(32)注文
結愛が空に向かって打ち上げた火炎球。そのかすかな光を捉えた瞬間、儀一はダッシュした。
パッシブスキルの身体能力向上は、筋力、瞬発力、そして持久力が飛躍的に向上する。
走るスピードは、マラソン選手並みだ。
二回目の火炎球。
そして、グーが巨大化して持ち上げたらしい薪の炎。
不安は希望に、そして安心へと変化していく。
二十キロ近くあった距離を、しかも新雪が積もった上に、走りにくい岩だらけの大地を、儀一は一時間ほどで走破した。
冷たい空気を吸い込んだので、肺は傷んだが、全身が熱を発しており、まるで風呂上がりのようだった。
そして、身体の節々が軋んでいる。
いかに特殊能力の恩恵があるとはいえ、筋肉や筋、そして骨の強度は変わらない。
走ってる途中、これはまずいのではないかと儀一は不安になったが、命には代えられなかった。
ただひとつの方向だけを見据えながら、飛び跳ねるように進んでいく。
カロン村の北の入口にたどり着いた時、儀一はもうふらふらで、立つのがやっとの状態だった。
そこに、子供たちが歓声を上げて飛びついてきた。
全力で、全速力で。
お腹、腕、足、腰――二人までは耐えたが、三人目で限界に達した。
雪の上に、仰向けに倒れ込む。
「みんな、風邪、ひくよ?」
こんなことを言っても、耳に届いていないのかもしれない。
それだけ、心配させてしまったということだ。
子供たちの頭を、順番に撫でる。
「ほら、早く。ミミリ君の薬を、届けないと」
そう諭すと、ようやく我に返ったようだ。
両手を引っ張ってもらって、何とか立ち上がることができた。
周囲を観察すると、薪はバラバラに散らばって、火は消えかけていた。
ずいぶんと無茶をしたものだ。
唯一のまともな光源である懐中電灯は、使用者の足元に転がっていた。
儀一はまず、タチアナのもとへ進んだ。
「これを、トゥーリさんに」
懐にしまっていた薬を渡す。
ひょっとすると、今この瞬間も、ミミリが喘息で苦しんでいるかもしれない。
「さ、早く」
「う、うん」
意外なほど素直に、タチアナは従った。
そして、その隣には、
「――ッ」
崩れ落ちるように座り込み、両手を顔に当てて、声を殺しながら泣いている、ねね。
さぞや心配したのだろう。
彼女の性格からして、自分自身を責め続けていたのではないか。
気にする必要などない。
悔やむ必要などないと、儀一は思った。
今回は、単に運が悪かっただけ。
こんなことくらいで、まっすぐな気持ちを折らないで欲しい。
自分が決して持ち得ない、眩しいくらいの光を、ねねは精神に宿している。
その光は、これからも多くの人々の心を照らし、希望をもたらしてくれるだろう。
だから、泣かないで欲しい。
儀一はねねの前で膝立ちになると、震えている頭と肩を抱え込むようにして、ぎゅっと抱きしめた。
「会いたかった」
たまりかねたように、ねねがしゃくり上げるような声を漏らす。
彼女の心が落ち着くまで、儀一はずっとそうしていた。
翌朝、儀一の全身は悲鳴を上げていた。
腕も足も、鉛のように重い。
「筋肉、痛?」
歳をとってからは意識的に力をセーブしていたので、筋肉痛は久しぶりである。
若いなぁと、儀一は思った。
筋肉痛が、翌日の朝に来るとは。
普通ならば、二、三日後に来るものだ。
そしてすぐには治らない。
ねねが遠慮がちに呼びに来るまで、儀一はずっとベッドの上に横たわっていた。
ねねの助けを借りながら起き上がって、マンションを召喚してからも、儀一はベッドルームで大人しくしていた。
どことなく落ち着かなかった。
というのも、狭い室内に子供たちが四人もいるからだ。
ベッドに背を預けながら、読めもしないはずの文学小説を手にしている蓮。算数のドリルを計算しているふりをして、実は一問も解いていない蒼空。結愛とさくらなどは布団の端に座って、あっち向いてホイなどをしている。
「儀一さん、ごはんです」
にこにこ顔のねねが、トレイを持って入ってきた。
風邪を引いたわけでも熱を出したわけでもないのだが、朝食は卵入りのお粥だった。
完全に病人扱いである。
トレイを一度棚の上に置いて、ねねは儀一の上体を起こす。それからトレイを布団の上に乗せた。
わざわざ土鍋を使って作ってくれたようだ。
れんげでお粥を掬って、ふーふーする。
興味津々といった様子で、子供たちが見つめてくる。
「あーん」
「……」
世話好きの保育士の手にかかると、四十二歳の中年男でも子供扱いにされてしまうようだ。
儀一は大人しく口を開けた。
食べるのも飲むのも、口を拭くのもボタンを外すのも、されるがまま。放っておいたら、呼吸以外はすべて世話をされてしまうのではないか。
介護される老人のような気分を味わいつつも、儀一は何もせず一日を過ごすことにした。
週休二日制などという概念は、とっくに喪失している。ずっと働きづめだったので、たまにはこういう日もいいだろう。毎日これでは、どこかの元神様のように自堕落な引きこもりになってしまいそうだが。
そのカミ子はというと、昨夜、儀一が帰ってきた時、「あれ、山田さん、生きてたんだ」と出迎えて、子供たちから大ひんしゅくを買っていた。
「しかし、状態盤の情報を合図に使うとはねぇ。爆弾でも召喚したの?」
当たりだった。
存在レベルが十になると、魔法レベル一の魔法――たとえば、時間魔法の加速くらいでは、魔力円の変化は分かりづらい。
しかし、召喚魔法の消費魔力は大きく、子供たちにもはっきりと届いたようだ。
「いっそのこと、パーティチャット機能でもつけようかな?」
ついでに、GPS機能と写真や動画の撮影機能も搭載して欲しいところである。
幸いなことに、儀一の若い身体は回復が早かった。丸一日のんびりと過ごすと、翌日には何とかひとりで歩けるようになった。
トゥーリが家に来たのは、正午過ぎのことである。
儀一からも話があったので、出向く手間が省けた。
玄関先でねねと二人、にこやかに話していたトゥーリだったが、儀一の姿を見ると、わずかに表情を固くした。
「ネネ。ギーチさんに話があるの。少しだけ、あなたの恋人をお借りしてもいいかしら?」
「は、はい」
連れていかれたのは、敷地のすぐ外である。
心労がたたったのだろう。久しぶりに会うねねの友人は、まるで別人のようにやつれていた。
トゥーリはまず、丁寧な口調で礼を述べた。
昨夜、ミミリに薬を与えたところ、すぐに効果が表れて、呼吸が楽になったらしい。
今は症状が安定しているようで、タチアナの家に預けてきたそうだ。
これだけの報告ならば、わざわざねねを遠ざける必要はないはず。
「お金、足りなかったでしょ?」
儀一は答えなかった。
トゥーリがタチアナに託したお金と、タチアナがカンパしたお金、それに儀一が朝市などで稼いだお金を加えて、ようやく薬を買える金額に達したことは間違いない。
「分かっていて、何も言わなかったの」
トゥーリは淡々と語り始めた。
水で薄めながら使っていた喘息の薬がついに切れた時、トゥーリは正気を失うほど悲嘆に暮れた。
もはや神に祈るしか方法はない。
だが、本格的な冬は始まったばかりだ。
絶望の暗闇の中から浮かび上がった考えは――
「あなたを、利用することよ」
カロン村に流れ着いてから、短期間で多くの実績を上げてきた儀一である。
ひょっとすると、何らかの手だてがあるのではないか。
それはもはや、正常な思考回路から導き出せる答えでは、なかったのかもしれない。
しかし、儀一はねねとは違う。冷静な現実主義者だ。
いくら同情心を買おうとも、あっさり断られるに違いないと、トゥーリは考えた。
ねねの応援が必要である。
自分は娘から離れることはできない。
タチアナに言伝を頼もうか。
――無理だ。
お金もない。薬屋の伝手もない。しかもこの季節に、途中で野宿が必要な距離にあるポルカの町を往復するなど、自殺行為でしかない。
このような荒唐無稽な話、いかに自分の願いとはいえ、タチアナは聞き届けてはくれないだろう。
ねねもまた、タチアナの友人なのだから。
だからトゥーリは、タチアナを通じて自然とねねに伝わるよう仕向けた。
タチアナは気が強いが、情にもろいところがある。
独りで悩みを抱え込むことはできない。
こちらの事情さえ伝わりさえすれば、あとは……。
「私が言っていること、分かるかしら? 私は、あなたとネネに、ひどいことをしたの」
あいにくと今の儀一は翻訳の特殊能力をもっているので、会話のすべてを理解できた。
しかし――
と、儀一は嘆息した。
どうして自分の周りにいるのは、頑固で一途な女性ばかりなのだろう。
秘密の事情など、言わなければ済むことだ。
誰も傷ついたりはしないのだから。
「ふっ」
トゥーリは何かを思い返すように、自虐的に笑った。
「あなたに言っても、仕方がないわね。ネネに直接話したほうがいいかしら?」
「必要ありません」
ねねは許すだろう。
だが、トゥーリの思惑に乗せられて儀一の身を危険に晒したことを知れば、再び傷つき、自分自身を許せなくなるかもしれない。
「そうね。これ以上、甘えるわけにはいかないわ」
トゥーリも、分かっている。
「こんな私のことを、ネネは友人だと思ってくれている。自分の娘を守るために、ネネの大切な人を、こ――殺しかけたのに」
高ぶった感情を押し殺すように沈黙してから、トゥーリは厳しく冷たい表情になった。
「だからせめて、私は嘘をつき通すわ。でも、ギーチさん。あなただけは覚えておいてくれるかしら。私が、ひどい女だということを」
子供を愛する親ならば、子供を救うために利己的になるもの。
だがそのことを正当化し居直ることもなく、トゥーリは自分の行いを恥じている。
やはり、理知的で尊敬に値する人だと、儀一は思った。
「では、トゥーリさんも覚えておいてください」
「え?」
儀一も秘密を打ち明けることにした。
もともと儀一は、ポルカの町で商売をしようと考えていた。
商品は魔木炭である。
だが、この炭の流通は木炭の卸問屋の組合が取り仕切っており、容易に商売はできない。
「だからランボさんに、お店を紹介してもらおうと考えていました」
儀一はミミリの病気を利用した。
薬のお金が足りないかもしれないと理由をつけて、ランボに紹介状を書かせたのである。
「おかげで、もうかりましたよ」
このことは、ねねには伝えていない。
「ねねさんの友人である、あなたの不幸を利用したなんて、言えませんからね」
「……」
「僕も、あなたと同じです」
儀一はけろりと言った。
「ひどい男なんです」
しばらくの間、トゥーリはぼう然としていたが、儀一の意図を察したのか、泣き笑いのような表情になった。
「分かったわ。覚えておく」
さて、今度はこちらの用件である。
儀一は懐から荒野鼠の革で作られた財布を取り出すと、トゥーリに渡した。これまもともとトゥーリの持ち物で、お金とともに預かっていたのである。
「これは、おつりです」
「おつり?」
財布の中には、銀貨や銅貨がぎっしりと詰まっていた。
トゥーリは不審そうな顔になった。彼女は何年かかっても、薬の不足分のお金を返そうと考えていたのである。
「トゥーリさんが僕のために作ってくれたスニーカーを、売りました」
「え?」
ポルカの町で出会った、靴磨きの少年。
いつも客の足元を観察し、磨いているのだから、靴の種類や店にも詳しいはず。
そう考えた儀一は、少年に町で一番人気のある靴屋を聞いて、案内させたのだ。
商売のうまい人の多くは、好奇心旺盛である。
トゥーリが作ったスニーカーを試着した靴店の主は、その場で走ったり飛び跳ねたりして、いたく気に入ってくれた。
そして儀一に、同じものが作れるかと聞いてきた。
「これが、注文書です」
サイズ違いで三十足分。
品名は“カロン靴”。
「春までに三十足、作れますか?」
トゥーリは驚きで、目を丸くした。




