ひとりよがり
一人で歩くには頼りない足取りで友人との飲み会を後にすると、一駅分余計に歩いてから私は電車に乗り込んだ。歩いた分だけ思考が鮮明になったせいか思いつきである場所を目指すことにして、気持ちよく電車に揺られていた。
終電だった電車を降りると、黒と紫が混ざり合う夜空を見上げた。よく見るとうっすら星が輝いているようで、体に残るアルコールと相まってまだ楽しくなっている私の肌を夜風が撫でて行く。本来の降りるべき駅はずっと手前だったと言うのに、わざわざ足を延ばしたのはこの駅が学生生活の終わるまで使い慣れたものだったというだけのことである。女性の夜歩きなど褒められたことではないいった一般常識的な考えは全て、今の私はどこかに忘れてしまっていた。
懐かしい街に足を踏み入れると、自分がこの景色の一部だったころに戻れる気がした。酔いも少し抜けてきた心地いい感覚と混ざり合って足が勝手に動き出す。昔の自分と同化するように、子どものように星を数えて歩いていれば、随分と見ていなかった風景に目が止まった。
中学生のころまで使っていた通学路の途中にある住宅街。そう言えば、その道を抜けて目の前にあるマンションに印象深い友人が住んでいた。少し気になったのと、酔った勢いが後押ししてエントランスを覗き込む。普段の自分なら絶対にしない大胆な行動力は気づけば記憶を辿ってポストの名前を辿っていた。
ポストが並ぶ左端下から三番目。覚えてしまうほど通い詰めていた頃の記憶がふわふわと定まらない意識の中にも蘇ってくる。下ろせば肩甲骨を隠すほど伸びた髪の毛を一つに結んで、目は大きくはっきりとした吊り目の二重をした彼女は同じ年に生まれたとは思えないほど背が高く、当時の私にとって姉のような安心感を抱かせる存在だった。口はそれほど良いとは言えないが、努力家であることもまた新しいことに臆せず挑戦することを厭わない活発な性格も周囲に好印象を抱かせ、当時は口にできなかったが確かに彼女は私の憧れに違いなかった。
そういった社交的な面がある一方、少し思考が飛躍するところもあって会話の中で想像もできない発言をしてくることも多く、仲良くなったばかりの頃は本当に驚きの連続だったと思い返すたびに懐かしくなる。
座って物を考えるより、歩く方がリズムがあって色んなアイディアが出てくる。最初にそう言ったのも彼女だった。そう言われればそうかもしれないと、毎日のように一緒に歩く下校途中に私も考えたりもした。こんな風にありふれた日常を非日常に変えてくれる彼女の言葉はただただ楽しくて、輝かしい宝物のようなものだった。
その日も同じように一緒に帰っていた途中で、いつもの住宅街にそろそろ差し掛かるタイミングだった。雲が薄い紫のような水色のような色に染まっているのに空は橙色に染まっている光景が不思議だなと私は考え事をしていたところで、隣を歩く彼女が言葉を発した。いつもの会話と同じテンションで発したのだからこの台詞もそんなたくさんの考え事の一つだったのだと今でも思っている。
「あたし、男だったらお前と付き合ってたわ」
「は」
突拍子もない言葉に中学生だった私は驚いて彼女の顔を見る。遠くで鳴いたどこに帰るのかわからないカラスの声が随分と鮮明に聞こえていたのに、隣を歩く彼女は顔色一つ変えずにとんでもないことを言った気がした。何言ってんのあんたと目で伝える。そんなことを気にもしないのか驚いて足を止めた私を置いて慣れた道をズカズカと一人、彼女は先に進んでしまう。おいて行かれないように私は早足でその背中を追いかけた。
「なんでそう思うの」
「なんとなく、側にいて楽。気を遣わなくて楽」
繰り返される楽という言葉は、馬鹿にされたような気分になって、顔を顰める。彼女なりの褒め言葉らしいそれは、当時の私にとって受け入れるには難しかった。それと同時に当時の彼女には彼氏がいることを知っていたために余計に馬鹿にされた気がして、彼女のこの手の会話をまともに取り合うこともやめてしまった。確かに彼女との間には互いに対する好意はあったと思うのだが、この会話における好意では無いと当時の私は思ったのかもしれない。そうは言いつつも、目も合わせないでさらりとそんなことを言ってのけた彼女に釈然としない曇り空のような感情を抱いたのは、今でも私しか知らない事実である。
「てか、何でこんな話?」
「なんか、ふと思っただけ」
「何それ無駄すぎ」
「いーじゃん、たまに考える不毛なこと」
そんな軽口を皮切りに滞っていた心地いいテンポの会話が始まる。それを意識せずとも心地いいと感じていた時点で、私自身もまた彼女の言った不毛な感情を同じように抱いていたのではないかと大人になった今では自然と受け入れている。
辿るようになぞった指先に記憶と同じ名前が無いことを確認すると、私は再び懐かしい夜の通学路へと足の向きを変えた。よく考えてみれば、彼女に最後に会ったのはもう十年近くも前のことで、いつもと同じように振り返って「またね」と言ったきりである。偶然酔った勢いで通りかかったこの帰り道で、当時と同じようにまた会いたいなと不毛なことを私は思った。
「あ、ツツジ咲いてる」
あの頃は空ばかり見ていて、気にもしなかった季節の移り変わりに目が行くようになっていることに気づいた。よく考えてみれば前を見ないで歩くなど危険極まりないことなのだが、隣に彼女がいる安心感がそんな不安を拭い去っていたのかもしれない。自分の変化と自分の中で彼女という存在の大きさを痛感して空を仰いだ。東と思しき方角がいくらか明るくなってきているような気がする。自分が考えるよりもはるかに酔っていたことを実感したところで、もう帰ろうと思った。
来た道を少し引き返したところで、もう一度だけ懐かしい通学路を振り返った。こんなだっけと、記憶との違和感が生まれる。懐かしいと思い込んでいたが、知っている建物の間に知らない建物も多く目に留まる。過ぎ去った時間の分だけ、知っている建物も古びているのは当たり前かと駅の方向に体を向けなおした。その次の瞬間には、日が昇ってからの予定を指折り思い返している私がいる。
確かに歩いていると色んなことを考えやすいらしい。