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1.恋愛だと思っていた

よろしくおねがいします。

 

「待たせたね、メグ。俺、()()しようと思うんだ」


 恋人のジェフリー・ロイドがにこにこの笑顔でそう言ったとき、わたしはびっくりしすぎて目が落っこちるかと思った。

 わたしには学がない。世の中のこととか難しいことはよく分からない。

 けれど、目の前にいる恋しい男のその言葉には、一瞬で鳥肌が立ったのが分かった。


「もう妻には辟易とした。あの女はダメだ。ギスギスした関係は心が枯渇してしまう。心に潤いのない生活なんていくら金があっても灰色の人生だ」


 やれやれとばかりに首を振っているこの男は誰だろう。

 ついさっきまでは恋しい男だった。

 いつもわたし(メグ)が給仕している食堂に顔を出してくれる常連さんだった。王宮に勤めている文官さんだって聞いていた。

 いっつも難しい書類を前にして眼精疲労と肩凝りに悩まされていると言って苦笑いしていた。

 茶色の髪に茶色の瞳。どこにでもいるその色合い。普通の男の人。その頃のわたしは、彼をロイドさんって呼んでいた。


 彼は可愛いブーケをくれた。

 わたしの髪に似合う緑色のリボンをくれた。

 食べ物の好みが同じで、笑うタイミングが同じだった。

 優しい目をして言うの。

『メグはバカだなぁ』って。そして優しく髪を撫でてくれたの。それがとっても嬉しくて。

 一緒にいて、とても楽しくなって。


 毎日が楽しくて。


『メグ。ひとめ見たときから君と結婚したいって思っていたんだ』


 ふたりが結ばれた朝に、そうプロポーズされた。その時に貴族だと聞いた。

 男爵さまだなんて知らなかった。


 びっくりして、別れた方がいいって思った。だってわたしは平民。なんの権力もないちっぽけな存在。

 でも、もうそのときには好きになってて。好きだからこそ、抱かれたんだし。


『君は俺がただの男だろうと貴族であろうとも、同じ態度で接してくれたね。それがとても嬉しいんだ』


 そう言われたけど。

 貴族でも平民でも、みんなお腹は空くでしょ? ごはんを食べるでしょ? それは変わらない。ごはん食べて美味しいねって笑う。みんな同じ。そう思っていた。

 だから、身分の差なんてたいしたことないって思った。

 ふたりが思い合っていれば。愛し合っていれば。そのときにはもうジェフって愛称で呼んでいたし。


『俺はこれでもそれなりの高給取りなんだよ?』


 そう言うと、笑ってわたしに一軒家をぽんと提供してくれた。

 きっとここがこれからふたりの愛の巣になるんだ。そう思っていた。

 ふたりで暮らして、子どもが増えて、笑い声が弾けて。

 なのに。


 ()()()()()と思うんだ?


 離婚って、結婚してるからこそできることよね?

 つまり、今現在は妻帯者ってことだよね? 結婚、しているんだよね?

 奥さんがいたのに、わたしを口説(くど)いたの?

 わたしと寝たの?

 一軒家を購入したの? そこに奥さん以外の女を住まわせたの?

 わたし、貴族の囲われの身になってた、の?


 妻、になると思っていたけど。

 本当はお妾さん、だったの?


 わたしバカだけどね。それがむちゃくちゃ不道徳なことだって分かるよ?

 浮気だって。不倫なんだって、分かるのよ?


 なんて、なんて、なんて――。


 コイツ、キモチワルイ。


 一瞬にして目の前にいる男が、訳の判らない違う世界に住むバケモノのバカヤローに変化したように思えた。


「だからね、メグ。俺とけっ「出てって」」


 聞きたくない。

 もうこの男の言うことなんて、聞きたくない。

 ぜんぶ嘘。ぜんぶまがい物。ぜんぶ口先だけ。


 わたしが被せぎみに拒絶の言葉を告げると男は固まった。

 意外なことを聞いたって顔してる。


「出てって! いや! キライ! 出てけ! こっから出てけ! バカヤロー!」


 目の前にあるコップを男、いや、バカヤローに向かって投げた。

 お皿を投げた。

 花瓶を投げた。

 手作りのクッションを投げた。

 あと振り回せるものはなんだろう。ぜーはーと息をつきながらキョロキョロ室内を見渡しても見つからない。

 だから椅子を持ち上げた。


「待っ……! わかった、出て行く! 出て行くからそれは投げるな、落ち着いてくれっ」


「出て行って」


「何を急に怒っているんだ? どうしたんだ?」


 何を言っているんだ、このバカヤローは。なんで分からないの?

 バカなわたしでも分かる、簡単な理屈なのに!


「わたしは知らなかった。あんたに奥さんがいるなんて、知らなかった!!」


 わたしがそう怒鳴った途端、バカヤローは顔色を変えた。


「え……言ってなかったか?」


「聞いてない! 知ってたらこんな関係にならなかった! ばかっ! ヘンタイ! 大っ嫌い! 出てけ!!」


 もう一度、椅子を振り上げ、今度は躊躇しないでバカヤローに向かって投げた。

 ち。避けやがった。仕方ない、台所へ向かえば目についたのは包丁。それを持って振り返った。

 バカヤローの顔色が更に悪くなった。


「い、言わなかったのは悪かった、すまん、だからそれを置いてくれ、話し合おう!」


「あんたが出て行けばこれを置くわ」


「メグ!」


「何度も同じこと言わせんな! 出ていけーー!!」


 包丁を逆手に持って振りかぶって突進しようとしたら、バカヤローは慌てて部屋から出て行った。落ち着いたら話し合おう! とかなんとか寝言をほざいて。


 ドアが閉まったあと。

 荒い息を何度もして。

 その呼吸が平常時に治まったとき。


 部屋の中はめちゃくちゃだった。

 わたしが投げた椅子は壁に当たって、足が一本折れていた。

 コップと皿が割れ、花瓶から花が散り、水が零れ、なぜだか花瓶本体は無傷で転がっていた。

 手作りクッションは綻び中綿がはみ出していた。

 うん、大ゲンカしたあとって感じ。

 わたしは包丁を台所に戻した。


 部屋の中が静かになってわたしの気持ちも落ち着いたけど、キモチワルイと思った感情はいつまでもこびり付いていた。

 何も考えず、お風呂を沸かした。

 お貴族さまのおうちってお風呂の中にボイラーがあって、すぐにお湯が沸かせるんだね凄いって。これは魔石を使った魔導具で魔法を使えない人でも利用可能だって教えて貰って。わたしでも使える、嬉しいって。お互い笑顔で笑い合ったのは……つい2週間前だった気がする。


 ……2週間、幸せだったのに……


 夢を見ていた。ここで大好きな人と所帯を持って子どもを育てる夢。

 わたしには両親がいない。兄弟もいない。だからこそ余計に自分の家族が早く欲しかった。

 白い大きなバスタブに湯を張って、中に入る。これに香油をいれるんだって教わった。バラの良い香りの奴。あたしバカだから、そんなことを教えてくれる人、いなかったから。

 教えて貰って嬉しかったのに。


 ちぇ。


 色々教えてくれる、物知りで穏やかで優しい人だと思っていたのに。


 ちぇ。


 まさか既婚者で、奥さまに隠れて女を囲うようなゲス野郎だったなんてさ。


 ――ちぇ。


 世の中、そうそう上手い話なんて転がってないってことか。


「ちくしょぉ……うー……」


 涙がぼろぼろ零れる。

 騙されていた自分への怒りか、不甲斐なさにか、相手への恨み辛みかわかんないけど、泣けて泣けて仕方なかった。

 わたしの鳴き声とちいさな呟きが浴室に反響した。

 バラの香料の中で虚しさだけが残った。



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