ⅳ 終わりのはじまり、はじまり
ーーー「ほら、もうすぐだって言ったでしょう。」
煙草屋を少し得意げに指差すアリスの声に
うん。と白うさぎが軽くうなずき次いで赤ずきんの表情も確認した。
赤ずきんは自分より身の丈半分以下の小さな白うさぎに会釈した。良かったわね、と。
白うさぎも会釈を返した。
白うさぎは期待でいっぱいだった。お城にお仕えするのはもう毎日のことだ。
でも今日は仕える相手が違う。
そう、違うんだ。いつもはあの頭でっかちの傍若無人で我儘なあの赤の女王にこき使われている。
毎日毎日事を急かされて汗でびっしょりになって自慢の毛並みが崩れて整えてもすぐぐしゃぐしゃになる。休む暇もなくて嫌になる。
しかし良かった。今日が女王様がおいでにならなくて。いい休暇だ。
おかげで城の者はみんな羽を伸ばしているよ。
かくいう私も…。
でもこんなことが知れたら大騒動だろうな…。でも今日は赤の女王と仲の悪い白の女王に仕えるわけではないから大丈夫か。
「着いたわよ。ジムノペディの煙草屋さんよ?」
考え事を巡らせて上の空だった白うさぎのその空をアリスの美しいトーンが遮った。
白うさぎ「おや。やぁ。芋虫おじさん。いつの間にここに来ていたんだ?驚いた。」
赤ずきん「こんにちは。芋虫おじさん、煙草をお買いに来たの?」
チシャ猫「街で偶然会ってね。煙草を買うのを一緒に付き合ったんだよ。僕もね。」
アリス「チシャ猫とだったら風に乗ってひとっ飛びだものね。私たちより先に着くはずね。」
芋虫おじさん「そうそう…。私一人よりチシャ猫殿がいた方が早い…。そうそう…。煙草をね…切らせてね。」
それから「帽子屋は置いてきた。」というと、そこにいた者が全員見事に笑った。
アリス「人魚姫とも会ったのよ。あの方は馬車で向かったわ。共に馬車で行きましょうよと言われてその時思い出したわ。馬車があったんだってことを。」
するとまた全員が笑った。
楽しい会話だった。
その時もう午後になっていた。
のどかな時間だった。
楽しい休暇に胸跳ねらせる白うさぎがこの先に待ち構えるうさぎ穴に気付くまでは。
ーーーこの道を真っ直ぐ行けば確かに城に着くはずだ。
なぜって。
アリスがそう言ったからってわけじゃない。
見えるのだ。
ここからすでにあの美しい、白い、青い棟の屋根の城が。
「いや、なんともまあ素晴らしいお城だ!」
先走る気持ちが抑えられないと言った様子で楽しげなステップを踏んでいる白うさぎだ。
その白き碧きの美しい城はまだ遠くで霞がかかっているが、元来た道を振り返ればあの霞の向こうにだって難なくたどり着ける。
だってさっきまでいた街はもうほとんど見えないのだから。
さっきまで偶然の再会によってお喋りしていたジムノペディの煙草屋さんも小さく豆粒ほどになっていた。
白うさぎ「足は痛くないかい?」
アリス「大丈夫よ。私はあまりかかとの高い靴は履かないの。」
赤ずきん「私もよ。ヒールの高い靴を履いていたらあの時人魚姫の馬車に一緒に乗っていたわね。」
白うさぎ「でも整理された道だからね、さっきアリスも言ったけど。」
そう。アリスたちのいた街とエラの街とは道が繋がっており、その道は舗装されている。
タイルが所々に貼られており時折、日差しが当たるとキラキラと七色に輝き歩いている者を楽しませてくれる。
アリス率いる御一行様も皆、その彩りを楽しみながら歩いてきたように。
しかし、その七色の道の脇にはまだ舗装されていない場所が時々見かけられ
そこには時たまに うさぎ穴 があった。
心配していたのは白うさぎだった。そもそもこの小さなお届け物の旅の同行をアリスに頼んだのもこの うさぎ穴 が原因だ。
白うさぎはうさぎである。当然もうそんなことは誰でもわかっているのだが、そんな当然なことを一番よくわかっているのは当の本人だ。
うさぎというものが一体何であるか、好物は何か、恐るる物はなんなのか、どんな時眠気が襲うのか、本当に人参が好きなのか…等、知りすぎるほど知っているのである。
そしてその本人が今 うさぎ穴 を見つけ、しばらく見つめている。
見つめているといってもアリスや赤ずきんも一緒にいるのでばれないように、と歩きながらこっそり器用に横目で見つめていた。
そしてここから。白うさぎが一番心配していたことが起こるのだ。
それは。
うさぎ穴 うさぎ穴…うさぎ穴…あ。またうさぎ穴だ。そしてまた…。
そう、うさぎ穴の集合地帯だった。
白うさぎは思わず足を止めそうになった。だが止めることもなかった。
何故なら白うさぎはもう足を止めることも忘れるぐらいに興奮し、夢中になっていたからだ。
う…う、うさぎ穴がひとつ、ふたつ、みっつと!よっつと!いつつもある!あ、いつつめの先にももうひとつ、ふたつ、みっつ…
ああ…なんてことだ…
白うさぎは困惑したか?その感嘆は困惑ではなかった。
その うさぎ穴 は完全に白うさぎを魅了していた。
「ああ…なんてことだ。」
白うさぎがもう参った、という声を小さく漏らした。
そのうさぎ穴には野うさぎが住んでいる気配がなかったのだ、なんて恐ろしいこと!
これではまるで白うさぎにどうぞお越しくださいと申しているようなものだ。
だって住人がいないのだから。
本来なら野うさぎがひょこっと顔を出してやぁどうも、と挨拶をして白うさぎは我に返ってうさぎ穴を覗こうなんて好奇心も収まって通り過ぎるものだ。
それがどうだろう。住人がいないのだ!
うさぎ穴。それはどのうさぎをも魅了する魔法の穴。持ち主がいればどんな主人がいるのだろうと話しかけたくなる。そして主のいなくなったがらんどうのうさぎ穴は恰好の遊び場になる。
遊び場、隠れ家、または秘密基地。などなど…
白うさぎが幼い頃もよくこうして他のうさぎ友達と空のうさぎ穴を見つけてはよく探検などしていたのだ。
その憧れの存在とも言うべきそのうさぎ穴が今、目の前にあるのだから。
「う、う〜ん」
白うさぎの至福を要する欲求の唸りをよそにアリスと赤ずきんはお喋りが止まらなかった。
アリス「でもやっぱりジムノペディの煙草屋さんには主人のジムはいなかったわね。」
赤ずきん「いつ通ってもジムはいないわ。“今日は居ません”の看板があるだけよ。」
アリス「見たことある人いるのかしら?」
赤ずきん「私はずっとおばあさんとの家を行き来しているけれど一度も見たことないわ?」
アリス「やっぱり誰も見たことないわよ。だっていつも居ないもの。ふふっ。」
赤ずきん「ね。いつかお目にかかりたいものだわ。ふふふ。」
アリス「今夜は素敵ね。どなたと再会できるのか楽しみだわ。」
赤ずきん「遠方からも多く来られる、と聞いたわ。」
アリス「では眠れる森のオーロラやかぐや殿、親指姫とも会えるかしら?」
赤ずきん「あらまた本当に遠方からね!遠いのに会えたらすごいわ!ふふふっ。」
アリス「そうよ、なにせエラがお声をかけるのだからきっとすごく遠くからも遥々来るはずよ、ねぇ。うさぎさん?」
「…うさぎさん…?」
アリスはさっきまで自分たちの後ろを胸躍らせながら歩いていた白うさぎがいないことに気づいた。
赤ずきんも、どこに行ったのかしら?と首をかしげ辺りを見回した。
赤ずきん「まさかオオカミなんかいないわよね?」
アリスは「オオカミではないみたいよ。ほら見て。うさぎさんが何か楽しそうなものに気を取られているみたいよ。」
しかしその時アリスは思い出した。白うさぎがうさぎ穴を覗かないように、と自分を頼りにしてくれたことを。その事に気付いたアリスはすぐさま「気をつけて」と、注意を促した。
だけど遅かった。
あと一秒早く声をかけていたら…
とアリスは後悔した。
カラカラカラカラカラカラ!!!!
「ああぁっ!!!!」
ガラスの靴だろうか。硬いものがぶつかりながら落ちる乾いた音と共に叫喚ともとれるうさぎのツン鳴く声が周囲に響いた。
その叫喚の残り香が漂ううさぎ穴のなだらかな丘にアリス達も駆けつけた。
「うさぎさんが大変だわ。」アリスは両手を頰に当てこれは大変な事態が起こった、と。
かつてはアリス自身もうさぎ穴に落ちた経験(あるいは夢かも知れぬが)があるがゆえその心配はとてつもなく深いものだった。
白うさぎが落ちた底の全く見えないうさぎ穴のように。