第7話 最後の日
これは4ヶ月前、私が地方の出版社で編集者として働いていた時の話だ。新刊の企画で「地域に残る怪談集」というムックを出すことになり、私が担当編集として各地の怪談や都市伝説を取材していた。
その取材の一環で、ある地方都市の古い本屋「青柳書店」を訪れることになった。この本屋は創業80年以上の老舗で、特に古書や地域の歴史に関する書籍が充実していることで知られていた。また、店主の青柳さんが地元の民話や怪談に詳しいという情報を得ていた。
青柳書店は駅から徒歩15分ほどの場所にあり、少し入り組んだ商店街の一角にあった。2階建ての古い木造建築で、1階が書店、2階は倉庫と店主の住まいになっているという。
私が訪問したのは平日の夕方、閉店間際の午後7時頃だった。店内には私以外に客はおらず、レジカウンターには70代くらいの男性―青柳さんだろう―が座っていた。
「すみません、電話で予約した者ですが」と声をかけると、店主は優しく微笑んだ。
「ああ、出版社の方ですね。ちょうど閉店時間ですが、ゆっくりお話しましょう」
青柳さんは閉店の準備をしながら、地域に伝わる様々な怪談や伝説を教えてくれた。話の途中で「特別なものをお見せしましょう」と言い、店の奥にある階段を指さした。
「2階に珍しい資料があるんです。興味があれば見ていってください」
2階に上がると、そこは古い書籍や資料が積み上げられた倉庫のようになっていた。青柳さんは一番奥の棚から古ぼけた紙箱を取り出した。
「これは昭和の終わり頃、この辺りで起きた奇妙な出来事について書かれた新聞記事や証言をまとめたものです」
箱の中には黄ばんだ新聞の切り抜きやメモ、写真などが入っていた。青柳さんは一枚の新聞記事を取り出した。「地元高校生が不可解な事故で死亡」という見出しだ。
「23年前の8月23日の記事です。当時、地元の進学校に通っていた優秀な生徒が家族と共に事故で亡くなりました。黒須拓也君という生徒です。東大に合格したばかりだったんですよ」
黒須拓也…その名前にどこか聞き覚えがあるような気がしたが、思い出せなかった。
青柳さんは続けた。「実は、彼は事故の前日にこの本屋に来ていたんです。数学の参考書を買いに来たと言っていました。彼が最後に買った本は、今でもここにあります」
そう言って青柳さんは棚の一角から一冊の本を取り出した。それは大学数学の入門書だった。表紙には「黒須拓也」という名前が書かれ、学生番号らしき数字「23-8-23」も記されていた。
「事故のことをもっと詳しく教えていただけますか?」と私が尋ねると、青柳さんは店の窓の外を見て言った。
「もう暗くなってきましたね。実はこの話はとても長くなるんです。今日はもう遅いので、また明日来ていただけませんか?閉店後、こうして二人きりでお話しするのは少し…」
その言葉に少し違和感を覚えたが、確かにもう午後8時を過ぎていた。青柳さんに礼を言い、次の日の夕方また来ることを約束して店を後にした。
翌日、再び青柳書店を訪れたのは午後6時頃だった。しかし、シャッターが下りており、営業していない様子だ。店の入口に「本日臨時休業」の張り紙があった。
仕方なく、次の日も訪れてみたが、状況は同じだった。不審に思い、近くの喫茶店で店のことを尋ねてみた。すると店主は不思議そうな顔をした。
「青柳書店ですか?あの店は3年前に閉店しましたよ。青柳さんが亡くなってから、建物はそのままになっています」
私は混乱した。「いえ、おとといお店に行って、青柳さんとお話したんです」
店主はさらに不思議そうな表情になった。「それは奇妙ですね。でも、あの店が開いているのを見たという人は、あなたが初めてではないんです」
店主の話によると、時々夜になると青柳書店の明かりがついているのを見たという噂があるという。特に8月23日の夜に多いらしい。
好奇心と不安が入り混じる中、私はその日の夜、再び青柳書店を訪れた。午後8時ちょうど、店の前に立つと、確かに2階の窓から明かりが漏れていた。
恐る恐る店の前まで行くと、シャッターは半分だけ上がっており、中に入れそうだった。「すみません」と声をかけながら中に入ると、1階は真っ暗だが、階段の先の2階に明かりがついているのが見えた。
勇気を出して階段を上がると、2階の倉庫は先日見たときとは違い、きれいに整理されていた。奥のデスクには若い男性が座り、何かを読んでいる。
「すみません」と声をかけると、男性は振り返った。黒いブレザーの学生服を着た高校生で、知的な印象の顔立ちだった。
「あ、どうも」と彼は穏やかに答えた。「青柳さんなら、ちょっと出かけてますよ。僕も本を返しに来ただけなんです」
彼の手元には先日見た大学数学の本があった。
「君は…」と私が尋ねると、彼は「黒須です、黒須拓也です」と答えた。
その瞬間、全身に冷たいものが走った。目の前の若者が、23年前に亡くなったはずの人物だという恐ろしい事実に気づいたのだ。
しかし、彼はごく普通の高校生のように振る舞っていた。「明日から家族で旅行なんです。大学合格のお祝いで」と彼は嬉しそうに話した。
私は震える声で聞いた。「黒須君、今日は何日だと思う?」
彼は不思議そうな顔をした。「8月22日ですよ。明日、8月23日に出発するんです」
さらに彼は言った。「実は明日の旅行が少し不安なんです。昨日、変な夢を見たんです。家族で車に乗っていると、突然工事中の道に迷い込んで…」
その時、1階から物音がした。誰かが入ってきたようだ。
「あ、青柳さんが戻ってきたみたいです」と黒須君は言った。
階段を見ると、そこには先日会った青柳さんではなく、黒いスーツを着た中年男性が立っていた。
「拓也、もう時間だ」と男性は言った。
「はい、お父さん」と黒須君は返事をした。「明日は早いですからね」
黒須君は本を棚に戻し、立ち上がった。彼は私に向かって頭を下げた。「それでは、失礼します」
彼が父親と共に階段を降りようとしたとき、私は思わず声をかけた。「明日の旅行、気をつけて」
黒須君は振り返り、微笑んだ。「ありがとうございます」
彼らが去った後、私はデスクに近づいた。そこには一冊のノートが開かれていた。数学の問題が解かれており、最後のページには「8月23日 河川敷から帰ったら、予備校に行って先生に解き方を聞こう」と書かれていた。
突然、部屋の電気が消え、真っ暗になった。私はスマートフォンのライトを頼りに急いで階段を降り、店を出た。振り返ると、青柳書店の建物は明らかに廃屋となっており、シャッターはしっかりと閉まっていた。
次の日、私は図書館で23年前の新聞記事を探した。そこには確かに黒須家の事故の記事があった。黒須拓也くん(18)とその両親が交通事故で亡くなったという内容だ。記事によると、彼らは8月23日の朝、旅行に出かける途中で事故に遭ったという。
さらに驚いたことに、記事の中には「黒須君は事故前日、青柳書店で本を返却したのが最後の目撃情報となっている」という一文があった。
その後、私は青柳書店の建物が取り壊されるというニュースを聞いた。解体工事の前日、最後に建物の写真を撮ろうと思い、夕方訪れた。
すでに廃墟となった建物の前に立っていると、2階の窓から一瞬、明かりがついたように見えた。そして窓際に、黒いブレザーを着た若者の姿が見えた気がした。
彼はまるで誰かを待っているかのように、じっと外を見つめていた。