表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/8

第6話 誰もいない部屋

これは去年の冬、私が不動産関係の仕事をしていた時の話だ。私は中古物件の査定や物件撮影を担当しており、様々な家を訪れる機会が多かった。


その日は市営住宅「青葉団地」の一室を訪問する予定だった。青葉団地は築40年以上の古い団地で、半分以上の住民が既に転居し、翌年には取り壊される予定だった。残りの住民も移転先が決まり次第、順次退去している状況だった。


私が訪問したのは3号棟の823号室。所有者は既に亡くなっており、遺族が売却を希望していた。事前情報では、その部屋は10年以上誰も住んでいないとのことだった。


2月上旬の寒い日、私は午後3時に青葉団地に到着した。団地は5階建ての鉄筋コンクリート製の建物が複数並ぶ典型的な市営住宅だった。エレベーターはなく、外階段を使って8階まで上がる必要があった。


3号棟に着くと、玄関ドアの多くに「退去済」の張り紙がされていた。しかし人の気配もあり、まだ完全に無人というわけではない。


階段を上がりながら、団地の状態を確認していった。壁のコンクリートはところどころひび割れ、手すりの塗装も剥げかけている。冬の冷たい風が吹き抜ける廊下は、どこか寂しい雰囲気だった。


8階に到着し、823号室を探した。ドアには他の部屋と同じように南京錠がかけられていたが、「退去済」の張り紙はなかった。事前に受け取っていた鍵で南京錠を開け、中に入った。


玄関を開けると、古いアパート特有のカビ臭さが鼻をついた。電気は止められているため、懐中電灯を頼りに室内を確認することにした。


室内は2DKの標準的な間取りで、家具はほとんど撤去されていた。ただ、リビングには古いテレビ台と本棚が残されており、キッチンには食器が何枚か置かれたままだった。誰かが急いで出て行ったような印象を受ける。


部屋の状態を確認しながらメモを取り、写真撮影をしていく。窓からは団地の中庭が見え、すでに日が傾きかけていた。冬の日は短い。


撮影を終え、最後に水回りをチェックしようとした時、背後で何かが落ちる音がした。振り返ると、本棚から一冊の本が床に落ちていた。おそらく私の足音の振動で落ちたのだろう。


拾い上げてみると、それは古い卒業アルバムだった。表紙には「県立東高校 平成12年卒業」と書かれている。


何となく中を開いてみると、クラス写真のページに付箋が挟まれていた。そのクラスの集合写真には31人の生徒が写っており、その中の一人、中央付近に座る男子生徒の顔に赤ペンで丸が付けられていた。写真の下の名前を見ると「黒須拓也」と書かれていた。


アルバムをめくっていくと、部活動のページにも同じ生徒の写真があった。数学部の活動風景で、彼は黒板に難しい数式を解いている様子が写っていた。そのページの余白には手書きで「県大会優勝 黒須先生ありがとう」と書かれていた。


アルバムを本棚に戻そうとした時、背後で何かが動く気配を感じた。振り返ると、キッチンのシンクから水が流れる音がしている。不思議に思って確認に行くと、確かに蛇口から水が出ていた。


「おかしいな、水道は止まっているはずなのに」と思いながら蛇口を閉めた。その瞬間、背後から足音が聞こえた。誰かが部屋に入ってきたようだ。


「すみません、どなたですか?」と声をかけたが、返事はない。玄関方向に向かうと、確かに玄関ドアが開いていた。しかし、廊下には誰もいなかった。


少し不安になり、急いで残りの確認を済ませることにした。寝室に入ると、そこだけは他の部屋と違って、ベッドやデスクなど家具が残されたままだった。


デスクの上には数学の問題集や参考書が積まれており、壁には東京大学の合格発表の新聞記事が貼られていた。記事には「県立東高校から2名合格」とあり、その一人が黒須拓也だった。


部屋を出ようとした時、壁に掛けられた家族写真に気がついた。中学生くらいの男の子と両親の3人が写っている。男の子はアルバムで見た黒須拓也だろう。父親は黒いスーツを着ており、厳格な印象を与える。


写真の裏には日付が書かれていた。「平成12年8月22日 河川敷にて」とある。


査定を終え、部屋を出る準備をしていると、外が急に暗くなったことに気がついた。時計を見ると、午後5時半を回っていた。思ったより時間がかかってしまった。


玄関に向かおうとした時、背後から「もう帰るの?」という声が聞こえた。振り返ると、部屋の奥、暗がりの中に人影が立っていた。


「どなたですか?」と尋ねると、人影はゆっくりと前に進み出た。黒いスーツを着た若い男性だった。


「すみません、あなたは…?」


男性は答えずに、デスクの方に歩いていった。彼はデスクの引き出しを開け、一枚の写真を取り出した。それから私に近づき、写真を差し出した。


恐る恐る受け取ると、それは先ほど見た家族写真と同じ場所で撮られたものだったが、こちらは黒須拓也だけが写っていた。彼は河川敷の階段の前に立っており、嬉しそうに笑っている。写真の裏には「合格祝い 8月23日」と書かれていた。


「これは…」と言いかけた時、男性は再び部屋の奥へと歩いていった。追いかけようとしたが、部屋の電気が突然点いた。


驚いて周囲を見回すと、部屋の様子が変わっていた。家具が元の位置に戻り、埃や汚れが消え、まるで誰かが住んでいるような清潔な状態になっていた。


キッチンからは味噌汁の匂いがし、テレビからはニュース番組の音が聞こえる。窓の外を見ると、団地の中庭には花が咲き、子供たちが遊んでいる。まるで時間が巻き戻ったかのようだ。


混乱する私の前に、先ほどの男性が再び現れた。彼は微笑みながら言った。


「もうすぐ父と母が帰ってきます。大学の合格祝いに、明日家族で旅行に行くんです」


彼の顔をよく見ると、アルバムや写真で見た黒須拓也そのものだった。


「あなたは…黒須さん?」


彼は頷いた。「僕は明日、両親と一緒に出かけます。でも、もう帰ってこないんです」


彼が何か言いかけたとき、突然部屋の電気が消え、真っ暗になった。私は咄嗟に懐中電灯を点けた。再び周囲を見回すと、部屋は元の古く埃っぽい状態に戻っていた。黒須拓也の姿もない。


恐怖を感じた私は急いで部屋を出た。廊下に出ると、外はすっかり日が落ちていた。


翌日、不動産会社に戻り、青葉団地の情報を調べてみた。3号棟823号室の前の住人は確かに黒須家だった。しかし、彼らは23年前の8月23日、交通事故で亡くなっていた。父、母、そして息子の拓也さんの3人家族だった。


さらに詳しく調べると、黒須拓也は県立東高校の卒業生で、東京大学に合格していたことがわかった。事故は彼が大学に進学する直前の夏に起きたという。


後日、青葉団地の管理人に話を聞くことができた。高齢の管理人は黒須家のことをよく覚えていた。


「黒須家の息子さんは優秀な方でしたよ。東大に合格して、両親も喜んでいました。家族で旅行に行く前日、息子さんが『どうしても家に忘れ物を取りに戻りたい』と言って、一度団地に戻ったんです。それが彼が家にいた最後の日でした」


管理人は続けた。「不思議なことに、その部屋の電気代が今でも少しだけかかるんです。月に数時間だけ、誰かが電気を使っているような…。たまに8階の住人が『823号室から物音がする』と言いに来ることもあります」


それから数週間後、私は仕事でその団地の近くを通ることがあった。ふと思い立ち、3号棟の前まで行ってみると、8階の一室、823号室の窓だけ電気がついているのが見えた。


そして窓際に、黒いスーツを着た若い男性のシルエットが立っているのが見えた。彼はまるで誰かを待っているかのように、外を見つめていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ