(30)不安
その日、ねねと四人の子供たちはあまり外出をせず、マンションや家の中で静かに過ごしていた。
みんなで掃除や洗濯を済ませると、ちゃぶ台を囲んで勉強する。
最近ねねは儀一に教えてもらいながら、パソコンの使い方を少しだけ覚えた。文書作成ソフトや表計算ソフトで簡単な問題や枠を作成して、プリントアウトするくらいだが。
バシュヌーン語の書き取りだけでなく、四則演算くらいはカバーしたいところである。
お昼を過ぎると、ねねは頑張っている子供たちのために三時のおやつを作った。
薄力粉を使った揚げたてのドーナツだ。
寝室で爆睡していたカミ子が、腹をかきながらやってきた。
「あれー、山田さんは?」
「儀一さんは、ポルカの町へお薬を買いにいきました」
「あ、そっか。わざわざ他人の子供を助けるために、寒い中、頑張るねぇ。まさに、ヒーローだね」
わざわざ、他人の子供を助けるため。
そのために儀一が動いたのは、ねねが願ったからでもある。
子供が友達を救いたいがために親にわがままを言うのは、当然のことだ。
しかし大人には、守るべき優先順位がある。
現にタチアナは、トゥーリからお金を貸してほしいと頼まれた時、自分の家族を守るために断っている。
自分の願いは正しかったのだろうか。
もう一度過去に戻ることができたとして、今の自分だったらどうするだろうか。
やはり、見捨てられない。
儀一の優しさに甘え、危険を承知で――泣きながら助けを請うたのではないだろうか。
自分の身勝手さに自己嫌悪に陥っていると、カミ子は油の入った鍋を覗き込んで「甘いものとお酒、合うんだよねぇ」と呟いた。
「カミ子さんもいかがですか?」
「え? いやいや、居候の身で、そんなそんな。でもまあ、せっかくの二宮さんのご厚意だから、無下に断るのも、ね? いや、悪いねぇ」
満面の笑みである。
「ふたつちょーだい」
「はい」
「できたら呼んでね」
その後姿のラインが変化していることに、ねねは気づいた。
明らかにふっくらとしている。
年頃の女性であれば、体型や体重が気になると思うのだが、カミ子は神様だ。
しかも“オークの森”で会った時には男性だった。
細かいことは気にしていないのかもしれない。
バシュヌーン語ドリルを最初に終わらせたのは、さくらである。
「ねねせんせー、ドリルできた!」
キッチンまでやってきて、ねねの腰のあたりにひっつく。
ここ十日間くらい、ウィージ村へ出かける機会も多く、儀一やねねが家を空けることも多かった。
だからかもしれないが、寂しがり屋のさくらは、隙あらば抱きついてくる。
「さくらちゃん、油がはねるから危ないわ」
「お手伝い、したい」
ねねは少しだけ考えて、
「じゃあ、コップにウーロン茶を入れてくれる?」
「はい!」
ドーナツを揚げ始めると、リビング内に香ばしい匂いが漂う。
蒼空と結愛も手伝いたいとやってきた。
蓮はひとり、焦ったようにドリルの空白を埋めている。
みんな、いい子だ。
勉強も熱心だし、積極的にお手伝いをしてくれる。
最近は“子供会議”なる話し合いの場を持っているらしく、夕食の時に儀一やねねに質問したり、意外なことを提案してきたりもする。
これは、ご両親の教育の賜物だろう。
カミ子を呼んで、全員でおやつを食べる。
ひと休みしてから、夕食の準備に取りかかった。
儀一のために、暖かいものを作ろうとねねは考えていた。
焼きたてのガラ麦パンと、朝市で手に入れた鶏肉と卵を使った栄養満点のスープだ。
マンションを出ると、暖炉の前で火をおこす。
火打石と、鉄板と、火口。毎日の作業なので、ずいぶん手早くなった。
暖炉に枯葉や小枝を入れて、種火から火をつける。
火おこしの作業は、何故か子供たちも大好きで、僕も私もと手伝いたがる。本能的なものだろうか。
屋内だというのに、凍えるほど寒い。
ふと気になって、家の外を確認する。
上空には灰色の雲が立ち込めていた。
風が、強い。
髪をなびかせ、白い息を吐きながら、ねねは心配そうにポルタの町の方角――南東の空を見つめた。
その時、わずかに青みを帯びた白い小さな塊が、視界の片隅をふわりと舞った。
ひとつではない。
時間が経過するにつれ、一気に増えていく。
――雪だ。
いつの間にか子供たちも出てきて、嬉しそうに騒ぎ出す。
ねねはひとり、顔を青ざめさせていた。
雪の中をバイクで走るのは危険。
それくらいのことは、ねねでも分かる。
だが本当の意味で雪の怖さを感じたのは、それから十分後。
庭一面が、雪のヴェールで覆い隠されてからだった。
「少し出かけてくるから、みんなは家で待っていて」
そう言い残して、ねねは走り出した。
「あっ、ねね先生!」
子供たちは、何事かとねねのあとに続く。
ねねの足は遅いので、すぐに追いつくことができた。
向かった先は、村の北の入口。
「わぁ、まっしろ」
素直な感想を口にしたのは、さくらだ。
枯れ草と岩だらけの荒野は、見渡す限りの雪の平原へと変わっていた。
日本の都会ではまずお目にかかれない光景である。
北へ伸びる街道の境目が、分からない。
こんな道を、果たして走れるだろうか。
「おじさま、だいじょうぶかな?」
結愛が呟き、ねねを見上げた。
とっさに笑顔を作ることが、ねねはできなかった。
「風邪をひくといけないわ。戻りましょう」
ねねの祈りもむなしく、雪は激しさを増していく。
儀一がポルカの町に留まっていてくれたらと、真剣に願わずにはいられなかった。
時刻的には、もう出発したはず。
だが、ポルカの町での仕事がうまくいっていなければ、一泊する可能性がないわけではない。
こればかりは、神頼みだ。
――神?
ねねはマンション内のベッドルームで、カミ子に事情を説明した。
そして、儀一を助ける方法はないものかと相談した。
「う~ん、無理じゃない?」
ベッドの上で胡坐をかきながら、カミ子は手酌で酒を飲んでいた。
「そ、そんな」
「山田さんのことだから、予定通り薬を買ってるでしょ? だから予定通り、出発してるよ。しかしまさか、山田さんがこんなところで脱落するなんてねぇ」
ぐびりと酒を呷り、ふうと息をつく。
悲しんだり、心配する様子はまったくない。
「いやはや、これが人の儚さか」
ねねはベッドルームを飛び出した。
「ねね先生……」
リビングでは、子供たちが心配そうな顔で待っていた。
いけないと、ねねは思った。
儀一がいない今、自分が子供たちを守らなくてはならない。
それは、精神的な面でも支えになるという意味でもあった。
「だいじょうぶよ。儀一さんは、きっと戻ってくるわ。それまで、勉強して待っていましょう」
“オークの森”での儀一の態度を思い出す。絶体絶命の危機的な状況に陥った時でも、儀一は決して不安そうな顔やつらそうな顔を見せなかった。
希望や安心感を、みんなに与えてくれた。
だから、せめて形だけでも、見習わなくてはならない。
午後五時。
風が収まり、少しだけ雪の量も減ったような気がする。
しかし、積雪はかなりのもの。
すでに踝が埋まるくらい積もっている。
徐々に、空が暗くなっていく。
崩れ落ちそうになる気持ちを、ねねは必死に堪えていた。
ぱちりと音がして、ねねは我に返った。
暖炉の火が、弱まっている。
いけない。
急いで薪をくべる。
手足がすっかりかじかんでいることに気づいた。
家の中にいても、これなのだ。
外にいる儀一は――
暖炉の前で、子供たちが何やら相談をしていた。
午後五時半、玄関の扉が叩かれた。
弾かれたようにねねが駆け寄って、扉を開ける。
「儀一さ――」
そこにいたのは、タチアナだった。
藁を編みこんだような笠を被っている。
「……あ、ごめん」
焦りと期待に満ちたねねの表情が失望に変わるのを見て、タチアナは気遣わしそうに謝った。
「ギーチ。まだ、戻ってないんだ」
「は、はい」
心配して駆けつけてくれたようである。
「まさか、こんなに雪が降るなんて。今まで、一度もなかったんだ。本当に……」
まるで言い訳するように、贖罪するように、タチアナは言った。
もちろんねねはタチアナを責めなかった。
自分も同罪、いや、それ以上に罪深いと考えたからである。
「アイナちゃんは、だいじょうぶですか?」
「うちは、親がいるから。ギーチが帰ってくるまで、ここで待っててもいい?」
もちろんですと中に招こうとしたが、振り向くとそこには子供たちがいた。
マンション内にあった傘と懐中電灯を手にしている。
「外に、行く!」
まるで睨みつけるように、蓮が宣言した。
まさかこの雪の中、儀一を探しに行こうというのか。
「だ、だめよ。お外は危ないから、ここで、みんなで待ちましょう」
本当なら、ねね自身が飛び出したかった。
風も雪も入りこまない、ぬくぬくとした家の中にいることすらつらい。少しでも儀一のそばに――同じ境遇に、この身を晒したかった。
「それでは、間に合いません」
蒼空が冷静に否定した。
「いくの!」
我慢しきれないといった様子で、さくらが小さく飛び跳ねる。
「だって――」
結愛が言った。
「おじさまに、頼まれたんだから!」




