5.貴族の常識は怖いと思う
「では改めて。わたくしはアイリーン。ロイド女男爵となってからアイリーン・ロイドと名乗っているわ。この家の主人ね」
ロイド女男爵のアイリーン・ロイドさま。
わたしを連れて来いと青の騎士さまに命令したご本人さま。
なんてステキな方だろう。
……こんな目の覚めるような美女を妻にしておいて、あのバカヤローはなんでわたしに粉かけたんだろう。さっぱり分からない。
「アルバートとレイから話は聞いたのだけど……ジェフリーと恋人同士だったのよね? もう彼のことは嫌いになってしまった、ということかしら」
奥さまが優雅な所作で紅茶の香りを楽しみながらわたしに話しかける。
それをきっかけに、わたしはあのバカヤローとの出会いから別れに至るまでのすべてを、洗いざらい! 一切合切! わたしの気持ちまで全部! 包み隠さず奥さまに話した。悔しい気持ちが蘇って涙目になりながら話していたら、途中でハンカチの差し入れを頂いた。ありがたく頂戴した。
「そう……メグは、愛する人と家族になりたかったのね……庶民にはそうやって生活している人が多いのね」
奥さまは不思議な言い回しをした。庶民には? つまり、貴族だと愛する人と家族にはなれない、ということなの?
「庶民でも裕福な家の者は愛人や妾を囲って生活する者もおります」
そこへ口を挟んだのは燕尾服姿の美人さん。お茶のお代わりを淹れながら奥さまに話しかける。
「いやねレイったら。夢がないこと言わないで」
ふむふむ。どうやら燕尾服姿の美人さんは「レイさん」というお名前なんですね! 短いから覚えられそう。
「裕福でなくとも、パートナーを裏切り不貞を繰り返す輩も多くいるようですよ」
「そんな穢れた輩の話をこの純粋なメグの前でしないでちょうだい」
「そこに男女の性差はないとも。浮気性な人間は前世からそうだったのでしょう。たとえ死んでも治りません」
「レイ。あなたはもう黙りなさい」
えっと?
世の男は全部穢れた輩で浮気性ってレイさんは言いたいのかな?
男女の性差はないって言ってたから、浮気する奴は男も女も関係ないってこと?
燕尾服美人のレイさんがどういうつもりでそんなことを話したのか分からないわたしは、奥さまの後ろに控えるように立ったレイさんをぼんやり見つめる。
わたしの視線に気がついたレイさんは、ちょっとだけ唇の端を歪めて笑ったみたい。レイさん、男の人に夢とか希望とか持ってないんだね……。
「そんなことになっているとは想定外ね」
想定外? 奥さまは不思議な言葉を使うなぁ。
「いえね、子どもが生まれたらこちらに引き取らせて欲しいとお願いするつもりだったの」
え?
「まさか、メグがジェフリーと別れたがっているとは思っていなくて……そんな状況ではお願いできないわよねぇ」
「お願い?」
なななな、なんの?
◇
奥さまにいろいろと、うん、本当にいろいろと話していただいた。
けど、その内容は一介の庶民であるわたしには衝撃的な内容だったわ。
つまり。
奥さまとあのバカヤローって結婚しているけど、お二人の間に愛なんか無いんだって! 『政略結婚』っていうんだって! 奥さまはこんなに凄い美女なのに、なんでそんな結婚をしなきゃならなかったんだろう。不思議。
あー、でもこの美女とあのバカヤローが並んで立つ姿を想像すると……奥さまが美女過ぎて隣にどんな男が立っても見劣りしそう。言っちゃあ悪いけど、あのバカヤローは平々凡々なタイプだったもんね。
だからこの奥さまからあっちへの『愛なんて無かった』はなんだか分かる気がする。人間、見かけがすべてってわけじゃないけどさ。
あのバカヤロー本人も言っていたかも。ギスギスした関係は心が枯渇するとかなんとか。
同じ貴族同士だったのに『格差』があったのかな。とくに心の中に。
そもそも、愛もないのに結婚するっていう事実にもうびっくり!
そんな結婚だけど、貴族としては爵位を継いだのなら跡継ぎが必要なんだって。
跡継ぎをつくるために、閨のお約束日が決められているんだって!
これがもうびっくりしたよ! 月に一度する日があるんだって! あらかじめお医者さまと相談して妊娠しやすい日を推定してするんだって!
なのに、バカヤローは奥さまとの閨のお約束日をすっぽかすようになった。どうしたことかとバカヤローを探ったら、愛人の存在を知ったのだとか。
ふむ。きっちり調べたんだろうな。だからこそわたしが忘れかけていた名字まで知られたんだろう。
この世に生まれたら、誰でも3歳になったら神殿で祝福を受ける。神殿で祝福を受けて、初めて国民台帳に記名されるって聞いたことあるし。
3歳になるまえに死んでしまう赤ん坊が多いからそうなったんだって。……誰から聞いたんだっけ? ま、いいか。
奥さまはわたしのことを「貴族のお妾さん」を承知してしている女性だと認識していたらしい。そのうえで、子どもができたらロイド家の嫡嗣として引き取るつもりだったのだとか。
でもそれじゃあ、奥さまの血をひく子どもじゃないよね?
それでもいいんですか? って訊いたら、別に構わないって。
『ロイド男爵』っていうのは奥さまの実家が持っていた爵位のひとつで、絶対残さなければいけないものではなくて、奥さまとしては思い入れもないとかで。
もうその辺でわたしとしてはチンプンカンプンなんだけどね。
あのバカヤローも分家の血筋だから、その血を引く子なら構わないと思ったんだって。だけど教育だけはきちんとしなければならないから引き取りたかったって。
そう説明されたんだけど、なにがなんだか。お貴族さまの考え方が理解できなくて目が回りそうだった。
そして“理解できない”の極めつけの言葉は
「そういうわけでメグ。あなた、しばらくうちに滞在なさい」
という奥さまの軽やかなそれだった。
わたし、奥さまに責められるのを覚悟して来たんですけど。責められて罵られて体罰とか受ける覚悟も、ちょっとだけ、してたんですけど。
「……しばらく、とは?」
「次の月のモノが来るまでは、ここにいなさい。もし子どもができているなら産んで欲しいの」
なるほど?
「……月のモノが来たら?」
「メグの自由を約束するわ」
さも当然、という顔で(というか、にこにこ笑顔で)奥さまが語るから驚くを通り越して何も言えなくなっちゃったよ。
その後、子どもができていた場合のわたしへの補償内容が語られた。
聞く限りは子ども産むだけで、そんなにお金を貰えるの? って思ってしまう内容だった。生まれた子どもの乳母として働いてもいいけど、実母だと明かしてはいけないという内容にもびっくりした。
しかもそれらがちゃんと文書化されてて、奥さまのサインも入った状態で示されたよ。わたしも同意のサインをした。一通、あなたが保管しなさいって渡されて眩暈がしたよ。
そうして。
なんだかあれよあれよという間に、わたしが寝泊りする部屋を用意して貰った。
南向きの日当たりがいい広い部屋で、とっても可愛い内装だった。奥の部屋はベッドルーム。わたしが二人くらい寝られそうな大きなベッドに、大きな鏡がついたステキなテーブルに、広いクローゼット。中にあったドレスの数々は『わたくしの娘時代の物だけど、使ってちょうだい』なんて奥さまに言われてしまった。みんなぜんぶ新品同様にキレイなままだったよ! いや、むしろ新品だったんじゃない? ちょっと奥さまには似合わなそうな色のドレス(でもわたしの髪色には合いそう……)もあったから。
手前の部屋にはさっきの応接室にあったみたいな椅子のセットがあって、飾り棚があって。
部屋の片隅に置かれたわたしの大きなカバンがなければ、夢かと思っただろう。あのカバンだけ現実味があって、それ以外は夢の中にいるみたい。レイさんを始めとしてメイドさんたちが来て、そのカバンから荷物を取り出そうとするから断った。荷解きをメイドさんにさせるわけにはいかないよ。自分でできるし!
年配のメイドさんがお茶とお菓子を用意してくれて、やっと一息ついて一服したけど。
……わたしのために用意した部屋って、言ってたよね?
わたしはひとりなのに、なんで二部屋もあるの? こっちの(今わたしがお茶している)部屋って要らないよね? 違う?
あっちのベッドがある部屋だけでも、すっごく広かったよ?
なのに奥さまってば、『狭くて悪いけど部屋を用意したから』とかなんとか言ってたよ?
……これのどこが狭いの?
怖いわー。貴族の常識、怖いわー。




