4.ロイド女男爵さま登場……とってもいい匂いなの
◇ ◇ ◇(馭者席)
アルバート・エゼルウルフは困惑していた。
「……軽すぎる」
マーガレット・メイフィールドの手首を掴んで驚いた。なんて細く華奢な腕! 彼が力を込めたら間違いなく折れたはずだ。そして引っ張り上げた身体の余りの軽さ! 羽布団よりなお軽い気がした。情報としては成人女性だと聞いていたが、あれは子どもか? と疑問に思った。
マーガレット・メイフィールドの大きなこげ茶の瞳が戸惑いを孕んでアルバートを見つめた。
なんとも言えない気持ちになった彼は、さっさと箱馬車の扉を閉めたのは正解だと思った。
「……あんなか弱い生き物は隔離保護すべきだ」
馭者役をやりながらぽつりとこぼしたアルバートは、無意識のうちに馬へ鞭をいれた。
◇ ◇ ◇
王都の貴族街の一角にあるお屋敷の前で降ろされたわたしは、もう、緊張でガチガチに固まっていた。
(どうしようどうしようどうしよう! 知らなかったとはいえ、奥さまから見たわたしは不貞を働いた不届き者! その奥さまがわたしに会いたがるって……つまりそれは)
貴族のご夫人に対して働いた不敬罪を言い渡されるのか。刑罰を処されるのか。憲兵に引き渡され牢屋に連れていかれ、鞭打ちになるのだろうか。賠償金とかいうのを請求され、そんなものを払うほど貯蓄のないわたしは身体を売るしかなくなるのか。自分の身体を売る行為は元手は必要ないが、途轍もない重労働だと聞いている。身体を壊し、早死にする職業だとも。
それとも鉱山で過酷な労働を科せられるのだろうか。
考えれば考えるほど悪いことしか思い浮かばないせいで、泣きたくもないのに目頭が熱くなって視界が滲む。
「あなたがマーガレット・メイフィールド?」
重厚な玄関扉を開けた女性……女性? 声は女性だ。
黒い燕尾服? っていうんだっけ? に黒いスラックス姿の女性……が、わたしに話しかける。艶やかなブルネットの前髪を上げて額を出した短髪の女性……かっこいい……目元涼しげな美人さんだぁ。
騎士さま(あれ? なんて名前だっけ? わたしを箱馬車に乗せた騎士さま)が、短髪燕尾服姿の女性と声を落としてボソボソと話している。
燕尾服姿の女性が目を大きく見開くと、わたしをマジマジと見詰めた。……どうしよう、こんなに正々堂々と見詰められることって初めてかも……なんというか、たじろぐ……。宝石みたいな赤い瞳。綺麗。
わたしは両手を組んで、その手をまるでお祈りするかのよう胸の前で構える。
(お願い、かっこいい美人さん。どうかわたしを許してください。奥さまを傷つける気も不敬を働く気もこれっぽっちも、えぇえぇ! 小指の爪先ほども無かったんです! ほらほら、わたし爪は短く切り揃えているんです! だって食堂で働いていたから! 清潔第一だったから!)
「マーガレット・メイフィールド」
「は、はいっ」
美人さんに面と向かって声をかけられたわたしは直立不動になった。
「ついてきなさい」
「ははっ、はいっっ」
美人さんは無駄のないうつくしい所作でくるっと背中を向けた。そのままスタスタと歩いて邸内に進んでいく。
わたしは慌ててその後姿を追った。
そんなわたしの後ろで騎士さまがぶつぶつと呟いている。
「……なんであいつは俺だと返事しないんだ?」
◇
その部屋にはふかふかで座り心地の良さそうな一人掛けの椅子が二脚並べられ、高さの低いテーブルを挟んだ向かい側には3人くらい並んで座れそうな長い椅子が置かれていた。
落ち着いた色合いの絨毯。
壁紙もなんだか上品で落ち着く。その壁には花の絵画が飾られて、白いカーテンが揺れる窓際には花瓶に生けられた花があって、とっても落ち着くいい雰囲気のお部屋だったけれど、わたしは生きた心地がしない。
さっきこの部屋まで案内してくれた燕尾服の美人さんがお茶を淹れてくれて恐縮しまくり。
彼女が「座って待っていなさい」と言ってくれなかったら、今でもわたしは部屋の片隅のドアの前で震えながら立っていたに違いない。
やっと長い椅子の隅に腰かけた(こちら側のテーブルにお茶を置かれたから)けど、こんな大きくてキレイな椅子、もし粗相をしたらと思うと恐ろしくて、お茶に手をつけることもできないまま。
どれくらいの時間が経ったのか分からなかったけれど。
「待たせたわね」
そう言いながら入室したのは、たぶん、この家の女主人。
とてもうつくしいお方。思っていたより、全然若い。わたしより5歳くらいお姉さん? なのかな。
目に眩しく輝く金色の御髪は、まるでそれ自体が王冠のように複雑に結い上げられてステキ。
理知的な煌めきを見せる碧眼は長い睫毛に縁どられて。
すっとした鼻筋の下に弧を描く薄い唇は、流行りのお色を乗せて。
耳飾りと首飾りには瞳と同じ色の宝石。
濃い深緑色のドレスは落ち着いた雰囲気。
身に着けているものから、ご本人が醸し出す雰囲気まで。すべてにおいて、格の違いというか、生まれの違いというか、うまく説明できない『なにか』を感じさせる方を前にして。
わたしは慌てて椅子から立ち上がると、床に両手をついて平伏した。
「申し訳ありませんっ奥さまっ! 知らぬこととはいえ、不貞を……不義を働いてしまいました! でも、本当に知らなかったです! もし結婚してるって知っていたら、バカを受け入れたりしませんでしたっ! どうかっ、どうかお許しくださいませっ」
貴族相手になにを言っているのだろうと思ったけれど、言い訳くらいしても罰は……与えられない、よね?
あれ? ダメだったかな。
部屋の中はシン……と静まり返っている。
わたし、これからどうなるんだろうと怯えていたら。
床に額をつけるわたしの後頭部をちょんちょんと軽く触るなにかがあって。
「女の子が床に座ったりしちゃあ、ダメよ。さあ、立って。そしてちゃんと椅子に座りなさい」
穏やかで優しい言葉がわたしに投げかけられた。恐る恐る顔を上げると、目の前に奥さまがしゃがみ込んでいてびっくり!
奥さまの碧眼がわたしを見据える。
「ほらほら。あなたが立たないと、わたくしも立てないでしょう?」
という奥さまの謎の言葉に従い、わたしはいつの間にかさっきまでおっかなびっくり座っていた椅子に腰を下ろすことになった。
どうしてこうなったんだろう。『この泥棒猫!』とか罵らないの? なんで?
奥さまは向かい側の一人掛けの椅子に座る。
なんて優雅な所作だろう……うっとりしちゃう。これがお貴族さまかぁ……。なんかいい匂いもするぅ……。薔薇の香りだぁ……。