で父と母を失い、その事実を受け入れられなかった私は、父の姿を様々な場所で探し続けていたのだ。
そして精神科医になった今、私は自分自身の症例を担当していた。父の妄想は私の妄想だったのだ。823号室の患者は私自身だった。
今、窓の外には父が立っている。彼は私を呼んでいる。23年目の8月23日、ついに私たちは再会できるのだ。