その二 召喚
先ほどの場所から少し離れた木の陰に、少女は息を荒げてへたり込んでいた。生い茂る樹木の向こう側では男の怒鳴り散らす声が聞こえ、燃え盛る火柱が立ち昇っている。このままここにいたのでは、いずれ見つかってしまうだろう。
あの男に同じ手が二度も通用するとは思えない。今度は穴を掘る余裕など与えずに、地面および地中ごと少女の身体を焼き尽くすに違いない。
男に気付かれないように、音を立てないようにして起き上がろうとするが、
「……ッ!」
足首に痛みが走った。どうやら先ほど地面の中を通ったときに、地中に張り巡らされていた樹の根の先端で足を切ってしまったらしい。深い傷ではないが、速く走れそうにはない。背後からは全てを飲み込む火柱が、確実に近付いてくる。まるで死へのカウントダウンのように。
万事休す。たとえ少女が呪われた『サトリ』の力を持っているとしても、この状況を打開することはできない。すべては終わろうとしている。諦めたように、瞳を閉じて少女は樹の幹に背中をもたれさせた。
いい人生とは言えなかった。だがそれでも、まだ死ぬには惜しい。けれどそんなことを言っても意味はない。もうじき殺されてしまう。
少女がすべてを諦めかけた、そのとき。
不意に一陣の風が吹いて、パラパラと何かがめくれる音が聞こえた。瞳を開けて、音の方を見ると、風でページがめくれていく魔法書が映り込んだ。召喚魔法の書物。先ほど立ち上がりかけたときに、手から落としてしまったものだった。
風がやみ、めくれる音がやみ、その魔法書がとあるページを開いたまま静止する。
それは男に襲われる前に見つけたページで、召喚の魔方陣とともに、少女の呪われた運命を変えるかもしれない文章が書かれている箇所だった。
『全ての魔力および魔法の素質と引き換えにして、異世界から召喚したものに絶大な『力』を付与することが可能である。これは召喚時、もしくはその後、後天的に付与できる』
続けて、
『召喚されたものに付与される『力』は、引き換えにした魔力量と魔法の素質によって決定される』
これだ。この方法しか、いまの自分がこの状況を乗り越えるためにできることは、これしかない。少女は開いたページに両手を置いて、残されているわずかな魔力を注ぎ込んでいく。
地面に円と幾何学模様と、その世界の古代文字を無数に刻ませた魔方陣が浮かび上がっていく。少女はそのページに記されている召喚の呪文を読み上げる。
「『我、いま全ての魔力と魔法の素質を捧げて、異世界の来訪者を召喚せん。我が呼び声に応えよ』」
その魔法の素質には、少女の呪われた力も含まれることだろう。その呪いの力によって付与される力は、世界全体をも揺るがすかもしれない。
地面に描かれた魔方陣が淡く光り輝き、次第にその輝きが強くなっていく。少女の身体をも包み込んだ光の奔流が収まったとき、そこに少女と同い年くらいの一人の少年が横たわっていた。
成功した。ぶっつけ本番だったとはいえ、無事に召喚することができた。彼こそ、この窮地を切り抜ける力を宿した異世界の民に違いない。この世界では奇怪極まる服装をしているのが、その何よりの証拠だ。その服は少年が元々いた世界において、学校指定制服と呼ばれているものだった。
横たわっていた少年の身体がもぞもぞと動き出し、おもむろに上体を起こす。現在の状況を理解できていないように呆けたような表情をして、自分の身体や周囲に視線を巡らしながら、後頭部に手を置いてひとりごとを言う。
「あ……れ……? 俺……生きて、る……?」
そこで初めて、少年は少女の存在に気が付く。
「……えと……きみ、は……?」
こことは別の世界から来たというのに、少年が言っている言葉が少女には理解できていた。おそらく召喚される際に、可能な限り使用する言語が似通っているものが選ばれるのかもしれない。
もしくは、召喚で次元の狭間を通ることによって、体質に変化が生じて言語が通じるように調整されるのか。いずれにしろ、言葉が通じるのであれば……。必死の思いを込めて、少女は口を開いた。
「助けてください……ッ!」
「は……?」
少年が意味が分からないという顔をする。どうやら言語は通じるように調整されるらしいが、召喚時の状況は説明されていないらしい。
だが、いま、この状況を説明している時間的余裕はなかった。少女は口早に、必要な事柄だけを端的に言う。
「あなたをこの世界に召喚したのはわたしです。いまのあなたには絶大な『力』が宿っているはず。その力を使って、わたしを助けてください……ッ!」
「ちょちょちょちょ、ちょっと待って! 何が何だか、俺にはちっとも……」
極度の困惑を表して、身体の前で少年は手を振る。片足を引きずりながら、地面を這うようにして彼へと近付いた少女は、その手を取って言った。手のひらから伝わる温もりと、眼前に近付く端正な顔立ちに、少年は一瞬ドキッとしてしまう。
「お願いします……! あなたの力を借りるしか、いまのわたしにはもう生き残る道が残されていないんです……ッ!」
「そんなこと、言われても……」
意味は全く分からないが、いまにも泣きそうな必死の表情を浮かべる少女の懇願に、ウソや偽りなどは感じられない。だがそんなことを言われても、いったい何から助ければいいのか、そもそもここはいったいどこなのか、すべてが少年の理解を超えていた。少なくとも一つ分かることは、この場所は、自分が元々いた場所ではなさそうだということだけだった。
「お願いします……ッ!」
少女が頭を下げる。握りしめた手に力と熱がこもる。
「…………」
少女のその姿を見て、少年の脳裏に過去の出来事がよみがえる。以前にも同じようなことがなかったか? そのときの光景が、脳裏に浮かんだ人物が、いま目の前にいる少女の姿と重なった。
あの出来事をきっかけにして、俺は……。少年が口を開き、頭を下げる少女に声を掛けようとしたとき、周囲の木々が炎に包まれた。樹の爆ぜる音、焦熱地獄のような熱気が少年の肌に迫ってくる。
少女がハッと顔を上げて振り返るのと同時に、左右に分かれた炎の向こうから赤髪の男が姿を現した。それまでいなかったはずの少年の姿を見て、納得したように男が言う。
「やっぱりさっきの魔法は召喚魔法だったってわけだ。その格好、もしかしてオレと同じ世界から来たやつか」
ククククと不敵に笑う。
「で、いったい何のチート能力なんだ? まあ、どんな能力だろうがオレの『全てを焼き尽くす炎』の前じゃあ、意味ねえがなあ」
男の暴力的な雰囲気を感じて、少年は少女が言っていた言葉の意味を悟る。彼女はこの男に襲われているから、少年に救いを求めたのだ。