39.機転
メグは人込みの中で同行していたベティとはぐれた。
どうしようと思った次の瞬間、強烈な花の香りに意識が混濁した。力の抜けた身体は左右から支えられた。
だれと訊くこともできずに、だれかに身体を運ばれ。
ここはどこと尋ねるまえに、どこかに座らされた。
頭に何か被せられて、身体を覆う温かい布の存在を感じる。
(……いい匂い……)
ローズロイズ商会従業員の制服の上から、なにか衣類を着させられているような感触があった。
その衣類に焚きしめてあるのか、香しい花の香りがメグを眠りに誘う。
なにかするべきことがあったはずなのに、眠い。身体が動かない。
(そうだ……頑張ってくれたみんなに、飲み物の差し入れを、しないと……)
「……本当にそっくりね、エウリュディケ。……キレイよ……」
だれかに話しかけられ、冷たいなにかに頬を撫でられる。
(手、かな? わたしを撫でたの……。エウリュ……? だれのこと?……)
「一緒におうちへ帰りましょう」
たぶん、目の前にいるだれかに話しかけられているのだと理解できるが、その声の主が思い出せない。
聞き覚えはある。
さきほどから漂う花の香りが心地良い。その香りに包まれている現状は、なんとも言い難い快適さがある。
どこかに座らされて、腰と首の後ろをなにかに支えられる。
心地良い香りの中で、眠ってしまいそうな自分を辛うじて留める。
(……目が、開かない……なんで?)
メグの顔に、やわらかい何かが何度も触れるのが分かる。
(これ、お化粧をされてる……のかな……薄化粧がいいのに……)
いつもはあまり使わないアイシャドウをがっつり入れられている気配に少しムッとした。目を開けて出来上がりを確認したい衝動に駆られるが、いかんせん、手足どころか瞼を上げることさえままならない。
「……の祝福持ちだなんて……なぜあの子は帰らな……」
(この声、だれだっけ……?)
声の主が遠ざかった。
意識はあるのに身体が思うように動かない現状にメグは焦れた。動かないどころか思考も覚束ない。すぐにでも眠りに落ちそうだ。
(わたし……なにか、しないといけないことが、あったのに……)
座った体勢のまま、どこかへ運ばれているのを感じる。
(どこへ、行くの?)
豪奢な花の香りがメグを眠りへ誘う。
大切ななにかを忘れまいと、メグは必死に抗っていた。
◇ ◇ ◇(ローズロイズ商会・出展ブース)
「あの、メグさんにご挨拶をと思って来たのですが……まだこちらに来ていないのですか?」
「……マダム……」
ベティは自分に話しかけた総白髪の上品な老婦人を見て、内心ギクリっとした。
この老婦人、名前をなんと言ったのかド忘れしてしまったが、たしか国際特別出展館に出展ブースを持っている異国の商会の人間――メグは支配人というらしいと説明してくれた――、だと聞いている。
この老婦人もまた、迷子状態になっていたところをメグに助けられた一人で、メグに感謝しているのかよく会いに来ていた。
メグ本人は屈託なく対応していたが、こっそりロブやサミーからは『あまりメグに接触させないように』と言われていた。
要注意人物だからと密かな命令を受けていたのだ。
ラウール少年に対しては、そのような指令を受けていない。
この老婦人に限っての話である。
ベティやほかの販売員にとって、この老婦人のなにが要注意なのかわからないまま、その命令だけは覚えていた。
ローズロイズ商会側で要注意人物扱いされていたのを知ってか知らずか、老婦人はおっとりとした雰囲気で話しを続ける。
「ワタクシもね、本日限りで帰国しますでしょ。最後にもう一度メグさんにご挨拶をと思って参りましたが……」
そう言った老婦人はベティの背後を――アイリーンたちがただならぬ雰囲気であることを――ざっと見渡すと軽く会釈した。
「お忙しいようですし、ご挨拶できないのは残念ですがこれで失礼いたします。メグさんによろしくお伝えくださいまし」
上品な笑顔を浮かべる老婦人に、ベティはなんとも言えない胸騒ぎを覚えた。
そして唐突なまでに湧き出た思い。
『コノ人ヲコノママ帰ラセテハだめ』
なぜ自分がそんな行動をとったのか分からなかったが、ベティは急に思い立って老婦人の腕をがっと掴んだ。
まるで逃がさないと言わんばかりに。
「え?」
女性販売員に急に腕を掴まれ、老婦人は目を白黒させた。
「とんでもないことでございます、マダム! すぐご帰国なんて、メグも寂しがりますし……そのっ……ぜひっ我が商会の会長にお会いになってくださいませっ!」
わたしはなにを言っているのだろうと冷静に考えると同時に、なんでもいいから引き留めなければ! という焦りに近い思い。
それらの板挟みになったベティは、混乱の挙句実力行使に出た。
さあさあ! と笑顔と勢いを混ぜ老婦人の背中を押したのだ。
そういえばこの人、杖をついていなかったか? という至極まっとうな疑問が浮かんだ。けれど、見たところ今日は手ぶらであったから、もう、そのことは考えないでいいや! と半ばやけくそになりながら、ベティは老婦人をブースの中央へ案内した。
彼女に押された老婦人は、謎の迫力に負けたのか拒絶の言葉も紡げないまま、ローズロイズ商会の会長のすぐそばにまで連行された。
「会長! 副会長! メグのお客さまですっ!」
ベティはそのときのアイリーン会長とロブ副会長の表情に度肝を抜かれた。一瞬ではあったがふたりとも――
まるで親の仇を見るような目で老婦人を睨んだのだ。
◇
「これはこれは」
険しい表情を見せたのは一瞬だけ。
すぐにその花のような顔に笑みを乗せ、ロブ・ガーディナーが対応した。
「えぇと――たしか国際特別出展館に出展を許されたエラス連合国の――お名前は、なんとおっしゃいましたかな」
どうでもいい口上を並べながら、ロブは密かに考えた。
ベティはこの老女に話しかけられるまえにも別口で親子に話しかけられていた。だが、その親子へは笑顔で対応し彼らの背中を見送っていた。
以前ベティたち販売員スタッフには、この老女に対する注意喚起を促していた。
そのせいなのか、ベティはこの老女に対してなにかしら引っかかるところがあったのだ。それを見極めてくれとロブとアイリーンのところまで連れてきたのだと解釈した。
◇
「こちらのマダムが、メグにご挨拶をと仰ってわざわざお越しくださったのですが、えーっと、あれでしょう? ぜひっ、ロブ副会長がお相手してください、お願いしますっ」
直感の赴くままに行動してしまったが、果たして正解だったのだろうかとロブの顔色を窺えば、彼は笑顔で頷いてくれた。
「あぁ、ベティ。ご苦労だったね。――さぁ、マダム。こちらへ」
ベティは、問題のお客さまをロブへ預けると一礼してその場から離れた。
そして離れた場所でゆっくり自分のした行動の根拠を考えた。
なぜ、自分は老婦人を帰してはだめだと考えたのだろうか。
「あ……笑ったから、だ」
メグが行方不明になったあと、彼女を訪ねてきたお客さまは二組。
一組目のラウール少年とその母親はメグの不在を聞いたとき、残念そうな顔をした。
二組目の老婦人は。
メグの不在を確認すると、笑って頷いたのだ。まるでその事実を最初から知っていたかのように。
両者の表情の違いがベティに小さな違和感を与え、本人にも理解できない衝動となって行動に表れたのだった。




